日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

丹沢山麓温泉新緑湯あみ

2016年04月22日 | 日記
 新緑のグラデーションに彩られた山笑う、の時候である。

 厚木の奥座敷、七沢温泉の元湯玉川館へ日帰り入浴に通って、そのたびに集めていた「しるし帳」が、このたびめでたく十回目を数えて満願成就となった。それであらためて初回スタンプ日をみると平成13年11月26日とある。なんと14年5か月かかってのことで、途中の押し忘れがあるにしてもよくもまあ途中でなくすこともなく通い続けたものだと我ながら感心してしまった。あのころまだ四十代前半で若かったなあ、と感傷的になる反面、大してそのころと進歩していないじゃないか、とも思ったりしている自分がいた。

 市街地をぬけて新玉川沿いの道を走り、七沢温泉への道の手前を小野の分岐点で右手に入る。しばらくするとゆるくカーブする計画道路にそって新興住宅地と企業研究所、学校などが計画的に配置された区画、森の里という地域にでる。かつては青山学院大学のキャンパスもあったのだけれど、まあ、青山という名前にはふさわしい環境ではあったのに、あまりにも郊外すぎて学生たちに人気がなかったからだろう、たちまち撤退してしまって、その名残が森の里青山の地名に残っている。それにしてもキャンパス内の当時からの建物は、ほかの企業研究所か、となりにある松蔭大学所有に変わってしまっているのだろうか。
 こぎれいな住宅地は一見平穏無事な雰囲気ではあるけれど、いかんせん計画された人工空間の哀しさ、身近な買い物や飲食には不便そうで、あと二十年くらいもすれば住民の高齢化とともにさまざまな暮らし上の課題が押し寄せてきそうな予感がする。

 住宅街の中ほどから隧道をぬけると七沢森林公園へとつながっていく。森林公園の標高160メートルの展望広場からはまっすぐ先に大山の頂が望めた。尾根から沢沿いにくだってもとの駐車場に戻り、車をすこし走らすとちょうどお昼前に玉川館へ到着した。ここはいつ来てもすっきりした佇まいで、清々しい印象なのがいい。さっそく玄関の麻の藍染暖簾をくぐって、入浴を申し出る。
 建物の奥へと進んださきの浴場の脱衣場には、まだ誰の姿も見えない。どうやら平日ということもあって一番乗りみたい、室内床天上総檜つくりの浴場を独占する贅沢さにちょっと心が弾んだ。中央には木製洗い椅子と桶がきれいに整えられていて、まずは座って湯かけして体をなじませる。漆仕上げの赤味がかった暗黒の浴場の温度はやや温めで、ゆったりするにはちょうどよくてそこにしばらく身を沈めてみる。
 ガラス窓の先には、陽光のさきに目に青葉の世界がそのまんま拡がる。陽の光りはすでに高く、この時間はもう浴場内に光線が斜めに差し込んでくることはない。ぼんやりと壁の室内照明が浮かび上がって、まさしく陰翳礼讃の世界に浸り、時の移ろいが止まったかのような錯覚におちいる。浴場のへりに腰かけて体を伸ばして誰もいない湯船に半身を使ったまま、お湯を手ですくっては上身体にかけてさらさら流してみるとアルカリ性温泉の成分で肌が磨かれるかのような、気持ちがなごむ。

 さて、お昼の食事は、門構えのさきの離れの民家、竹林をぬけて小さな沢を渡ったさきの“草庵”でいただくことにした。ここは、細身の上品な女性が料理から配膳まですべてひとりで行っているようだ。なにをしてきたひとなのだろう、無駄な話はいっさいないし、庭先も適度に手をかけすぎない自然な感じがなんだかいつきても変わらす好ましい。
 合間に読みかけの文庫本、赤瀬川原平さんの二十年前の著作「新解さんの謎」から「紙がみの消息」の何篇かを読み進める。まるで念仏でも唱えるかのような独特な文体、自然と肩の力を抜けていき、みけんのシワがのびていくような心持ちになる。日常のなかでやり過ごしてしまうような、何げない現象に潜むフシギをつぶやきのなかで丁寧に掬い取って、自家製の漬物にして味わい深く食べてしまうような至福感があるのは、赤瀬川さんの人徳からにじみ出るものだろうか。

 さてとこの続きは、帰りの途中街中カフェに入って、本日夕食前に読み終えてしまうことにしようと思う。それからこの次に読もうとしているのは町田のブックカフで「新解さんの謎」といっしょに購入した鷲田清一さんの「京都の平熱 哲学者の都市案内」と、国語辞書つながりで導かれたもとまほろ市民の三浦しをん「船を編む」がいいかな、春の読書。

春の暴風雨のちイチリン草

2016年04月17日 | 日記
 朝のうちは曇り空だったのに、朝食を済ませてしばらくしていたら、どんどん雲行きが怪しくなってきて小雨が降りだしてきた。そうこうしているうちに、新緑が芽吹きだした中庭のケヤキの大木の枝枝が大きく揺れ出し、雨はますますひどくまるで台風が来たかのような、春の嵐である。
 さて、せっかくの休日どうしたものだろうと思案してみたが、このまま暫くは家にこもって様子をみるしかないだろうと覚悟をした。だからといって決まった予定があるわけでもなく、天気次第でこの先晴れてきたら、まほろ市博物館の中国陶磁器展を見に行こうかと思っていた。それまでの過ごしたときにとりとめなく考えていたことのあれこれ。

 まずは、四月に入ってから土曜日の新聞別刷りに連載されていた記事「古都さんぽ 夢枕獏が歩く」に、二回にわたって京都東山にある長楽館のことが取り上げられていたので切り抜いて読み返す。
 二十代の頃の京都への旅で、清水寺から八坂塔、高台寺ときて円山公園を歩いていたときに遭遇したのだったか、四条から八坂神社をぬけてきたときだったか、建物内喫茶室でひと休みした思い出があり、その時の不思議な印象として記憶に残っていた洋館だ。外観がネオルネッサンス様式の三階建、明治四十二年(1909)に実業家村井吉兵衛(1864-1926)の迎賓館として、建てられた。
 京都建築マップを確認すると、設計したのはもともとは聖公会の宣教師として来日したアメリカ人のJ.ガーディナー(1857-1925)で、明治から大正期にかけて活躍したクリスチャン・アーキテクチャーのはしりというべき人物だ。ということは、W.M.ヴォ―リーズに二十年ほど先立つ存在であるとわかって急に親しみがわいてきた。ご本人が敬虔なクリスチャンゆえ、日本各地の聖公会教会を設計していて、その一つである重要文化財の京都聖ヨハネ教会堂は、現在明治村に移築されていて、一昨年現地を訪れていたのだった。さらに付け加えると本格的な建築家活動前のガーディナー氏は、立教学院三代目の校長を務めた人物でもある。
 建物一階のロココ、バロック様式あたりは目に入った記憶があるが、そのほかにも館内にはイスラム風、中国風、書院風と様々な様式が混在しているとある。このあたりをさしてか、夢枕獏氏は次のように書いている。
 「建築は芸術そのものだ。(中略) ヨーロッパの古代ローマ帝国から、トルコはイスタンブールを経て、唐の長安を過ぎ、そして日本まで、シルクロードを旅するような心地にさせてくれるのが、この長楽館である。」
 このあたり、まさしく施主である村井吉兵衛が迎賓館に寄せた願望を言い当てたものだろう。なにしろ明治中期以降に煙草王として一財産を築いた人物だったのだから、悠久の大陸東西のシルクロード交易に想いを馳せていたのかもしれない。

 まだ、雨はやまない。

 シルクロードにつづく連想は、日本地図を眺めながら来来月に足を延ばす予定の三保の松原と霊峰富士の眺めについてのこと。いうまでもなく三保の松原は、羽衣天女伝説や謡曲「羽衣」でも名高い地である。富士山が平成25年に世界文化遺産に登録された際、25の構成要素のうちで唯一富士山周辺から離れた一カ所がこの「三保松原」なのは、知ってはいた。今回改めて地図で見ると旧清水市にあり、駿河湾に突き出た形状の砂洲=州浜と呼ばれる釣り針のような地形なのだ。
 ここの松原にある少しレトロな温泉宿の洋室に泊まって、早起きした朝に黒松と砂浜、寄せる駿河湾の白波の先の霊峰を眺めてみたい。ここに温泉が採掘されたのは最近のことのようで、「三保はごろも温泉」と呼ばれるナトリウム塩化物強塩冷鉱泉の源泉加熱!かけ流しの“天女の湯”、さぞかし美肌効果がありそう。伝統的名所旧跡へのイメージをなんとも素直に踏襲しているようで、観光の本道からしてそれはそれで好ましい。
 三保の州浜の地は、あたかも富士へと真っ直ぐにつながる松の架け橋か、海上の浮き舞台のようだというから、歴史的にここは悠久の異次元空間として意識されるのかもしれない。そんなふうに思うと、ここの景観がこれまで幾多の文化を生み出してきた創造の源泉であると実感できるのだろう。
 さて、昼過ぎにようやく雨は止んで急に日が差し始めてきた。雨上がりのにおいを嗅いでみたくなった、すこし外にでて散歩してみることにしよう。


 すまい敷地内北斜面自然林に、今年もひっそりと咲く希少種、イチリンソウの可憐な白い花二輪。

かしの木山自然公園の山桜

2016年04月14日 | 文学思想
 春、次々と咲きだす花だよりの季節となった。すでにソメイヨシノは散り落ちて葉桜となり、これからは、八重の牡丹桜が咲きだし始めている。夕暮れに近所の公園や水道みちの桜遊歩道などを歩くと、まるで全体の枝枝にボタン雪が降り積もったかのように咲いている様子は、雪国出身者からするとなかなか壮観ですらある。
 桜といえば、明治に近い江戸時代後期、都内旧染井村において、エドヒガン桜と大島桜の交配種として生成された“染井吉野”がまたたくまに全国普及したのは、都市化が進んだ近代日社会において、その成長の早さと樹形の良さ、咲きっぷりと散り際の潔さによるものだという。
 それ以前の時代、桜といえば奈良の吉野山が有名なように、山中に咲く“山桜”を指すものだったから、今の私たちが桜に寄せるイメージは、平安時代以降、鎌倉、室町、安土桃山と連なる時代に人々が眺めていた風景とは異なり、明治以降の近代の産物だといえる。それでも不思議なもので、ソメイヨシノに代表される「サクラ」の言葉のイメージのもとに、わたしたちは連綿と続く日本人の心象風景をみているのだろう。 となれば、都市部や公園に整えられたヨメイヨシノだけに一喜一憂するのではなく、郊外の里山風景のなかに咲く山桜の姿にも目を凝らしてみれば、旅する歌人西行法師の心境も、より真実味を持って迫ってくるだろう。

 願わくは花のしたにて春死なむその如月の望月のころ  西行

 ここにある如月とは、もちろん旧暦二月のことで新暦の三月にあたり、まさしく一重の薄霞のような山桜の花の咲き誇る時期となる。静寂に満ちた月明かりのもとで咲き誇るサクラの様子には、悟りきろうとしてそれでもまだ悟りきれない己を振り切ろうとするような、凄絶な気配すら漂っているように思われる。
 最近、もうひとつの歌を知ってからひかれるようになった。それは、憧れの山桜が散ったあとにつづく生命の営みの連鎖を歌ったものだろうか。

 あくがるる心はさても山桜散りなむのちや身にかへるべき  西行



 久しぶりに訪れた、かしの木山自然公園。尾根広場を下ったところにある山桜の花は散りなむ。
 この桜は芽吹きの変化と開花が同時進行する。


 こちらは、すまいの敷地内北側自然林のいまが盛りに咲く野生の山吹。そのまっすぐな黄色はまさに春の装い。