日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

夜景を眺めながら聴く、東京タワー極上ボサノヴァ体験

2014年10月31日 | 音楽
 横浜から夕刻、京浜急行で品川まで出て反対側ホームの車両に乗り換えると、そのまま都営浅草線に乗り入れていく。大門駅で下車して地上に上がり、増上寺へと至る通りをまっすぐ歩いていけば、右側に花岳院、常照院というふたつのお寺と隣り合わせで煉瓦造りの堂々とした、まるで小ぶりの慶応義塾大学図書館を連想させるような洋館が目につく。ここが有名な高級レストラン「クレッセント」(三日月の意味)だ。いつも外観をながめるだけでもちろん入ったことはないけども、その歴史も含めて気になる建物だ。その前の日比谷通りに沿って伸びた芝公園の楠の大木の黒いシルエットの先に増上寺の山門が見える。視線を右方向上にむけると、覆いかぶさるかのように鮮やかなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーとのご対面!

 増上寺とオリンピックの1964年に開業した東京プリンスホテルの間の通りを抜けていくと、見上げた先に東京タワーがせまってくる。かつて紅葉山と呼ばれた景勝地跡に、東京オリンピック前年の1963年に開業して今年が55周年にあたる。このあたりの景観は、江戸時代の面影から高度経済成長期の時代、とくにオリピックを契機に大きく変わったことが理解される。
 展望券売場で900円の入場券を購入、地上150メートルの東京タワー大展望台に上ってみるのは本当に久しぶり。エレベーターを出ると平日夜なのに意外にも予想以上ににぎわっている。二層ある展望回廊は人工の光の海に囲まれた感じで、超高層ビルがここ20年くらいで随分増えたことに改めて驚く。浜松町の世界貿易センタービルは最上屋がライトアップされていてランドマークのままであるし、その先にレインボーブリッジのイルミネーションも見える。南西の方向には六本木ヒルズ、西方には虎の門ヒルズ、真近の神谷町にはオランダヒルズと、森ビルによる再開発高層ビルがやたらと目につくのだ。オランダ大使館横の芝給水地敷地はビルの谷間のなか、ブラックホールのように真っ暗だ。浄瑠璃寺と心光寺部分も静かな暗黒の世界。
 タワーの足元を眺めると意外にも暗闇、つまり寺社、公園などの緑地が多いことに気づかされる。芝公園一帯はかつての景勝地の系譜をひいているのだろうし、なによりも川家菩提寺である浄土宗大本山の増上寺は戦前までこのあたりの広大な敷地を占めていて、東京プリンスホテルやプリンスタワーの敷地だって、西武資本に終戦後売却されるまではもともとは増上寺境内だったそうだ。
 おもしろいのは、かつてテレビ東京(現東京タワースタジオ)があった建物のとなりの東京タワーボーリング跡地が純日本建築の数寄屋造りの高級料亭「とうふ屋うかい」に替わっていたこと。展望台から見下ろすと暗闇の中に日本料亭らしき建物屋根の連なりと庭園灯が点々とあって、東京タワーとの対照的なな組み合わせに驚かされる。

 さて、本日の目的は単なる夜景観賞というわけではなくて、地上150メートルの都心夜景のなかでのライブがどんなものか、お気入りのアーティストの生演奏で実感してみたかったというわけで、大展望内のライブスぺース“Club333”での中村善郎ボサノヴァ演奏会を聴きにきたのでした。
 久しぶりの善郎さん、共演の長岡敬二郎(パーカッション)とのシンプルな組み合わせ、これが素敵に素晴らしかった。ほとんどがボサノヴァのスタンダード、A.C.ジョビンの「メディテーション」などは文字通り、瞑想しているような夢見心地の世界で、150メートルの空中ライブにふさわしく浮遊しているような心持ちだった。ラストは「ブラジルの水彩画」と「イパネマの娘」でクローズ、素晴らしいライブパフォーマンスで、わざわざ来て本当によかったなあ。

 帰りは、永井坂を飯倉交差点へ下る。右手に木造小屋組の聖オルバン教会の変わらない姿、設計はA.レーモンド。交差点のむこうには、『2001年宇宙の旅』にでてくるモノリスのような黒色の円筒形と下部煉瓦を組み合わせた異形のNOAノアビル(1974年15階建、設計:白井晟一)が墓標のようにすくっと立ち上がっている。地下鉄神谷町駅まではもう近い。

北九州小倉と鴎外、明治の面影

2014年10月24日 | 旅行
 新横浜を発ってから約四時間半、東海道・山陽新幹線が本州西端の山口県側から新関門トンネルを通り抜け、九州に入ってから地上に出た最初の停車駅が小倉だ。ここで鹿児島本線に乗り換えて、戸畑区、八幡東・西区と湾岸沿いに続く北九州工業地帯の工場煙突を眺めながら、JR線は少しずつ内陸に入っていく。その途中の岡垣町で義父の法事を済ませて、ふたたび18日夜小倉へと戻った頃には、すっかり夜のとばりが落ちていた。駅改札から直行のステーションホテル11階の部屋の窓からは港の夜景がきらめいているのが望めた。旅行に出かけた時は大抵翌朝の散歩に備えるため、その日は早く休むことにした。

 翌日19日、まだ夜明け前の薄暗闇の中を起きだす。目覚めのシャワーを浴びてからベッドに戻って窓の外を眺めると、もうあたりは今日の秋晴れを予感させて、眩しさをすこしづつ増しつつあった。ジーンズにボタンダウンのシャツ、ジャケットを羽織ってエレベーターを降り、まだひんやりとした空気の小倉の街中へ歩み出す。ホテルのある駅ビルは三階が駅改札へのコンコースにつながっていて、ビルの中が都市モノレール小倉の発着場にもなっているなかなかダイナミックな造りだ。ベデストリアンデッキからは、モノレール架線に沿ってまっすぐ伸びた平和通りが見通せて、その両側に小倉の中心街が拡がっているのだ。

 最初に、鍛冶町一丁目にある森鴎外旧居を目指す。駅からほど近いここの横町には明治32年(1899)6月に軍医として当地に赴任した37歳の鴎外が一年半ほど居住した明治時代の木造町屋が垣根のむこうに遺されている。広めの庭先には、平屋の瓦屋根と鴎外の胸像を望むことができて、鴎外が好んだという紗羅の木が植えられているそうだ。びっしりと飲食店ビルが取り囲む中、ここだけが明治時代からの異彩を放っていて、夜になればネオンのまたたく賑わいをよそに、ひっそりと暗闇に沈んでいることだろう。その落差を想像するだけで、不思議な感慨にとらわれる。日本近代文学史上の金字塔といわれても正直ピンとこないけれども、このわずか一年半しか居住したにすぎないこの町屋と敷地の存在こそが、いまにつながる鴎外の威光を実感できる空間だ(一昨年2012年は、鴎外生誕150年メモリアルイヤーで文京区千駄木の鴎外が亡くなるまで住んでいた邸宅跡には、区立鴎外記念館が竣工している)。

 旧居をめぐってから、紫川のほとりに近い小倉井筒屋(百貨店)を目指して歩く。昭和のニオイが横溢した感のある小豆色タイルで覆われた巨大な本館と対照的なモダンな新館の間の通りの先に、その名もズバリ「鴎外橋」があって地図上でみつけたときには歴史の古いものかと思っていたら、ここニ、三十年ほどの現代に架けられたものらしい。渡った先に「鴎外文学碑」が建てられていて、まさしくこのあたり、鴎外づくしである。ここ小倉で鴎外は、さきの鍛冶町から駅前の京町の二階屋(現存していない)に転居したあとの40歳のときに再婚し、三ケ月の新婚生活を送ったあと帰郷している。

 対岸方向、青空に向かってそびえている小倉城天守閣(昭和34=1959年再建、今年が55周年)。その手前には木立に囲まれた池泉回遊式の小倉城の遺構庭園が貴重な緑空間を提供している。こじんまりとしているが都市の中の貴重なオアシスで、池に面しては本格的な書院造りが建っている。この建物は正面の広縁が池に向かって張り出していて、そこから殿様気分で庭の眺めが楽しめる。池の先の目線には北九州市役所本庁舎のスマートな姿、昭和時代のデザインをまとった典型的箱型ガラス窓の高層ビルだ。江戸時代の遺構を復元した庭園との対照性が、現代都市ならではのダイナミックさを現していて不思議な感動がある。庭園の反対側には、お城の石垣と濠を隔てて、北九州芸術劇場や美術館分館、NHK北九州、地図のゼンリン本社の入った赤・イエロー・黒が基調の派手な色使いの再開発ビルのリバーウオークがみえる。

 ここ周辺をほんの少しひとめぐりするだけで、江戸(小倉城史跡・庭園)・明治(鴎外旧居)・昭和(市役所本庁、井筒屋)・平成(リバーウオーク)の時代建築がモザイク模様のように点在していて、それを発見し味わうことこそが、街歩きの楽しさだと思う。
 もう、朝八時を回ろうとしている。ふたたび紫川を勝山橋で渡り、通勤の人混みが増え始めた京町銀天街を抜けてホテルに戻る。(2014.10/18、19滞在)

                                            2014.10.23書き始め、10.24初校、10.26改定
  
 

湘南の風光 葉山加地邸

2014年10月06日 | 建築
 6日午前中、昨日からの台風18号は東海地方に上陸したあと神奈川を吹き抜けて北関東に向かっていった。ここまほろ近隣はお昼前からみるみるうちに青空が覗きだし、風も止んできてまぶしい陽光が差し出してきている。


 台風通過前の3日の秋空、イワシ雲?ウロコ雲が拡がる。学校の校庭のクヌギとヒマラヤスギの剪定がすんだばかり


 台風がやってくる直前の4日に早起きして、小田急江ノ島線藤沢からJR横須賀線と乗り継ぎ、逗子からバスで葉山町一色町の加地別邸へ向かう。その日が一般公開の初日、バスは市街地をぬけて134号線の山間を走り、旧役場前停留所で降りて、反対側の南向き斜面の住宅地の狭い間を上っていく。やがて佐島石らしき石積垣の先に擦り減った年代を感じさせる大谷石階段と門柱があって、思いのほか茂った木々の間のその奥に別邸(設計:遠藤新、1928年=昭和三年竣工)は佇んでいた。リュウゼツランの植え込みや南洋植物のシュロが三本アプローチ沿いに伸びていて、保養地湘南の歴史と風光明媚で温暖な気候を感じさせる。
 玄関の左手に突きだした展望室と特徴ある庇に、同じ遠藤新が設計した自由学園明日館講堂との共通した意匠をみる。玄関口は大谷石の階段を数段あがるが、その手前脇右手の大谷石柱の間をくぐり抜けると、あかるさが溢れた南向きの庭園に出てる。ここからは別邸のほぼ全景を見渡すことができる。庭から建物の反対側を振り返ると、木立の向こうに葉山と横須賀境の山並が連なり、右手方向に視線を流していくと相模湾が拡がっている。これ以上申し分のないロケーションと豊かな風光のもとに、別荘は庭に沿って暖炉のあるリビング、三角に突き出た日光浴室が連なり水平に伸びている。銅版屋根の緑色と大谷石の淡い翡翠色、建物のくすんだベージュ壁が軽やかに調和している。その配色を装った外観は海に近いこのあたりの風土に似合ってやさしく、同時に奥ゆかしくもあり、またなんとも美しい。
それぞれの部屋の軒先の外側部分には、部屋の両端を区切るアクセントにもなっている大谷石を組み合わせた列柱が立つ。これって、どこかで見たことがあると思っていると、さきに記した明日館自由学園講堂舞台のプロセニアムと同じモチーフであることに思い当たる。同じ大谷石の列柱は、講堂では室内舞台上、別邸では屋外の湘南風景を演出する一部として存在するのだろう。

 

 ゆっくりと室内をめぐる。タペストリが壁に架けられた高天上のリビングと吹き抜け回廊の造りは、明治村に移設された旧帝国ホテル正面玄関ホールを入った時のつくりを思い起こさせる。遠藤新が別荘の団欒に欠かせないと重視していた暖炉はリビング、ビリヤード室、展望室の三か所に設けられてゐる贅沢さ。リビングの照明、机、椅子などはすべてがトータルにデザインされている。二階の書斎は低めの机にやや高めで住宅などの世間が気にならないよう目線を限って周囲の緑と山並みだけを臨めるようにした測られた書斎窓の高さが絶妙で、これなら集中しての読書や書き物ができそうだ。その隣の西北隅にひらけた主寝室は天井高があり、ゆったりとしていてよく休めそうな開放感が漂っていた。
 しばらくして遠藤現さんがやってきた。今回のご案内をいただいたのは、遠藤新のお孫さんにあたる建築家の現さんからのメールであって、久しぶりの挨拶を交わす。ここは時間の流れがおだやかである。

 お昼前、別邸を出て裏手に回り、葉山三ケ岡山緑地ハイキングコースを真名瀬(しんなせ)に抜けるコースを歩く。途中の山頂付近から木々の間に曇り空のもと一色海岸、御用邸、長者ガ崎さらには遠く荒崎の海に突き出した姿が望めて、湘南の潮騒のさざめきがかすかに聴こえてくる。
 真名瀬に降りて昼食を地元の料理屋でいただき、少し歩いての森戸神社に立ち寄ったら、本殿裏手から江の島の遠望を眺めた。ふたたび海岸通りに戻ってバスを待つ間に、トヨタの高級車レクサスが二台続けて通り過ぎていった。

 
  あいにくの曇り空だけど・・・、下方の白い箱型建物は、旧高松宮別邸後にできた神奈川県立近代美術館葉山。

 
 

 

自由学園明日館 講堂~シルクロード音楽会

2014年10月01日 | 音楽
 よく晴れた初秋の日曜の午後、休暇をとってJR湘南ラインに乗ると横浜から池袋までは意外と近いことを実感する。“ペルシャから東西へ、シルクロードを行く弦の旅”という副題がつけられた、ウード・リュート・19世紀ギター・筑前琵琶とうたが共演する音楽会シリーズ「月の沙漠コンサート」を聴きにいってきた。

 会場となっている自由学園明日館講堂は、遠藤新の設計により1927年(昭和2年)に竣工した重要文化財の建物で、通りを挟んだ向かいにはその遠藤と師匠のF.L.ライトの共同設計による、やはり重要文化財の明日館本館(1921年=大正10年の一次竣工)が池袋の高層ビルを背景に芝生広場を囲んで両翼を拡げるかのようにたたずんでいる。この二つの建物(さらに同時期に竣工した旧帝国ホテル新館=正面玄関部分を明治村に移設)はそのなりたちからして兄弟のようなもの、簡素でありながら調和がとれていて意匠的にも美しく、学園の建学精神である“簡素な生活、高き理想”を現しているかのよう。そこを会場としたサロンコンサートのような音楽会であれば、それだけでもって期待感でワクワクしてくる。

 何度か訪れたことはあるものの、会場内に足を踏み入れると教会堂のようなすこし崇高な雰囲気を感じてしまう。舞台の両側大谷石のプロセニアムの存在感、傾斜のある天上、中央部分が平土間の椅子席、両脇が高土間席で二階席も含めて300席ほどの客席はほぼ満席の様子。少し考えて舞台に向かって上手側高土間の舞台全体がちょうどほどよく見渡せる位置に座ることにした。長椅子席に落ち着くと窓から見渡せる建物周囲の樹木の葉が、午後の陽だまりの中で風にやさしくそよいでいるのが目に映ってきて、ゆったりとした気分になる。この建物空間に独特の抱擁力とおおらかさが感じられるのは、来年竣工後88年米寿を迎えるからなのだろうか。

 音楽会前半は、まずはウードの調べから。ウードはアラビアンナイトにも登場する中近東の民族弦楽器で、大きなイチジクの実のような本体に太めのネックがつき、ギターやリュートなどの源流となったという優美な響き。今回のものは11弦が張られていて、フロント面には太陽と月を模した飾り模様が美しい。トルコの古典器楽曲をふたつ続けて聴く。
 続いて登場のリュートは、形態がほぼウードと同じ、でもその響きはもう少し西洋的に洗練されてかつ繊細な感じがする。カノンで知られるJ.パッヘルベル(1653-1706)の組曲で、タイトルすべてに「恋人」がついているロマンチックなバロック曲。
 前半の最後は、19世紀ギターの伴奏でF.シューベルト(1797-1828)の歌曲を大城みほさんのソプラノで聴く。モダンギターよりも小ぶりで素朴かつ温かみのある響きが、大城さんの澄んでささやくような歌い方にもよく合う。うっとり聴いているうちになんだか首筋が暖かく感じられ、ああ音楽のせいかしらと思ったら、午後の傾き始めた初秋の陽光が差し込んできたためでした!
 
 後半の最初は、窓にブラインドが下ろされて舞台に照明が当てられ、ウードの伴奏で童謡「月の沙漠」から始まる。大正12年(1923)つまり、関東大地震の年に発表されたこの童謡は、房総御宿海岸の砂浜の情景からから着想を得たものだそうで、アラブとオリエンタルの世界が混じったなんとも懐かしく不思議な印象の曲調だ。あらためてウードの調べにこの歌詞を聴くと、月のひんやりとした光のもと沙漠をしずしずと進んで行く二頭の駱駝に乗った王子とお姫さまを描いたアンリー・ルソーの絵画のような静謐な情景が浮かぶ。内陸の砂漠ではなく、あくまでも海岸沿いに拡がる“沙漠”の風景。日本には駱駝はいないはずだが、シルクロードから大陸を隔てて空想の世界で東洋の果ての日本とつながった情景なのだろうか?
 ふたたび、ウードによるソロがあり、次はいささか振幅の幅が大きい感はするけれど、歴史的にはアラブ民族弦楽器をルーツとして“縁(えにし)の糸”のつながりで結ばれた筑前琵琶の登場で、平家物語の語りを聴く。そしてウードとソプラノでアラブ歌曲が歌われ、盛りだくさんの舞台の最後はすべての縁の糸=弦楽器が登場しての合奏とうたでフィナーレ。

 すこし涼しくなり始めた帰り道、JR山手線沿いを目白駅を目指して歩く。道中、“縁の糸”か、そういえば、竹内まりやの新アルバム「TRAD」最初の曲は、まさしく「縁(えにし)の糸」だったな、なんて思いながら駅前までくると、学習院正門の向かい側、かつての「コマース」という商業ビル跡に、駅舎横のJR系列ホテル「メッツ目白」とはいい並び感で、新しいレンガ外壁のシックな四階建てビルがほぼ完成して外観が望めるようになっていた。何気なくビル名を見るとなんと!「TRAD MEJIRO」と書かれていて、そのあまりの偶然にオープニングテーマ曲?としてどうかしらと思ってみたりして。
 帰ってからこの商業施設HPを見ると「TRAD=伝統的な変わらぬ良さを意味し、目白の暮らしや歴史、自然を守りながら地域とつながり、まちの文化を創造・発信する施設になるという思いを込めた」とあって、尾張川藩当主がお住まいの川ビレッジはすぐ近くだし、椿山荘やかつての目白文化村の伝統もある目白ブランドを捉えた真っ当なコンセプトに素直に感心してしまった。
 ちなみにテナント構成はというと、高級スーパーマ―ケットの伊勢丹クイーンズ、札幌から宮越珈琲店、原宿に本店がある広東料理の南国酒家、イタリアンレストラン、コンビニエンスストア、、医療機関、地階には地元小林紀子バレエスクール(以前のビルからあった)、そして2フロアを占めるのが結婚式場である。目の前の学習院や川村学園の卒業生をターゲットにしているのだろうか?このテナント構成、はたしてコンセプトにかなっていて地域住民を満足させることができるのかどうか。

 「TRAD MEJIRO」の開業は11月20日、この先ちょっと気になることではある。(書出し9/30、初校10/1)