日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

夏帰省、新潟へ。初日は天一美術館(群馬県水上町)見学

2013年07月31日 | 日記
 23日から新潟へ帰省、26日夕方に戻ってきた。以下、その間の簡単な覚え書き。
○23日 
午前8時前に車で出発、町田街道経由で途中桜美林学園前のガソリンステーションで給油。御殿峠を越えた先、高尾ICより圏央道にはいる。あとは一路新潟方面へ、のはずだったが鶴ヶ島ジャンクションで方向を間違え、初めてのことで弱ったなあと思ったが、考えてみればそんなうっかりは他人でも発生してはずと思い直し、所沢料金所で係員に事情を話したところすぐに「特別回転承認」印を押してくれて非常通路を案内され関越道新潟方面に戻る。何事も経験しておくものだ。しばらく走って赤城高原SAで休憩し、水上ICを降りて「天一美術館」へ向かう。1997年竣工、吉村順三設計の遺作にあたる。(続く)

奄美の観光と物産展

2013年07月22日 | 日記
 今年は、奄美群島が日本に復帰して60周年なんだそうだ。たしか昨年、沖縄復帰40周年だったはずだが、奄美もかつては戦後しばらくの1953年まではアメリカの統治下にあったということ。もう、こちらではニュースとして意識されないくらいの時がながれたということか。そんなことに気づかされたのは、17日から小田急百貨店町田店で「奄美の観光と物産展」が開催されていて(23日まで)、そのチラシ冒頭に「奄美群島日本復帰60周年記念」と銘打たれていたから。なんだか、復帰記念の冠は「観光物産展」宣伝のための大義名分にきこえてしまうが、まあ地域おこしの一環としてにぎわいに寄与するのであればいいか。
 
 奄美といえば、坪山豊、築地俊造といった唄者や日本画家の田中一村を連想するのだが、物産展イベントとして「島唄夕涼みライブ」も開催されるという。メインはなんと「お中元」こと、元ちとせと中孝介のライブが19日に開催無料、それも町田店屋上での屋外ライブである。これには本当びっくりしたが、その日はあいにくの仕事で無理、前日18日の喜界島在住の若い女性唄者による三線ライブを聴くことができた。

 若い二人、実に舞台度胸よろしく堂々としていて嫌味がない。この情報化時代、奄美と本土の距離は地理的な距離ほど隔たってはいないようで、そこがすばらしい。もはや都会志向は時代遅れ、故郷の素晴らしさを胸に地に足がついている感じだ。
 ステージ始まっての午後4時すぎはまだ暑さが厳しかったが、しばらくして風が爽やかにすごしやすく気持ちの良いライブとなった。みあげれば空の青さと夏雲、ここ町田で奄美のうたが聴けて幸せ、と実感できたひととき。

炎のランナー 「CHARIOTS OF FIRE」(炎の二輪戦車)

2013年07月13日 | 日記
10日海老名の東宝シネマズ8で「炎のランナー」(1981年イギリス、監督;ヒュー.ハドソン)を観る。

テレビで“眺めた”ことはあったがちゃんと向き合うのは初めて。大学生だった日本公開当時、ファッション雑誌でアイビー調のファションからも注目!なんて書かれ方をしていた。今回はそのあたりも確かめてみたかったが、ケンブリッジ大学キャンパス風景と外政たちの来ているセーター、コートなどなかなかの英国調オーセンテイックぶり。

 ヴァンゲリス作曲のテーマ曲はLPで借りて聞いたことがあるが、あらためて冒頭画面に流れる音には感動した。学生たちが集団で海岸を走ってトレーニングに励む姿が映され、次第にカメラが引いて周辺の遠景が収まりフェードアウトしていく画面だ。有名なテーマ曲はこことラストの制作関係クレジットに重ねて二度流される。

 戦前のオリンピック風景(パリ大会)も貴重なものだ。陸上短距離は一レース6人で競い、スタートの各人の位置決めは、なんとシャベルのような道具で凹みを選手自身が掘って決めるスタイル。現在のイベント化したオリンピックとは隔世の感があり、観客の容姿も含めてまことにスポーツの人格・人生が密接に結びついていた時代の人間臭いヒューマンドラマなのである。

ロイヤルホスト座間店

2013年07月10日 | 日記
 ロイヤルホスト座間店は、相模大野から小田急相武台駅方面に向かう途中の通称行幸通り沿い、座間市広野台1-1-1(いまこの文章を書こうとしてレシート確認して初めて1-1-1であることを知った)にある。ファミリーレストランが1980年代を中心にもっとも輝いていたころの雰囲気、たたずまいを残していてような気がして、とてもすきなレストランである。海老名で映画「炎のランナー」を見た帰り、久しぶりに昼食をここでとった。

 店内に入るとまず目に入るのが、2カ所の柱周りにデザインされたアールヌーボー調の行燈型室内灯、まさにここのインテリアの主人公。暖炉の上の排煙ドームをかたどったようなきキッチン正面のデザイン、そして大きくレイアウトされたBOX客席。たしかにここの空間には良い意味での豊かさ、余裕のようなものが感じられる。メニューのお目当ては31年目を迎えるというカレーフェアのメニューから、クラシックマークの“ジャワカレー”、934円。飲み物を入れなければ意外と安い。昼時でもあり店内はにぎわっていた。この状態を維持しているのは立派。
 入り口入ってすぐのところに仕入れ食材の産地表示がなされている。それを目にするとこの限られた空間の食材においても世界とのかかわりを意識せざるを得ない。ひとつのメニューの材料のもとを探っていくだけでも、興味深いドラマが生まれる予感がする。たとえがカレーの牛肉はオーストラリア、野菜は国産が多いが、スパイスはおそらく東南アジアあたりになるだろう。米は国産だったかな?食そのものが世界中から調達されて、座間市広野台のレストランのテーブルにあがって映画帰りのわたしの口に運ばれているこの事実、これはやはり感動ものだ。

武田範之とその時代(滝沢誠 著、1986年 三嶺書房)

2013年07月07日 | 日記
 個々の存在を超えた[時代精神]というものがあるとしたら、確かに武田範之の生きた姿を丹念に追うことで透けて見えてくる当時の先鋭的な若者たちの共通の姿があるだろうに違いない。

 武田範之(1863-1911)については、今年没後102年の6月23日にすこし記した。昨日、ようやく標題「武田範之とその時代」を読み終えて当時の韓国併合をめぐる時代状況と武田と周辺の群像のかかわりの概要を知ることができた。
 標題にあるように、本書は武田の評伝というよりも「その時代」、1900年前後の明治末から大正に入る時期、日清・日露戦争をへて日本が西洋諸国に肩を並べようとしていた国家の動向が風雲急を告げる時代、民間政治結社の動向と顛末を記したもの。個人的に素朴な関心があった武田と顕聖寺のかかわりや彼の宗教的背景については、深く立ち入ってはいない。さまざまな資料を駆使しての外形的な武田像は知り得ても、その内面性からの武田範之を描くことには著者の筆力がやや不足しているようだ。
 李容九、内田良平(黒龍会主宰)や宮崎滔天、川上善兵衛、伊藤博文、明石二郎などの固有名詞のつらなりで興味をつなぐとこができたが、漢文調の固い文面で正直、読解に苦労した。すくなくともこれらの人物相関図についてはあらためて読み直す必要がありそうだが、さて。


 著者の滝沢氏、くわしいプロフィールはわからないが長岡の出身で在野の研究者、本書の執筆当時はなんと和光大学の向い岡上の居住。いまは房総で隠遁?生活を送っておられるようだ。成蹊大学在学当時から近代政治史に関心を持っていたらしく、40代そこそこで本書をものにしている。ちょっと自分にはマネできないな。その点、あらためて世の中にはいろんな人がいるものと感心させられる。ご健在なら70歳だ。

梅雨明け、そして七夕

2013年07月07日 | 日記
 七夕の前日、関東の梅雨明け宣言。いっきに気温が30度を超えた。6日はサラダ記念日(俵万智)、今日が祖父と父の命日。全国高校野球選手権の神奈川大会開会式が横浜スタジアムであり、家族はそちらへ。わたしは、鶴見区獅子ケ谷みその公園「横溝屋敷」へ。知り合いの方から現地屋外で沖縄舞踊鑑賞のお誘い。

聴竹居/藤井厚二と適塾/緒方洪庵 

2013年07月01日 | 日記
 今日から七月、文月に入る。梅雨はまだ明けない。例年より雨は少ない印象。時々、中庭でウグイスの鳴き声が聞こえる時がある。マンション棟に囲われているのでこれが実によく響いて、聞き惚れるくらいの美声。そして昨日も駅へ向かう途中の水道みちを通ると、やはりウグイスの声。中庭とは別のウグイスかもしれないが、よく遭遇するのでこの都市化の進んだ住宅街に住み着いているのだろうか。
 
 先月6月24日夕刊、25日朝刊と連続して小さなベタ記事が掲載されたのが目に留まった。それが「両陛下、聴竹居を視察」「両陛下、適塾展示視察」の見出しである。それによると天皇、皇后両陛下は先月下旬、京都大阪を訪問されていて、その折にかねてからご関心のあった両施設を視察されたとのこと。25日インターネットには、はやくも「聴竹居」前で車を降りられる両陛下の姿を映した映像がアップされいた。地元では大騒ぎ?というか大きな話題になったのだろう。

 これを読んでほうっと思ってしまったのは、去年五月に久しぶりに関西京都大阪にに足を延ばしたさいに、関心をもったのがこの2カ所だったから。「聴竹居」はJR大山崎駅を下車して、国宝茶室「待庵」と大山崎山荘美術館見学のあとに、少し急な坂道を上った高台の途中、緑に囲まれてわずかにその姿を望めた。噂に聴いていたが、ここがあの・・・といった雑駁な印象なのは、遠めにしかに見ることができなかったから仕方ない。記事にはないが、両陛下もこの山崎の地にきたのだから「聴竹庵」のほかにも、「待庵」と「大山崎山荘美術館」に立ち寄られることを所望されていたのかもしれない、あるいは立ち寄られたのかもしれないと想像する。

 「適塾」のほうは翌日大阪中之島近くに宿泊した際、早朝散歩していて偶然みつけた。開館前だったが、記憶の片隅に残っていた緒方洪庵の名前にひかれてチェックアウト後、再度訪れて入ってみたところ、幕末の有名な私塾その建物家屋と知りなんともいえない感動を覚えたものだ。大阪大学医学部の源流につながり、この建造物も大学の所有管理下にあるそうだ。もっとも両天皇が視察されたのは、こちらではなくて豊中市の大学会館適塾記念センターのほうであるから、スケジュールと警備上の問題もあったのだろう。仕方ないのだろうけどもったいないなあ。

 
聴竹居:設計は藤井厚二、1928年竣工。大山崎天王山の中腹の高台にある周辺の気候風土に合わせた環境共生住宅の先駆けとあるが、正確には「近代の」環境共生住宅というべきだろう。なぜなら日本の古民家自体がその成立からして環境共生型であったはずだから。

適 塾:江戸時代末期に西洋医学を学んだ緒方洪庵が大阪にひらいた蘭学塾、福沢諭吉ら近代化を担う人材を輩出した。手塚治虫の先祖も学でいるとある。洪庵は後年、請われて江戸に出て亡くなっている。その墓が文京区内寺院にある。