日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

新緑 MARIYA´GOODS

2015年04月29日 | 日記
 
 四月上旬、大学時代の友人がハワイから帰省していて久しぶりに再会することができた。彼は滞在中、JRフリーパスを使ってまるで異邦人のように日本各地を巡って桜見物にいそしんでいたのです。その訪問地のひとつが、島根の出雲地方だったので、現在も活躍中のご当地出身同世代アイドル?のご実家である出雲大社前の老舗旅館に寄ってもらい、記念品を買ってきてもらうように頼んでおいた。
 残念ながら宿泊した人以外の入館は不可でそれは果たせなかったけれど、ハワイからきたのだと粘ってくれた末に通信販売を案内されたそうで、この機会に思い切ってストラップと小型ノートを取り寄せをしてみた。そうしたら、なんとゆうパックで先日届きました。送り元は「出雲大社正門前 政府登録国際観光旅館」竹野屋さん、手書きの便箋のお手紙つきで(書いてくれたは従業員の方?)。アイスブルーのティファニー風のストラップ、さっそく携帯電話アクセサリーに取り付けてみたが、ちょっとうれしかった!


四月になれば APRIL COME SHE WILL

2015年04月24日 | 音楽
 朝日の爽やかな午前中、ふと思い出して引っ張り出してきた、サイモン&ガーファンクルのアルバム「サウンド オブ サイレンス」(1965年)九番目のトラックは、この季節にふさわしい「APRIL COME SHE WILL」、“四月になれば彼女は”というタイトル。
 同曲は、作者ポール・サイモンの同時期にリリースされたソロアルバム「The Paul Simon song book」のなかの四番目にも収録されている。わずか二分弱の短い曲だが、半年の短い時の経過とともに移り変わる恋人同士の関係性を月名称が韻を踏んで繰り返される印象的な歌詞にのせて美しく謳われる。永遠の青春時代の名曲のひとつ、といって良いだろう。

 あらためてその歌詞を聴き直してみると、とても不思議な内容であることに気がつく。はじまりは四月、僕のもとに彼女はやってくる、五月になれば彼女はここに落ち着くだろう、ぼくの腕の中でふたたび眠りながらと、ここまではいいのだが、六月になると彼女の気分は変わって落ち着かなくなり、七月彼女は予告なしにどこかへ飛んで行ってしまう。そしてなんと、八月に彼女は死んでしまい、九月になると僕はこれまでの愛を回想していて新しい成長を予感する、といった内容だ。その先にはまた冬を通り過ぎてやがて早春に至り、ふたたび彼女と出逢うのであろうかと思わせるような仏教における“輪廻再生”的な余韻を感じさせる世界がひらけている。
 どこかミステリアスな世界観は、村上春樹「ノルウェイの森」のワタナベ君と直子の関係を連想させて、新学期に大学キャンパスで出会った若者たちの繰り返される出会いと成長、別れの風景にふさわしい。もしかしたら、この曲は「ノルウェイの森」のモチーフのひとつになっているような、そんな気もしてくる。おそらく村上春樹は、ポール・サイモンを意識しているであろうし、そもそも両者はそのずんぐりした風貌や生まれと育ち、ノーブルで知性的な作風はもちろん、支持するファン層からして類似しているのではないだろうか。

 もうひとつ、S&Gの1964年のデビューアルバムのタイトル曲「水曜日の朝、午前三時」という曲について。こちらは、若気の至りで窃盗犯罪に手を染めてしまった若者が、真夜中にベットの隣で眠っている恋人の寝顔を眺めながら後悔の念にかられて夜明け前にそのもとを去っていくであろう情景を歌っているやさしげなメロディーが印象的な曲。ここでの水曜日にはどのような意味が込めらているのだろうか?休日明けから始まったウイークデーの中日、週末までにはまだ数日あり、どちらつかずの中途半端な曜日に若者の漠然とした不安や閉塞感を象徴させているようにも思える。そして午前三時はふつうは深く眠りに落ちている時間帯、この時間に目覚めてしまうなんて!最近の私みたいな気がして何があったんだろう、と。やっぱりね、嵐が吹いて遠くで雷が鳴り、光っていたのかもしれないし。
 
 ほかに曜日がタイトルの印象的な曲といったら、カーペンターズが1971年にリリースした「雨の日と月曜日は」がある。週明けの月曜日、雨の日と同様に感じるメランコリーな感情をほのかな恋愛感情に重ねて謳ったもので、イントロで流れるハーモニカのメロディーが印象的な曲だ。週末、主人公になにがあったのだろうか?日常感情のちょっとした行き違い、あまりふたりの関係はうまくいっていないのだろうか、あるいは倦怠期を迎えて何か新しい局面を期待しているのだろうか、この週明けの憂鬱で複雑な気分はそのせい?そんな大人びて聞こえる内容のビター&スウィートな曲で、今週の月曜日は曇りのち雨模様、まさしくこのタイトル曲にふさわしい天候なのでした。

 今日は金曜日、春爛漫の季節にふさわしい天気で庭の花水木やツツジが美しい。そろそろ、部屋を抜け出して近くのまほろ牡丹園を訪れて、いまが見頃の大輪の花々を眺めてこようか。

(2015.04.19書始め、04.24初校)
 

齢を重ねることで気づく旅  京都庭園篇 

2015年04月10日 | 旅行
 旅の三日目、最終の日。山科をでて京阪電車で「蹴上」下車、ウェスティン都ホテル京都の和風別館佳水園へ、二年ぶりの再訪だ。


 ※2013.03.24 撮影
 
 ホテルのメインロビーから七階に上がって一度宿泊棟の外に出て、屋根つきの通路の下を進んでいき、やがて見えてくる茅葺屋根の門をくぐると、薄いカミソリのような軒先が低く連なる数寄屋造別館と東山の岩肌をそのまま生かした庭園が現れる。もともとは政治家清浦圭吾別邸だったところで、大正14年(1925)に八代目小川治兵衛、通称“白楊”が琵琶湖疏水を引き込んで作庭したものに、昭和34年(1959)村野藤吾がコの字型に配置した近代数寄屋の建物とあわせて、芝生に白砂敷の中庭をつなげる形でモダンにデザインしたもの。緑で表現されたのは瓢箪と杯であり、植治の庭の岩石から流れる疏水を酒に見立てていて、なかなかシャレている。村野は先人の遺産を生かし、そこに自分の創意で新しい魅力を産み出すことにも実に長けている建築家だと思う。数寄屋建築の銅屋根の緑青色の重なりが連続して流れる華麗さと各部屋の窓の縦格子に壁面のベージュ色の比の美しさは比類がない。色彩と形状比の両方において完璧な建築だ。庭は、芝生が成長した新緑の季節がひときわ美しいだろう。


 次は南禅寺ちかく琵琶湖疏水のすぐ脇にある、無鄰菴
 
 
 七代目植治の初期代表作。もとは山県有朋の別邸庭園で、明治27年(1894)から35年(1901)にかけて作庭されたとあり、まさしくニ十世紀初頭の日本庭園のさきがけにふさわしい。作庭にあたって施主から三つの注文を取り入れたそうで、一つ目は芝生の明るい空間を作ること、二つ目はそれまでの寺社の庭の脇役であった樅、檜、杉といった木々を生かすこと、三つ目は当時の明治近代化の象徴でもあった、琵琶湖疏水を引き入れること。この三つの課題を見事に調和させ、まち中の立地に周囲の自然を取り込み、開放的で明るい近代庭園として表現してみせたのがこの無鄰菴ということになる。じつは、はじめてこの庭園に接した時は、なんとも凡庸な借景庭園だとしか理解できていなかったが、いまじわじわとその時代背景と植治の想いが伝わってくる。やはり七代目もするどく時代精神を体現した人物なんだな。もうひとりの気になる昭和の作庭家重森三玲は、モダンな枯山水や石庭が特徴だけれど、ふたりの対比が時代の移り変わりを反映していて、とくに草木、自然観の違いが興味深い。
 このすぐ隣には懐石料理の老舗の瓢亭がある。入口に下がるハタノレンと玄関先の壁に吊るされた草鞋が南禅寺参道に面した茶店だったなごりを遺している。いつかの機会、こちらの朝粥定食を夏の早朝、陽が上る前のひんやりとした頃にいただいてみたい。


 旅の最後のしめくくりに、フィックションと実在、江戸ゆかりの歴史的人物銅像を並べて掲載しよう。

 まずは、旧東海道の終点である京都三条大橋西詰にたつ、「東海道中膝栗毛」の主人公弥次さん喜多さんの像。ずうと前からあったと思い込んでいたら、平成にはいってからの建立なんて意外!この作者、十返舎一九(1765-1831)の辞世の句が好きだ。
 「此の世をば どりやおいとまに せん香とともにつひには 灰左様なら」

 ※「YAMAKAN 2015.2 ヤジキタコーナー」より。この写真をみて実物像に対面したくなった。
 
  こちらは実在の相州小田原は栢山村出身の偉人、二宮尊徳こと金次郎像。京都の旅を振り返るにあたって、どうして小田原の偉人なのかっていうと、東海道の起点江戸日本橋から途中の程ヶ谷や相州小田原を経由して、辿り着いた終点が京都三条大橋の弥次喜多像であれば、勤勉な金次郎少年像に敬意を表し、神奈川を代表してもらうことで、最初と最後の帰結点がつながるだろうと思ったから。こうして並べてふたつを鑑賞してみるのも面白い、歴史はそして旅の思い出は様々な要素で振り返られるものなのです。



 JR小田原駅コンコース南口側に城郭を望んで建つ金次郎少年も平成の建立。

 (215.04.10初校、04.12改定追記) 

齢を重ねることで気づく旅  京都篇

2015年04月09日 | 旅行
 旅の二日目午後。山科から地下鉄乗り入れで京阪本線へ、そのまま乗車していくと大阪につながっていて淀屋橋が終点だ。七条駅で下車して、右手に七条大橋と鴨川の流れを眺めながら通りを左折、京都国立博物館へと歩み出す。途中、うなぎ雑炊の老舗「わらじや」の変わらないしもた屋風たたずまいにほっとした。和菓子の七條甘春堂の前を通り過ぎ、七条通と大和大路との交差点までくると、威風堂々とした博物館が見えてくる。

 赤レンガ造りの本館は、明治30年開館のネオ・バロック様式の重要文化財建築物。昨年開館の平成知新館入口は七条通りに面していて、正面ゲートは蓮花王院三十三間堂の大門方向と対峙して設けられている。敷地内はかつての方広寺境内だそうで、新館前人工池やエントランス部分に金堂柱跡が痕跡として記されることで、歴史的記憶が継承されている。谷口吉生設計の長形横長のモダンでスマートな建物、コンクリート打ち放しにステンレスの列柱と薄い庇、ベージュの石版を張ったファサードが、赤レンガに石造りの本館と鮮やかな対照をなしていて、すべてが端正で美しい。人工池とその庇のむこうに和蝋燭のような京都タワーが望める。薄曇り空からほんの少しうっすらと日差しが街中に注いで、建物前の人工池水面に映り込んだ曇り空が波紋状に揺れる。ああ、京都にいるんだ、という実感がふつふつと沸いてくる。



 広い前庭正面には噴水があって、その脇にはロダン「考える人」像がたたずむ。ひとしきり入口前を歩き回って建物を眺めてから館内へと進む。完成したばかりのすがすがしい空間に、「春も京博、名品ギャラリー」と題した展覧会のための収蔵名品がゆったりと並ぶ。途中、疲れてベンチに座ったまま、気が付くと眠ってしまっていた。しばらくして目覚めてあたりを見回し、手元の本に貼られた付箋に書き残してくれたメモに気がつき、先に見学を終えてミュージアムショップ前で待っていてくれたMと合流してふたりで博物館を出る。

 先ほどの七條甘春堂に立ち寄って麩饅頭を買ってもらい、八坂神社へと向かうバス中で頬張るのも旅道中の醍醐味かもしれない。祇園でバスを降りて八坂神社脇を通り抜け、京郷土料理いもぼうの平野屋本店へ。ここも変わらぬ佇まいで、ゆっくりと夕食をいただき、店を出るともうあたりは夕暮れ時となっていた。そのまま誘われるように円山公園方向へ歩むと、ゆるやかな傾斜のある回遊式庭園に点々と灯籠が広がる風景がひらけてきて、人通りがにぎやかになる。ここの庭園は、七代目小川治兵衛が明治時代に作庭した市内最古の公立公園で、桜の季節には早かったけれど、冷え込みのなかの灯りが暖かった。暮れかかった西方の空は今宵最後の澄んだ光りを放って、周りの木々のシルエットがくっきりと浮かんでいた。


  円山公園枝垂れ桜のシルエットの先に、宵の明星が輝く。忘れられない夜景。


 浄土宗総本山の知恩院へと進む。宿坊和順会館は新装なって華やかな感じで、そのすぐ隣の山門前では人だかりである。何かと思ったら、京都国際芸術祭2015“PARASOPHIA”関連のアートイベントが開催中で、和太鼓と津軽三味線にベース、シンセなどの和洋楽器が奏でる音楽を背景にして、琳派400年俵屋宗達へのオマージュらしく、雷神風神図をサンドアート影絵で描いていた。しばらく楽しんだ後、すっかり綺麗に整備された参道を下り、東大路を三条大橋に向かって歩く。

 三条駅前には、現代枯山水のZEN禅庭園を囲んだショッピングモールがあった。春物のショールを買い求めたいと言ってたMと、その中の和装店に立ち寄り、しばらくして春物を軽やかに装って店を出た先の鴨川の対岸には、暗がりの中に先斗町歌舞練場が見えている。三条大橋を渡ると西詰たもとが旧東海道の終点にあたる。到達の記念に、弥次さん喜多さん像を探して対面をはたすが、その前ではストリートミュージシャンがにぎやかな人だかりを集めていた。通りの向こう側に渡って、手ほうき専門の内藤利喜松商店の職人技が光る品々のディスプレイに魅せられてしばらく覗き込む。すぐ隣が豆菓子の船はしやで、ここで“古都五色豆”やせんべいを買い求めてから、鴨川べりを望むカフェで一服すると、ガラス窓の向こうには、沈んだ流れの川面に両岸の建物外灯とネオンが映ってゆらゆらと煌めく。
 その情景を横に並んで眺めながら過ごす時間の重さ、これからさきの深く、長い夜。 Kyoto 週末 弥生 2015。

  (2015.04.09初校、04.10校正、04.12修正)