日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

2017年夏至 ”my sky hole 88 .4”

2017年06月30日 | 美術
 そのステンレス製の球体彫刻は、まほろ公園の中の小径入口にあって、レンガタイル床の展望広場の中心に佇んでいた。あふれる木々の緑に囲まれた所に立ってみると、初夏の深い森を上から覗き込むような、そんな錯覚にとらわれる。
 
 金属球体の表面は、周囲の空と森を映した地球儀のよう。この球体のある展望広場から下っていくと、薄ベージュ色レンガの躯体と薄青緑色屋根の版画美術館へと至る斜面の小径。その球体の中心を貫いて、前方斜め上方向、天空に向かって穿たれた空洞がある。球体彫刻の名前は、”my sky hole 88.4”、数字は時の流れを記憶しているとすると、来年がこの森にきてから三十周年になるのだろう。

 深夜になって森の暗闇と静寂のなかで、その金属球体は穿たれた空洞の先に北極星を捉える。球体の表面に映した森の影と星座に触れてみる。金属球体は微かな振動を帯びていて、それは天空を超えて遥か上野の森と交信を行っている。上野の森にあるレンガの美術館の中庭には球体彫刻の分身が鎮座していて、多摩丘陵のさき、ここの森の中の球体彫刻からの振動に共鳴しているのだから。

 森のざわめきの中にかすかな湧水の流れが聴こえる。夜行性のふくろうが獲物を求めて、展望台のさきの大木の伸びた枝の影にたたずんでいる。遠くで私鉄電車の終電が通り抜けていく音がする。

 夏至の日、一年で一番夜の時間の短いその当日、森の展望台広場の球体彫刻は、天体観測の安息日を迎える、翌日からの夜の時間の長さの回復を祈って。

(2017.06.25書出し、06.30 初校)

文学館・美術館と版画工房めぐり

2017年06月21日 | 日記
 ようやく、という感じで梅雨らしい空模様となった休日の午前、大学生の娘のパソコンを購入するため、親子三人そろって車に乗り、となり町の大型家電店へでかける。
 国道16号線を超えてしばらく下り、新しくできたスーパーマーケットをすこし先に進むと、ターミナル駅に隣接した大型家電店だ。ここの立体駐車場への連絡通路は、ループ状となっていてグルグル旋回して昇っていく。パソコン売り場のなかでも良く目立つアップル社製品展示コーナーで、さっそく若いスタッフがさりげなく説明をしてくれる。いまの若者のお目当てはやっぱりアップル、娘は少し考えてから、もっともベーシックな「マックブック・エア」を選び、いっしょに携帯用カバーと周辺アクセサリを購入する。ほう、これでもってめでたく我が家にもアップルPC、娘のおかげで我が家のパソコンも三台目でようやく世間並み?になったみたい。
 お昼、その大学生のご希望でお気に入りのラーメン屋へ行き、すこし並んで待ち、看板メニューの鳥肉入り塩ラーメンをいただく。わたしたち二人組はカフェでひと休みすることにして、娘は約束があるらしく、ここでお別れ。

 いったん家に戻ってから、前から行こうと思っていた展覧会のハシゴをするため、ひとり車を走らせる。雨が降り出してきた中、市街地のはずれにある公園入口脇に車を止めて、まほろ市民文学館「ことばらんど」で開催中の『本の雑誌 厄よけ展』へ。ことし創刊42周年を迎えたユニークな書評誌の草分け「本の雑誌」の歩みとそこをめぐる様々な有名無名人物ネットワーク模様が紹介されている。
 思い起こせば学生時代に本屋で時々手にしたことがあった気になる雑誌のひとつで、編集長の椎名誠は知られているけれど、ヘタウマ表紙絵を描いていたイラストレーターと発行人がまほろ在住ということで実現した展覧会、毎年話題になる本屋大賞の事務局がこの本の雑誌社というのも初めて知った。当時はユニークすぎてあまり深入りすることもなく過ぎてしまい、すっかり忘れてしまっていた。そのことを我ながら残念に思ったけれど、こんなところで再び出会うなんてね。

 傘を差しながら公園入口まで戻り、雨に濡れた森の小道をくだって、横尾忠則「HANGA JUNGLE」展を開催中の版画美術館へ到着。なにやら入口に人だかりがあって混雑しているので、さて講演会でもあったのかなと思っていると、ご本人のサイン会が終了したばかりだった。エントランスの垂れ幕には極彩色のポップな絵柄がこれでもかというばかりに並ぶ。このエネルギー、今の自分に受け止めきれるかなあと思いながらも、半分わいもの見たさ?で館内をめぐる。
 
 途中に黒暖簾が下がったコーナーがあり、アダルトグッズかアダルトビデオコーナーみたいだなと思って入ると、まさに性風俗ショットをポップなシルクスクリーンの手法で写し取ったもの。入口の暖簾の片方が微妙にめくられて、ちらりと中を覗いて見れるようになっているのが妙におかしかった。これがもし意図なくて行われていたとしたら、皮肉ともいえるそのあまりに素直な欲望の誘導に拍手を贈りたいし、意図されているとしたら、そのパロディまがいの凡庸さにため息がでる。
 ここの一連の作品は、男女が絡まる画像のリアルな生々しさが消えてしまって、浮世絵の春画のように情感あふれる精緻さとも異なり、表情なしに本能を謳歌する性愛の記号となっている。

 さて、帰ろうかと思って入口に戻ると背中の方向から呼び止められる。その思わぬ声の主は、美術作家のMさん、ここの市民ギャラリー展示会に作品を提供しているとのこと。それではと拝見すると、一点はブルーのプリント紙篇のコラージュ、もう一点が思い出せないのは、Mさんの明晰な創作話に聴き入ってしまたからだろうか。その創作過程のエピソードは生き生きと豊かであって、元気な生命力をあたえてくれるかのようだ。
 しばらくして美術館を後にして、木々の緑あるれる小路をめぐりながらの近況よもやま話は続き、公園脇に停めたグリーンデミオまで戻る。ご自宅の最寄り駅までお送りする途中、この機会にぜひとのことで、版画工房KAWARABOへはじめて立ち寄り、プレス機の並ぶ工房を見学させてもらう。インクの匂いがする独特の空間、ここから様々な版画プリントが生まれていく様子を想像してみるのは楽しい。壁にかけられた展示チラシ、棚の工具類やオブジェなど眺めているだけで、モノが自然と語り出すような想像力が刺激されて不思議な気がした。

 ふたたび駅まで向かう車中の話、Mさんは今月下旬に京都へ行かれるという。行きつけのレストランに作品を展示してもらおうしている話や京都暮らしの娘さんのフランス行きの話、その間猫との留守番役をするために京都へおでかけすると伺って、その気兼ねなさがうらやましくなった。
 駅近くでお別れする前に、その娘さんがフランスの友人へプレゼントするために依頼され制作した、絵巻ものと和紙折りの作品をそっと見せていただく。そこには墨で般若心経の文字と数羽の行き来した雀の姿が描かれていた。心経の文字が宇宙の真理を表わしているかのよう、雀は自然の世界そのものだろう。はたしてフランス人にはどのように映るのだろうか。 

穏やかで平凡な休日がいい

2017年06月14日 | 日記
 ウイークデーの中日にあたる振替休日は、さわやかな陽光で晴れ晴れとして気持ちのいい朝となった。こんな日はゆったりと気分よく過ごそう。目覚めに野菜ジュース、そしてオープンサンドの朝食、あたたかい緑茶をいただく。

 きょうは、午前中の通院と夕方の歯科検診の予定がある。その間は何をしてもいい自由時間だから、久しぶりに車を運転して、お昼はどこかで外食をとり、すこし離れた展望塔のある大きな公園へ行こう。そう決めて、これから目を通したい本と見たい映画情報について確認をすることに。
 インターネットで平凡社からでているコロナブックスのシリーズ、二年前に出版された「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築」を探す。京都と大阪の境目、大山崎町の丘の中腹の森の中にある。かつてすぐ近くまで辿り着きながらも眺めてみることが叶わなかった住宅建築、その立地そのものが大変に展望が開けて素晴らしい。入ることのできなかった大広間のガラス窓からの眺めはすばらしいだろう。いつかふたたび訪れて中に入ってみたいと思っているけれど、すぐには難しそうだ。まずはそのたたずまいと空間を本で確認をしておきたいと思う。
 ついでながら眺めると、このコロナシリーズ、内外の旅への誘い、日本歳時記や重森三玲、茨木のり子、パウル・クレーを巡る冊子など、ほかにもなかなか魅力的なタイトルが並ぶ。きっといつか手に取ることになるだろう。本の世界の次は「午前十時の映画祭」の上映予定ラインナップを確認して、見たい作品をピックアップ、今後のスケジュールの見当をつける。これからの梅雨の時期の午前中のお楽しみの過ごし方になるだろう。

 予約時間が近くなったので、読みかけの本「奇跡の自然 三浦半島小網代の谷を“流域思考”で守る」を持ってちかくの病院へ、待合い時間中に目を通す。受診後にいったん支度に戻ってから車で移動して公園とむかう途中、お目当てのオリエンタルレストランへ。お店の前の駐車スペースはいっぱい、それではと迂回して反対側の駐車場へ入れるために前を通りかかると様子がいつもと違う。なんとそのレストランは閉店してしまっていて、別のお店に変わっていたのだった。ベトナム・タイ料理のメニューはもちろん、インテリアもスタッフの接客も丁寧、お気に入りで何度も通ったレストランだったのに、なんとまあ、茫然自失とはこのことだろうか。行きつけのお店が移転ではなく無くなってしまうのは、本当に哀しい思いがする。

 しばらく郊外へ走って公園へ到着。駐車場を進んでいくと同じデミオグリーンが停まっていて、そのすぐ横がちょうど空いている。並んで停めて車のエンジンをきる。同じ相模ナンバーで、番号四ケタの並びも三ケタまでいっしょ、こんなおもしろい偶然もあるものだ。
 公園の緑陰広場ベンチで、アイスカフェを飲みながらさきの読書の続き。ひんやりとした空気、周囲の紫陽花が色づいて見ごろとなっている。しばらく読み進めるうちに、久しく訪れていない小網代の森と干潟の自然にまた触れてみたくなった。
 せっかくなので公園を横切る水道みちを三百メートルほど歩いて、水無月園と呼ばれている花ショウブ田圃を眺めにいく。ちょうど見頃の時期を迎えていてあたり一面の紫、白、そしてすこしの黄色の花々。たしかに見事ではあるけれど、年々ほころびが目につきだしているのが残念だ。何事も日頃の手入れが大事なのはいっしょで、せめて開花の時期、田圃の給水だけでも行き届かないものかと願う。

 夕方、戻っての一年ぶりの歯科検診、歯石をとってもらいすっきり。終わって向かいの陶器店に立ち寄り、いつも見かける老主人とさりげない話をしながら、すこし深めの飯茶碗ひとつと瀬戸焼の湯のみをふたつ求める。地元商店での陶器買いはほんとうに久しぶりだ。この小さな商店街も代替わりしてテナント貸しが増えてそのまま商売を続けているのは、こちらの陶器店と日本茶専門店、靴屋に畳屋、少し離れた和菓子、八百屋くらいだろうか。お隣の南林間が本店の欧風菓子クドウは学生時代からのおなじみで健在だ。いついっても気持ちが良くて上品な店内の雰囲気、ケーキならここだ。


もとめた湯飲み茶碗、有田焼の粉引仕上げ


 帰り道、踏切を渡って病院の裏手を通るとそこはぐるり無粋なフェンスで囲まれ、敷地内の豊かだった木々はすっかり伐採、整地されてしまって、まもなく高層マンションの建設がはじまろうとしている。はりつくように新しい小さな提供公園が整備されて、そこには名残りの桜とケヤキの大木がそれぞれ一本づつ残されいた。
 ここも大きく変わってしまって、変わらぬものは一直線に伸びる小田急線線路(昭和4年開通)と水道みち(明治20年導水)の新旧ライフラインか。その「よこはま水道みち」は、このさきの旧津久井郡の道志川まで伸びる。

 この季節、陽は長くなってもう夕方六時になろうとするのにまだ空は明るい。
 

時の記念日とスローライフ

2017年06月10日 | 日記
 水無月十日は「時の記念日」。前日の九日の仕事帰りに見上げた南の空の方向は雲が切れていて、くっきりとした満月が望めた。その月明かりは、翌日のからりと晴れた暑い一日への予兆だった。時の記念日にまつわるエピソードをしらべてみたら、制定は意外と新しく1920年の大正時代のこと、文部省国立天文台の旗振りで、日本書紀の中の天智天皇にかかわる水時計の記述にもとづいて定められたのだそうだ。たしかに天文学と時の流れには結びつきがあるよなあ。

 この日と重なる今年で22回目のメモリアルデーは、梅雨の合間にからりと晴れた気持ちのよい真夏日の一日となった。何をして過ごそうかと昼前、思い立ってささやかな昼食会と映画を見に行くことにした。自宅から続く緑道の木陰を自転車で走るときに、さわやかな風が流れていくのを感じる。つきみ野駅近くの蕎麦屋へ到着、ここは店名「ほりのうち」にあるように、経営者が新潟ゆかりのお店だ。入口の壁面には、淡い青緑色の大谷石が貼られていて、ガラス窓には簾が下がり、落ち着いた雰囲気の店内。中央には電動の石臼が回っていて、その場でそば粉をひいている様子を小さい子供が「がんばれー、かんばれ」といいながら眺めている。ふたりでかき揚と天ぷら盛り合わせに蕎麦の昼食をいただく。蕎麦は冷たくほんのりと青緑色に締まっていて、さきほどの大谷石の色を連想させるのがいい。お会計はちょうどの三千円なり。ささやかな記念の会食のひととき、いまの身の程に見合っている。

 ふたたび、自転車で五分のショッピングセンター内映画館へ。ちょうどここで上映中の「ターシャ・チューダー 静かな水の物語」(2017年、配給:KADOKWAWA)を見る。絵本作家として知られるターシャへの10年間の取材をもとに、とても丁寧に作られた映像詩のようなドキュメンタリーである。昨年は、ターシャの生誕101年目にあたり、まほろデパート催事場での巡回展覧会が開催されているのを見ることができた。そこではじめてその名を知り、彼女の確固とした生き方と旧くて新しい暮らしぶりにいたく興味を抱かされたのだ。どこか郷愁を誘うようなまっとうな田舎暮らし、それは私自身の田舎の小さいころの暮らしを思い出させるところがあったからだろう。

 スクリーンいっぱいに映し出されるのは、アメリカバーモンド州の山奥にある平屋建て木造民家の周囲にあふれる豊かな緑の木々と花花の風景。18世紀築の友人宅を模したという家のたたずまいは美しく、その家屋の庭園は野草と園芸植物が適度にまじりあって、とても満ち足りた豊かな生活感があふれていた。新鮮な食材で作られた食事、完熟したリンゴを絞って流れだすジュース、蜜蝋に浸してつくる天然ローソク作り、クリスマスのしつらえ、暖炉の前で手作りの人形によるマリオネット劇場を楽しむファミリーの姿。そこに添えられた音楽は、繊細かつ控えめであり、映像をいっそうひきたたせる。
 劇中、ターシャの生い立ちが紹介される中で、H.D.ソロー(1817.7.12-1862.5.6)のことばが引用されていて、ああなるほどねって感じ入ってしまった。やはり、このふたりの生き方には時代を超えて共鳴し合うものがあると思っていた。つぎのソローのことばは、自然に寄り添って暮らしたターシャにこそふさわしい。

 「この広い花園を歩き、自然の穏やかな力と荘厳なもろもろの啓示を深く感受するために」
 
 ターシャの父親がマルチな才能を発揮するヨット・船舶・飛行機などの製造技師で、母親は「肖像画家」というのもおもしろい。その遺伝子は、絵本作家としての才能として受け継がれていっただろうし、なによりもターシャの暮らし方そのものが真実であり、創造性にあふれていた。彼女が“サイレント・ウオーター教”と呼んだその生き方の信条は「静かな水のように穏やかであること。周りに流されず自分の早さで進むこと。」

 人生は短いのだから自分のこころの真実の声に耳を澄ませ、良く考えて選択をし、人生を存分に楽しむことが大切と。ターシャは問いかける、「忙しすぎて(余裕を失い)こころが迷子になっていない?」って。


 
 ミミズク対談はここで行われた? 大磯鴫立庵のちかくで。