日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ジョアン・ジルベルトを捜して

2020年07月08日 | 音楽

 梅雨のさなかの日曜日、一泊二日でふるさとへ帰省してきた。行きは関越道、月曜日の帰りは上信越道と一筆書きのような経路を通っての往復だった。

 
新型コロナウイルス騒動のあおりで、随分と先延ばしになってしまった今回の帰省、空き家となってしまった実家は、表面上は思ったほど傷みが進行していないようで少しほっとした。家周囲の敷地の荒れようは仕方ないが、幸いにも今年は暖冬だったため、植栽の木々の枝の痛みもほとんどなく、先月半ばに森林組合へお願いしておいた下草刈りのおかげで、なんとか苔石の生した庭らしき体裁は残っていた。

 この季節、芝サクラ、スイセンをはじめほとんどの春の花々はとうに咲き終わりか、雑草に負けてだめになってしまっていたが、幾株かのつつじと今が盛りの紫陽花だけが雨に濡れて色づいていた。少し離れた旧校舎グランドの川の向こうには、霞むような薄紅色の繊細なネムノキの花が咲いている。おとなになって知った漢字では「合歓木」または「夜合樹」などと書き、どれも夕方に細く集まった葉と葉が寄り添って閉じるさまからきているが、何やら密やかな色めき事になぞらえるほうに惹かれるのは自然なことだろう。ここに蛍などが飛び回っているさまを目にしたら、幼いころの無垢な思い出が走馬灯のように沸き上がってくるような気がする。

 さて、今月六日は昨年八十八歳で亡くなってしまったジョアン・ジルベルトの一周忌。その日の新聞朝刊のテレビ番組ページの記事中には、カラー刷り7×8センチ大の広告が掲載されていて目に留まる。
 「JOAO GILBERTO  live in Tokyo」とタイトルがあって、2006年東京国際フォーラムで収録されたジョアン・ジルベルト唯一の映像作品との説明文に、ギターを抱えた舞台上背広姿のジョアンのモノクロ写真が添えられる。ジョアンの最後文字は「N」ではなくて「O」、その上には「~」が乗っかる表記が正しいが、ここではうまく変換ができない。背景の色は上方に薄く肌色、それ以外は薄いモスグリーンの渋い色調だ。ブルーレイ規格で全21曲90分、5000円、スペース・シャワー・ミュージックというところが発売元のようだ。そこの広告担当者は、ジョアンが亡くなってしまった一周忌の七月六日に合わせて、この広告掲載を手配していたことになるから、これは追悼と敬意の表れであり、それを好ましく思うわたしがいる。

 そうして真っ白な表紙に、ほぼ同じタイトル「ジョアン・ジルベルト in TOKYO」とだけ記載されたCDを手にしている。こちらは、同じ東京国際フォーラムにおける2003年9月12日初来日のステージを収録したもので、偶然一昨年7月15日にセコハン店頭の棚で見つけて、すぐに手に入れたもの。ジョアンのギターと歌、それだけのこれ以上ないシンプルなソロライヴCD。
 同封冊子の最終ページを目にすると、そこにはこの来日プロジェクトにかかわったスタッフの名前がクレジットされていて、そこにはかつて同僚だった懐かしい人の名もある。彼はいま、どうしているのだろうか。もしやと思いつつ、その名を見つけた時になんとも言えない気持ちになって、三十年以上前高層ビル32階にあったオフイスの二十代後半の日々の出来事を、きっと昨日のことのように思いだしたりするのだ。

 昨年の8月24日には、ジョアンが亡くなったすぐあとのタイミングで公開されたドキュメンタリー映画「ジョアン・ジルベルトを探して」初日第一回目の上映を新宿シネマカリテで観ている。そのなかで若きジョアンは、ひきこもり生活のような日々を送っていたことがあり、よくバスルームの中で歌っていて、有名なボサノバ=新しい波の誕生を告げたといわれる一曲「想いあふれて」のコード進行とシンコペーションはそこで生まれたと知った、なんとまあ。 

 上映のあとに特別イベントとして、小野リサのトークショーとミニライブがあって、久しぶりに彼女の生のささやくようなやさしい歌声を耳にした。まだ彼女があまり有名でなかったころの1980年代半ば、追っかけで新宿周辺のライブハウスによく通ったものだ。あるときに、ライヴを聴きに行こうと出かけて早く着いてしまい、会場へと向かう途中だった。いまはなくなってしまった新宿厚生年金会館手前の路面に面した喫茶店のガラス窓側にすわっていた彼女を見かけた。向い側のフルート奏者の女性と一生懸命にその夜の演奏曲目の譜面を確認している様子だった。ああ、こんなふうにその日のライヴは準備されていくのだと、ちょっと秘密めいた瞬間をのぞき見したような気がした。
 その新宿でジョアンに因んだ映画のあとに、彼女の憧れの人ジョアンとの出会いのことから、リオに滞在していたときに一度だけ電話で会話したときのエピソード、そして甘くささやくような彼女の歌とギターを聴けるなんて、なんという巡りあわせだろうと思わずにはいられなかった。

 
これら一連の出来事をサウダーデ、懐かしい郷愁と呼ぶのだろうか? ボサノバのリズムとコードを刻むギターの伴奏に乗った、天上から舞い降りてくるジョアンの歌声のように。いまごろは、天国でA.C.ジョヴィンらと親しく話をかわしているだろう。


夏至の日過ぎて、雨が降る

2020年06月22日 | 音楽

 しだいに紫陽花の虹色鮮やかに、アヤメ紫も映える雨の季節だ。日中は長くなり、昨日は夏至に日食現象が重なった.。関東地方はあいにくの曇り空で、夕方近くの太陽は隠れてしまっていたけれど、西日本各地では部分日食を見ることができたという。
 西アフリカからアラビア半島、インドなどでは、金環日食が観測されたそうだ。金環日食のときには、文字通り消えた太陽の円周に“金冠(コロナ)”が見えるというから、この新型コロナウイルス禍中に置かれている人々は、どのような思いで消えゆく太陽の天空を見上げていたのだろうか。この天体現象が解明されていなかった中世は、金環日食は不吉な兆候として不安と恐れを引き起こしていたわけで、今回は偶然の一致とも言えないような気がしてくる。

 ことしの夏至前日の6月20日は、山下達郎のアルバム「BIG WAVE」(1984年リリース)が発売されて36周年にあたる、ということをその前の週のFMラジオ「サンデーソングブック」のかなで、パーソナリティーの山下達郎が語っていた。もう、そんなにたってしまっているんだ!
 個人的に36年前といえば、懐かしい中野サンプラザ大学講座時代のこと。当時の手帳をめくってみると、6月2日にいまはなき新宿コマ劇場地下にあった映画館「新宿プラザ」で、公開初日の「ビッグ・ウェイヴ」を見ている。おそらく当時ヒットした「ビック・ウェンズデー」の二番煎じ的な様々なサーフシーンをつなげたありきたりのドキュメンタリー映像だったが、サウンドトラックがとにかく素晴らしく、大画面の迫力以上にイマジネーションを膨らませてくれて、まったくのサーファー門外漢が満足した思いで、真昼の歌舞伎町にでた記憶がある。メインは完全に楽曲のほう、歌唱コーラスも最高であり、波の大画面映像は、まあ付け足しという感じであまりヒットせず、アルバムのほうだけが生き残って今に至っている。
 
 FMラジオを聴いた流れで、楽曲関連のネット検索をしていると、なんと1984年当時のNHKFM「サウンドストリート」の音源がアップされていて、若き日三十歳の山下達郎の声を聴くことができたので、びっくり! 
 その声の印象はいまと随分異なり、若気の至りというか突っ張っり気味で才気走っているような、なんとも生意気が鼻につく感じがした。もしかしたら、不愛想なのは照れ隠しもあるのかもしれないが、当時結婚したばかりの伴侶を「まりやがどうした、こうした」と呼び捨てなのは、いまと違っていて逆に新鮮な感じがした。その番組のなかで、この「BIG WAVE」ではじめて本格的に作詞家アラン・オディとのコラボレーションが始まったのだと話しているのを聴いて、あらためて棚からCDを引っ張り出してみた。

 DC「BIG WAVE」セコハン購入は、2009年6月13日だ。たぶん、店頭でたまたま手にしたら1984年当時の印象が鮮烈に蘇って、ふたたび聴いてみたくなったのだろうか。LP版のA面にあたる部分が二人によるオリジナル、B面にあたる部分がビーチボーイズ関連のカバー曲で構成されたコンセプトアルバムで、「サウンドストリート」の中で紹介するにあたって、ビーチボーイズオリジナルと自身のカヴァー曲を交互にかけて流していたのには驚かされた。よほど自信があったのだろう、実際のところ録音技術の向上があるにしても、カヴァーがオリジナル以上に輝やいて新鮮に聴こえてくるのには感動する。しかも一人多重コーラスによる完成度の高さに脱帽だ。

  「RIDE ON TIME」(1980)での大ブレイクから、正直それほど入れ込んでいたわけではなかったが「FOR YOU」(1982)、「Meiodies」(1983)、そしてこの「BIG WAVE」(1984)と続くアルバムの流れは学生時代と重なり、その当時の記憶の中に個人的な思い出も重なる。とくに最近「Melodies」を聴き返してみて、その楽曲、アレンジ、歌唱の素晴らしさにはっとさせられた。また発売と同時にLPで所有しているアルバムは、「POCKET MUSIC」(1986)と「僕の中の少年」(1988)の二枚で、当時すぐ感性にしっくりと来ていたのだろう。
 これらのアルバムが時間ときを経るにつれて味わいが深まってきて、その同時代人がいまだにバリバリの現役で活躍を続けていて、ファンとしてその姿を追いかけることができるのは本当に励まされるし、うれしいことだ。

 最後に雨の日にちなんで、ご本人も雨の日が好きでけっこう曲を作っています、と話していたうちから、その雨などにちなんだ好きな曲をあげる。アルバム「MOONGLOW」(1979)からの雨の日に散歩する心情を歌った佳作「RAINY WALK」と、「RIDE ON TIME」からは、雨の歌ではないけでど雨上がりのような爽やかな男女コーラスと冒頭のベースラインが印象的な「いつか(サムディ」としっとりとした雰囲気の「RANIY DAY」がいいと思う。

 三河湾の竹島側からの蒲郡クラシックホテル(設計:久野節、竣工1934年)。

 ホール内はアールデコ調の見事な吹き抜け、二階の朝食会場からのベランダ越しの正面に竹島の眺め。橋の長さは387m。

 
 梅雨入りの直前の六月上旬、三河地方の中心豊橋・蒲郡から豊田へと旅をしました。
 小田原から新幹線に乗り、一時間半ほどの豊橋で下車。さっそく友人と路面電車に乗って、市役所前で降り、威風堂々とした豊橋市公会堂(設計:中村輿資平、竣工1931年)と豊橋正ハリストス教会、豊橋市美術博物館と見て回り、ガラス張りのレストランでカレーランチをゆっくりといただきました。吉田城址からは、豊川のうねりと対岸の葦原がなびくさまを眺め、川沿いに歩いて旧東海道を突っ切り駅方面へと戻る途中、昭和の雰囲気を残す老舗ウナギ店舗にて夕食用の上弁当を調達したあとに、一路東海道線に乗って三河湾を左手にみて蒲郡へと進んだのです。
 あこがれのクラシックホテルは、駅からタクシーで五分程度の小高い丘の上に凛として城郭のごとくたたずんでおりました。正面玄関へのアプローチの高揚感、ロケーションの素晴らしさ!かつての海浜リゾートの面影と戦争をはさんで幾多の歴史の堆積を漂わせながら、水平に伸びる端正な姿をようやく真近にすることができたのです。
 夕暮れ時の三河湾、竹島へと掛かる橋の欄干両側にともる灯かりがなんとも情緒的で夢心地、ぼうっとして見惚れてしまいました。忘れられない眺め、過ごした空間と記憶。旅の時間は、まだ続きます。


 翌朝の竹島八百富神社側からみたクラシックホテルの建つ丘。干潮になると干潟には、たぶんイソシギ(磯鴫)の白い姿。
この日、ゆったりとした優雅な朝食をとった後はいよいよ、という感じで島を一巡りし、戻って海辺の文学記念館を訪ねると、名残り惜しい思いの宿をでて、東海道線を岡崎乗り換え、愛知環状線で最終目的地豊田市美術館へ。


花水木山法師

2020年05月22日 | 音楽

  風薫る五月、いよいよみどり深く、あと二週間ほどしたら梅雨入りも近い。アジサイの季節にはまだ少し早いけれども、そのいまの時期に目に入るのが小さな山法師の姿、といっても青々とした葉っぱを地として織りなす星形模様のように咲くヤマボウシの白い花だ。

 そのヤマボウシの花で思い出すのは、「ぴあ」特別編集版(2012年10月号)における「山下達郎“超”大特集!」記事、そのラストに掲載されていた山下夫人である竹内まりやスペシャルインタヴュー中のエピソードのこと。
   このとき夫は還暦前にして、まりや夫人57歳なのだがその印象は、気さくでおおらか、かつ年齢を感じさせないチャーミングさとほのかに漂う男前的カッコよさが素敵と前置きにある。都会育ちとは異なる地方の名家出身、老舗旅館お嬢様育ちならではのよさが自然と備わっているのだろう。そのまりや夫人が伴侶ならでは生の姿の山下達郎という人間&夫像を、率直かつあけすけに語っているコトバが興味深い。まだまだこんな感じで話してくれたんだなあとすこし驚くが、年を重ねていくぶん優等生的な印象が漂ういまならば、いったいどうなんだろうと思う。

 そのなかの数あるエピソードの中で、ヤマボウシの季節におかしくも思いだすのが、もの知りの夫山下達郎は「花の名前と魚の名前」については、まったくの頓珍漢だということ。これは自然世界と食べ物については頓着しない、こだわりが少ないということなのかもしれないけれど、まりや夫人曰く、「ヤマボウシとハナミズキの違いを何度教えてもわからないんですよ。咲くたびに“どっちがヤマボウシだっけ?”って」。
 このエピソードからたぶん想像するに、都内山下&まりや家の庭周辺には、少なくともヤマボウシとハナミズキが植わっていて、四月にはハナミズキ、五月に入るとヤマボウシが咲いているのだろう。それでもって、夫人のほうは花の種類にそれなりに詳しく、たぶん多少園芸の趣味もあって、ガーデニングか庭いじりのようなことも行い、いっぽう夫のほうは音楽三昧オンリーでてんでそんな趣味はないけれども、そんな愛する妻の趣味嗜好を少なからず好ましく思っていて、季節がめぐる度に咲き出した花を見ると「これは何の花だっけ」と問いかけると、妻のほうは半分仕方ないねっていう表情で正解を教えて、ふたりともこの毎年のたわいない繰り返しを無上の歓びとしている、といった構図なのだろうか。ここだけ音楽以外の固有名詞が出てくるのが妙におかしくって、あれこれ妄想気味になってしまうが、おふたりの夫婦関係がとっても人間臭いなあ。
 
 毎年のように咲いた花の名前を妻に問う、和洋ポップス音楽にかけては尊敬すべき表現者の東夫(あずまおとこ)と、毎回のその問いかけをまんざらでもなく嬉しそうに答えるのは、スリムなスタイル美人かつ男前でチャーミングなシンガーソングライター出雲妻(いずもおんな)だとしたとしたら、これはもう大ノロケ以外の何物でもなく、「はい、ごちそうさまでした」というのがオチ、というもの。

 夫婦恋人友人関係、なにかにつけてもひとの絆には、謙虚さかつ誠実をベースに継続した“信頼”が大事です。


花盛り見ごろの山法師ヤマボウシ、白い法衣を纏った法師姿からきている。


こちらは花水木ハナミズキ、四月に咲く(撮影:2020.4.25)


「サンデーソングブック」と「村上RADIO」をつなぐ。

2020年05月03日 | 音楽

 日常がいつもの日常通りといかない昨今、在宅時間が増えていることもあって、ラジコというアプリケーションで聞き逃した先週日曜日のFMラジオ番組を立て続けに聴く。スマホ画面で番組リストを確認していたら、ふたつのお気に入り番組が同日午後にオンエアされていたことに気がついたからだ。
 ミュージシャンにとってラジオは媒体としての親和性が高いようで、放送時間帯は異なるが桑田佳祐や松任谷由美も自身のレギュラー番組を持っていることを知り、なるほどなあと納得、休みの日はラジオを聴くのがいいなと思った次第。
 
 まずは、この文章を書きながらいま本日の放送分を聴いている「山下達郎 サンデーソングブック」、三十年近く続く名物番組だ。この四月からの各地ライブハウスでの演奏会が延期、または中止になってしまったこともあるのだろうか、先月末からの放送は特別バージョンとして、ご自身のライブソースの中からのリクエスト曲を年代別に選曲されたものを流している。
 80年から90年代によく聞いていたLP、CDからの選曲もさることながら、実際に演奏された会場と日程が付随しているので、その当時の時代と重ねてあれこれ想像が広がってくる。東京会場のホールライブからは、中野サンプラザのソースが流されることが多く、最近はすっかりご無沙汰しているが、ずいぶんと前80年代中の二度、中野まで公演を聴きに行ったこともあっていっそう親しみがわく。
 あの会場内の一体感はなかなかのもので、ひとりア・カペラをはじめて(しかもいきなり生で)聴いて完成度の高いマジックのようにびっくり!「レッツ・ダンス・ベイビー」の間奏のときに、一斉に客席からクラッカーが打ち鳴らされたときなどは、フリークたちの統制の取れた間合いのよさに少なからず感動もした。

 個人的に最も気に入っているマニアックなアルバムは、1980年に第一集がLP版でリリースされたア・カペラ集「オン・ザ・ストリートコーナー」シリーズとその延長であるフルオーケストラの豪華バージョン「シーズンズ・グリーティングス」(1993年)である。LP盤第二集ジャケットには、中野サンプラザでも見たとおぼしきブルックリン橋の夜景と街角の舞台セットが使われている。そこには自身の立ち姿とグランドピアノが映っていて、サンプラザライブ当日のときにご本人が「ポップスのライブ演奏で生ピアノを使うのは、矢野顕子と自分くらい」と自慢げに話していたのを思い出した。
 きょうの番組では、“おうちアカペラ”と称して、リクエストを受けて「オン・ザ・ストリートコーナー2・3」に収録されていたナンバーからそれぞれ一曲づつ、ここが達郎さんの良心的かつスゴイところなのだが!そのまま流すのではなく、新たに自宅スタジオで歌唱し作られたソースが流されていた。
 放送で流れた曲順が前後してしまうがどうしても記録しておきたい。三曲目は、なんとその矢野顕子のピアノ伴奏で「オン・ア・クリア・デー」、会場が公園通り途中の山手教会地下にあった小劇場、渋谷Jean Jeanでのゲスト出演ライブ音源(1985.9.17)というのがすごい!
 ご本人によると、客席でカセット録音したものと話していたから、確かにそんな時代もあったんだなあ。

 この番組のあとに引き続き聴いたのは、村上春樹が自ら進行役をつとめる「村上RADIO」。ゼネラルプロデューサーは延江浩、ムラカミの冠をつけるくらいだから彼の相当な思い入れもはいっているのだろう。若いイメージのムラカミ氏はすでに古稀をすぎているが、音楽番組の選曲と進行を務めるのは若いころからの夢に違いなく、嬉々としておしゃべりを愉しんでいるようだ。誤解を恐れずに言うなら、これはムラカミ氏一流の“お遊び”、数ある引き出しの中のほんのひとつにすぎないだろう。
    当初は意外に聞こえたやや朴訥としたときに衒いを感じさせる話し方もようやく耳に馴染んできた。最初のころは、相手方坂本美雨にリードされながら、正直おっかなびっくりという印象もしたけれど、最近は回を重ねてきた分慣れて自信がついたのか、DJとして独り立ち?か。
 
 この日は、「言語交換ソングス」と題して日本語曲の洋楽カバーとその逆パターンを交互に流す特集で、なかなか選りすぐった?名盤珍盤のオンパレードとなっていて、それなり面白かった。
 「僕はそのむかし好きな音楽を日がな流している飲食店を七年ほどやっていたのだけれど、これから流す曲はなかなか面白いから聴いてよ!」っていう感じ、作家村上春樹の遊び心が満載で、こんなふうに自由にできるのも小説家として成功した長いキャリアと読者からの支持の賜物なんだろうな。番組HPによると収録は三月中旬とある。シビアな時期になってきた分、すこし能天気になって張り詰めた気持ちをほぐしてみよう、といったスタンスなのだろうか。

 その冒頭のこと、桑田佳祐と山下達郎オリジナル曲の洋楽カバーが出てきたのにはちょっと意表を突かれた思いがした。両方ストレートにオリジナルの選曲はまあ、おそらくないであろうから、これはつかみとしてはちょっとひねった選曲だ。
 曲が流れる途中、ムラカミ氏のMCが入ってきたと思ったら、英語バージョンの「踊ろよ、フィッシュ」(アルバム「僕の中の少年」1988年リリースに収録)があとから山下達郎の曲だと知って驚いたと、正直に告白している。本来ならちゃんと曲を聴かせるのが筋だと思うのだけれど、言わずにはおられなかったという感じ。
 1987年「ノルウェイの森」を発表し、ベストセラーとなって誰もが知る有名作家に躍り出たムラカミ氏はそのあといろいろとあって、当時はヨーロッパに滞在していたようだから、山下達郎をリアルタイムで聴いていなかったのだろうか。その前の1884年リリース「ビッグ・ウェイブ」に収録されていたビーチボーイズのカバー曲を聴いているかどうかはわからないが、そのカバーについてどのような感想なのか、この機会に誰かインタビューしてくれないだろうか。じつは、隠れ斜めファンだったしてね。

 あのサウンドトラック盤のタイトル映像を新宿コマ劇場地下にあった映画館で見たときに、えらくカッコいいサウンドと本家に引けを取らないひとり多重コーラスの見事さにノックアウトされてしまった。映画タイトル曲から始まるオリジナル、後半のカバー曲のバランス、格好良さといったら、並外れていたと思う。「ガールズ・オン・ザ・ビーチ」から「プリーズ・レット・ミー・ワンダー」と続くあたりは、夏の夕暮れに聴くと胸がいっぱいになり、当時の情景が懐かしくも浮かんでくる。
 この世界は、映画とはまったく関係なく、村上春樹「風の歌を聴け」にもつながるように感じられるのだ。

 そしてつぎは、ムラカミスタンスとしては当然といおうか、すまし顔の照れ隠しなのか。別の日本人によるビーチボーイズメドレーが選曲される。その名前は知っていたものの、ほぼ初めて聴く「王様」の歌唱だ。日本語直訳された詩がじつにたわいなくて、洋楽有名曲がこんな意味を歌っていたのかと妙におかしい。つぎは、坂本九の歌う有名曲「上を向いて歩こう」と「明日があるさ」(作曲はともに中村八大)の洋楽カバー。こちらはオリジナル、とくに坂本九歌唱の素晴らしさのほうが勝るように思う。彼のお墓は、都内根津美術館裏手の長谷寺境内にある。
 坂本龍一による沖縄民謡プラスレゲエ風アレンジの洋楽の後、この日の極めつけはビートルズ「恋を抱きしめよう」のカバー。さまざまな犬猫の鳴き声をダビングして作った、まさに珍品ともいえるインストメンタル曲?だ。「これ、流したかったんだよね」っていう、少年のようなムラカミ氏の表情が浮かぶ。ラストは、カメラータ・チェンバー・グループによるサティの「ジムノペティ」でこころ静かに終える。

 最後に恒例のムラカミ氏のコトバがちょっとおもしろくて、生年が同じB.スプリングスティーンの歌う姿勢の発言をひいて、自身の作家としての矜持ともいうべきものと共通する点を述べたあとである。
 「ついでに言うと菅官房長官も同い歳です。しかしブルースと菅ちゃんと同い歳というのは混乱するというか、なんか戸惑いますよね。自分の立ち位置がよくわからなくなるというか……まあ、どうでもいいんですけど。」ととぼけてみせるのだ。どうして、ここで菅官房長官なのだろう?
 ムラカミ氏と官房長官、ふたりは育ちが同郷でもなく(兵庫と秋田)、大学が同窓でもない(早稲田と法政)のに、会見でのやりとりはともかくとして、令和のおじさんだからではあるし、まんざらきらいな人ではないのだろう。プライベートでは、菅さん、きっといい人なんだろうと想像するけれど。


追記:年齢に関連して。
 最近亡くなった俳優の志賀廣太郎さんも71歳、昨年脳梗塞で倒れて療養中の誤嚥性肺炎だった。
 二十数年ほど前だろうか、仕事上ある機会があってほんのすこし話したことがある。小田急線の大和駅上りホームにおいて、急行がやってきてそこで別れたのを覚えている。印象に残る低く落ち着いた渋い声、長身、やせ型、眼鏡をかけた一学者か勤勉実直な課長か、場合によっては冷酷な管理職役が似合う個性派俳優。生え抜きでもなさそうなのに、どうして平田オリザ主宰する青年団に所属していたんだろう。最近は携帯電話のテレビCMにおいて、大真面目にコミカルな役どころででていて、おやって思っていた。
 まあ志賀さん、菅長官と似ていなくもないがムラカミ氏と同じ年だったなんて、なんか戸惑いますよね。もう、病気で亡くなってしまうこともある、そんな年齢なんです。

 行き先の見えない新型コロナウイルス騒動のさ中、まずは自身のからだと家族、それから愛おしい存在を大事に思いやって。やっぱり日々こころのバランスと健康第一です。
(2020.04.3書き出し、04.04稿了)

 自宅マンション敷地内の自然林、一重咲ヤマブキとタチツボスミレ群生
 (撮影:2020.04.07)


M.F.0817覚え書き

2019年08月25日 | 音楽
 猛烈に暑かった夏も終わりに差し掛かり、気がつけば日の出が五時過ぎ、日の入りは18時半を切って、少しづつ日中が短くなりつつあるのを実感する。あちこちに百日紅は咲き誇ってはいるが、すこし涼しさが感じられる夕方に蝉の鳴声は心なしか納まりつつあるように聞こえてくる。
 
 先週末は早く帰宅し、竹内まりやがテレビ番組に出演するというので、久しぶりに「ミュージックフェア」をみた。司会は、フジTV軽部アナと仲間由紀江のコンビ。竹内まりやの出演はデビューして三年後の1981年以来38年ぶりなんだそうで、来月九月発売の三枚組ベストCDのプロモーションがあってのことだろう。同時期、朝日新聞の文化・文芸欄で「語る 人生の贈りもの」連載も始まっていて、このあたりいつもながら所属事務所スマイルカンパニーの丁寧なメディア向け対応、準備周到さに感心する。

 冒頭、四人コーラス隊をバックに「静かな伝説」(2014年リリース「TRAD」より)から始まった。この曲、フジテレビの深夜トーク番組「ワンダフルライフ」テーマ曲であって、司会進行がリリー・フランキーだったな。バックバンドメンバーのギターは佐橋佳幸氏、さすがに夫君山下達郎氏の姿はみえない。ご本人は、縦じま紺のストライプシャツにトラッドなスーツ上下(ズボン)姿で、落着いた雰囲気を醸し出している。
 場面が替わって、以前に出演したアーカイブ映像からなつかしい数曲が紹介される。まずはアップテンポの「J-ボーイ」とギター伴奏によるジャージーな雰囲気の「五線譜」。前者は、セカンドアルバム「UNIVERSITY STREET」(1979)、後者は、モノクロームのスパッツ姿に大きく英文字「Love Songs」をあしらったジャケットデザインが印象的な980年リリースのサードアルバムに収録されている曲。
 続いての「モーニング・グローリー」(山下達郎作詞作曲)は、同じく1980年4枚目のアルバム「Miss M」からの一曲だ。LP盤をリアルタイムに購入して、ウエストコーストサウンド全盛の学生時代に、その流れの中でしばし愛聴していたものだ。まりやご本人が独身時代だったこの頃が、当時個人的にはもっとも盛り上がっていて、地元まほろで開かれたコンサートにもでかけている。

 さらにめずらしい過去のTV映像が蔵出しされる。なんと1980年10月から翌81年3月まで放送されていたという幻?番組「アップルハウス」のなかで、ギターを弾く加藤和彦と「不思議なピーチパイ」をデュエットしているではないか。このふたりの関係って、ただの共演者なのだろうか?
 このあたりは本人が別に語っているように、なかばアイドル路線を迷走しだしている感じもありで、よくぞオンエアをOKしたなあと感心する。それだけ時間がたって笑って?振り返る余裕もでき、お盆の時期という時期に故人となってしまった関係者へのせめてもの供養という気持ちもあったのかもしれない。昨年亡くなり、この夏が初盆となる西城秀樹と「夢を見るだけ」というカンツーネ?をいっしょに歌うシーンも流されて、これはもうプライベートビデオを見せられているようで、素直に感涙もの。
 ほかには、中尾ミエ&森山良子とのトリオで「ムーンライトセレナーデ」、ゴダイゴとの「モンキーズのテーマ」「デイ・ドリーム・ビリーバー」とあり、小さいころから洋楽に親しんでいた恵まれた家庭環境が想像される。流行り廃りのめまぐるしい時代、四十年を超える音楽人生は、本人の努力が幸運を切り開き、喜怒哀楽があって当然、何物にも代えがたい生きてきた証しのようなもの。

 そして締めくくりの曲は、シックな深碧のドレスをまとっての「瞳のささやき」。カントリー歌手クリスタル・ゲイルが「どうかわたしのブラウンの瞳を憂いでブルーに染めないでほしいの」とイノセントな女心を歌った曲のカバーで、うーん懐かしい。ラストには意外な選曲のような気がしてちょっとびっくり。落ち着いたミセスの雰囲気たっぷりのアルトヴォイスとストリングスの響きがぴったり、そういえばこのふたり髪型も同じストレート長髪だし、その歌唱もさることながらあたためていい曲だと感じ入ったのだった。

 この機会に自身の乏しい音楽遍歴をさかのぼって、1980年前後から90年くらいにかけてLP盤と普及し始めたCDで聴いていた女性歌手たちを思いつくままにあげてみれば、リタ・クーリッジ、オリビア・ニュートンジョン、キャロル・ベイヤーセイガ-、メリサ・マンチェスター、エミルー・ハリス、イボンヌ・エリマン、ローラ・フィジー、アンヌ・ドウールト・ミキルセン、セリア、フランソワーズ・アルディ、初期のジョニ・ミッチェル、ジャニス・イアン、フィビー・スノーといったしばらくご無沙汰の人たちの名前がでてくる。これを契機に、良い音響機器をそろえてすこしづつ聴き直してみようかと思っていて、そうしたらどんな発見と連想があるだろうか。

追記:市販第一号のCD発売は、1982年(昭和52)10月1日、ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」(CBSソニー)。
   生産枚数のピークは1998年で4億6千枚。


 さよなら、令和元年の夏 あしがら花火 開成町酒匂川堤にて(撮影:2019.8.24)

F.L.ライトとジョアン・ジルベルト

2019年07月24日 | 音楽
 いにしえの都、奈良ですごしていた七月のはじめにも、世の中ではいろんなことが起きていた。

 その一、七日のユネスコ世界遺産委員会で、今年没後60年にあたるフランク.L.ライト(1869-1959)の建築群が世界文化遺産登録にきまった。廿十世紀の近代建築群としては、ル・コルュビジュにつづいて二人目で、落水荘やグッゲンハイム美術館など8件が対象とのこと。さらに将来的な構成追加候補として、ヨドコウ迎賓館(兵庫県芦屋市、旧山邑家住宅、1924年竣工)が挙げられている、とあった。
 芦屋の方は実際におとずれたことがないけれども、パンフレット写真で見る限り、三浦半島葉山町にある加地邸(1928年竣工)と同様の玄関アプローチ、リビング内部デザインになっている。海側に向って開かれた山の中腹という立地条件も同じで、前後して竣工に関わったライトの弟子遠藤新らにより実施設計された住宅は、東西に離れた四歳違いの双子のようである。西宮市の旧甲子園ホテルとともに、いつかぜひ訪れてみたいと思い続けている。
 
 もうひとつは、世界遺産ニュースと同日の8日付新聞に掲載されたリオデジャネイロからの訃報。ジョアン・ジルベルトが、現地時間六日に八十八歳で逝去、日本流で言えば米寿だった。数年前から体調を崩していたという。ライトが亡くなった1959年にこの人が歌ってLP収録、発売された曲「想いあふれて」がボサノヴァの誕生を告げたのは、もちろん偶然の一致にすぎないが、ライトの世界遺産登録に前後して、こんどはジョアンが亡くなってしまうなんて!

 七十歳をすぎてから!三度来日しているが、残念ながら生のステージには接していない。驚いたことに最後の来日後だったか、突然実子の幼い娘がいるという記事を目にした。お相手はアストラッド、ミュウシャにつづく再々婚者なのか、別の恋人なのか知らないが、そのリード文がなんとも秀逸で「イパネマに娘? ボサノバの巨匠・ジルベルト氏」。うーん、ジョアンは枯れてなんかいないぞ。
 たったいま、ジョアンの綴り「JOAO」(正確には“A”のうえに“~”が表記)には、“N”の表記がないことに!気がついた。

 初来日2003年9月12日の東京国際フォーラムライブCDが手元にあったので、スイス・レマン湖畔モントルーフェスティバルライブ盤(1985.7.18)とあわせて聴ききながら、ジョアンを追悼する。2003年のときは73歳にして奇跡の来日と言われ、いっそうそぎ落とされた能舞台のような味わいに、ふたつのライブに横たわる18年の時の流れを感じたが、ジョアンの本質はまったく変わっていないのに驚く。トーキョー初ライブは、カタコトの小さなつぶやき「コンバンワ」で始まる。ヨーロッパと日本の聴衆の反応のちがいが興味深い。
 訃報一週間後の追悼文では、宮沢和史がジョアンのことを「雨つぶを数え、ミツバチを追いかけるように歌う」と例えていたがまさしくそのとおりだろう。ジョアンが歌うのは、戻ってくることのない日々と言い知れぬ喪失感、せつなさ、懐かしい郷愁の世界、そのサンバのリズムを刻むギターと歌唱は色褪せることがなく。
 
 昨日朝、食事の後にF.L.ライトとジョアンのことを考えながら、聴いてみようと手にしたのは、サイモン&ガーファンクルのアルバム「明日に架ける橋 Brige over Troubled Water」(1970)からの一曲で、タイトルはもちろん「So Long、Frank Lloyd Wright」。ポール・サイモン作のボサノバ調のリズム、不思議なメロディー、ガーファンクルの歌声が軽やかでちょっと異色な隠れた名曲だろう。続く超有名曲「The Boxer」へのつながりが素晴らしくて、飽きることなく何度も繰り返し聴いてきた。
どうしてこのタイトルなのかというと、ガーファンクルがコロンビア大学の建築学科学生だったからなのだそうだ。彼がポールに望んで書いてもらった曲らしく、歌詞は建築家の巨匠になぞらえて、相棒への愛憎半ばの想いと皮肉交じりのウイット精神に富んでいる。

それで夢みたいだけれど、もしこの曲をジョアン・ジルベルトが唄うことがあったらどうなのだろう、と想像するとなんとも楽しい気分になってくるのだ。 ああ、天国のジョアンさん、よかったらギター片手にハミングを交えて、どうか歌ってみていただけませんか?

(2019.7.24 令和大暑の翌日に)

ラジオの時間 谷川俊太郎&DiVa

2019年06月09日 | 音楽
 月初めの一日土曜日午後2時開演、「谷川俊太郎&DiVa 詩のまほう、うたのまほう、ラジオのまほう」朗読&演奏会、ひさしぶりの海老名市文化会館へお出かけ。
 ラジオがテーマということで連想したのは、ビーチボーイズの50周年記念のアルバムタイトル「神の創りし給うラジオ」(2012/06/04リリース)。かつて若者の神器だった車でドライブ中、カーラジオから流れてくる音楽の調べに耳を傾ける恍惚感を追想している。このステージもオールドメディアとなったラジオの存在あれこれ、かと想像していた。ラジオが発明され放送が始まって約90年、その当時は最新のメディアで、それこそ“まほうの箱”だったのだろう。

 駅改札を出てデッキを歩くと、週末の昼ということもあってずいぶんとにぎやかだ。会場に向かうJR相模線方面は再開発真っ最中で、すっかり変わってしまった。大きな商業施設ができて、高層のマンションも建設中、そのうち「ロマンスカーミュージアム」というのもできるらしい。

 海老名市文化会館は、ひろびろとした前庭があって、昭和後半時代の面影を残す。小ホールはあとから増築された様で、天井が高く教会堂のような雰囲気だ。ほぼ満席という客席をさっと見渡してみると、やはり若い人よりも中高年以上が目立つ。どちらかというとやっぱり女性の方が多いだろうか。舞台中央にでんとおかれた木製アールヌーボー調の大型ラジオにスポットがあたっていて、その横に椅子がひとつ置かれていた。
 開演時刻になると、まずはベース奏者、つづいて谷川俊太郎さんがゆっくりと舞台中央へ、と同時にさりげなくDiVaのメンバー三人が揃う、まるでいつもの行いのように。進行役は谷川賢作さんで、俊太郎さんとのステージは何度も行ってきただろうに、その都度新鮮な感じがするのは、お互いへの敬意と観客への誠意と、それから息子の父に対する照れもあるみたいだ。その俊太郎さん87歳、ご挨拶かわりに自己紹介の詩から。
 自作詩の朗読、歌と演奏、ツッ込み役の賢作、すこしとぼけた返しの俊太郎、といった調子で会話のかけあいがすすむ。途中、中央のラジオからチューニング音が鳴りだすと、一青窈の谷川俊太郎氏を語る特別コメントが流される趣向。すこし客席がなじんできたかな、という雰囲気になってきたら、また朗読と演奏があって前半は終了。谷川さんはピアノのうしろを通って舞台そでに入るあたりで、客席に一礼して退場、大きな拍手。

 後半の冒頭は、この日のハイライトかもしれない谷川俊太郎とピーター・バラカンの公開初対談。二人とも黒地のTシャツ姿。バラカンさんから本日の二人のいでたちの共通点の話から、ラジオをおもなテーマに和やかにしなやかにときに脱線しながら会話が弾む。バラカンさんは、前半客席後方で舞台を見ていて、谷川さんが読んだ自作詩について、ボブ・ディランとちょっと初期のビートルズの歌詞を連想した、といっていた。なるほどね、直観としてバラカンさんならではの視点。
 最近よく聴いている曲として、ヴィンテージラジオコレクターでもある俊太郎さんは、ヘンデルの「オンブラ・マイフ」をあげていた。あの松本の喫茶室まるもに入ったときに流れていて、耳にした歌曲だ。すかさず、賢作さんが「キャスリーン・バトルの?」と尋ねると、俊太郎さん「誰の歌、演奏でもいいんだ」と返答、そのときに頭の中で、松本の喫茶室まるもでは、かすかなノイズ入りで男性の声とピアノ伴奏だったことが思い出された。
 ふたりの会話は盛り上がってゆくところ、二人目のコメントはやわらかな声の細野晴臣さん。そして朗読、演奏と続き、アンコールはやっくりとした歌いだしで「鉄腕アトム」だった。谷川さん二十代の作詞、当時の時代背景もあり懐かしくもあり、そして若々しく希望にみちていてエンディングに相応しい。

追記:舞台上の大型ラジオは、海老名温故館から借り出された、昭和初期に地元農家で実際に使用されていたもの、舞台上の椅子やテーブルは地元の横浜開港当時のクラシック家具のながれを汲む製作所のものだそうで、いわば地産地消の舞台小道具。


大山蓮華(オオヤマレンゲ) ホウの木や菩提樹によく似た小ぶりの白い花
(旧白洲邸武相荘にて 2019.6.9撮影) 

オン・ザ・ストリートコーナー 1980-86

2018年11月21日 | 音楽
 夏前から抱えていた懸案のひとつにようやくの区切りがついて、自宅近くの16号線沿いにある中古CDコーナーの棚を覗いていたら、大学時代にLPで馴染んでいた、山下達郎の旧譜CDがまとまって並んでいるのを見つけた。ほっとした気持ちもあって、この機会に自分への褒美として購入して久しぶりに聴いてみようかと思った。すこし迷って選んだのは、ア・カペラソング集「オン・ザ・ストリートコーナー1&2」(ともに1986年版)と「僕の中の少年」(1988年)の三枚。
「オン・ザ~1」のほうは、1980年12月にLPがリリースされていて、それはいまもレコードコレクションのなかにある。CD版とはアルバムジャケット写真が異なり、NYブルックリンあたりの摩天楼をモノクロの粗い粒子でプリントしてあって、アンダーグランド風の渋く趣味的な雰囲気を漂わせている。一度は友人へ譲ってしまったのをふたたび取戻したもので、大学時代の思い出がつまった一枚だ。ここでア・カペラやドウー・ワップなる音楽用語を初めて知り、すこし背伸びした気分になったものだ。

 その当時(1980年)は、一部の音楽通受けだった山下達郎が「ライド・オン・タイム」でブレイクしてメジャーなったばかりで、ひとり多重録音を駆使した音楽的才能のスゴさと歌唱のカッコよさに驚嘆し、彼の音楽的ルーツのひとつを思い知らされた気がした。このアルバムの中のお気に入りは、「スパニッシュ・ハーレム」「ブルー・ベルベット」などで、当時、ご本人がつき合っていた?という噂のある吉田美奈子との掛け合いの曲があったりと、なんとも懐かしい。若かったとはいえ、よくぞこのようなオリジン的アルバムをだしてくれたものだと感心する。
 たぶん山下達郎はこのころ、まりや夫人とはまだ巡り合っていなかったのではないだろうか。なんだか、その後の三人三様なのか、はたまた二人三脚なのかの音楽人生にもかかわってくるであろう出逢いと別れ?模様ではある。

 アカペラ集2のほうは、その六年後のリリース、沢田研二もカバーしていた「アマポーラ」で始まり、結婚したばかりのまりや夫人も一曲バックで達郎氏に寄り添って、その歌唱をなぞるような朗読で参加している。高度のアカペラ術はさらに洗練され、いい意味のポピュラー色が増して、クリスマスソングも数曲入り、これからの年末にふさわしい内容となっていて、実にいいタイミングである。スタイリステイックスの大ヒット曲カバー「ユー・メイク・ミー・フイール・ブラン・ニュー」は、ひとりで四声コーラス、さらにリードバリトンとファルセットをこなしてしまう、ある意味タッツアン(愛称)ならではの乗りまくり、圧倒的かつ倒錯的なスゴさ!

 全面イエロー色のアルバム「僕の中の少年」リリーズは、いまからもう三十年前になるというのが信じられない。冒頭「新・東京ラプソディー」が軽快なリズムではじまり、桑田佳祐&原由子夫妻とまりや夫人の三人がバックコーラスで参加している「蒼茫(そうぼう)」を聴きたかったから、というのがこのアルバムを選んだ理由だ。そしたら翌日の新聞夕刊に、山下達郎コンサートツアーの中野サンプラザ公演記事が掲載されていて、それによればこの曲が冒頭二曲目に歌われていたのだそうだ。「クリスマスイブ」「シャンプー」、間奏で祝砲が鳴らされる「レッツ・ダンス・ベイビー」など、いまでも80年代の数々の曲がライブでは歌い継がれて、輝きを増しているのは、当時からの記憶を共有する同時代人としては、ほんとうにうれしい限りである。
 
 黒のニットキャップに赤いシャツ、ジーンズ姿でリズムギターをかき鳴らす達郎氏、はたして思い出の中野サンプラザステージでは、標題の「僕の中の少年」は歌われたのだろうか?

神が創りし給うRADIO

2018年06月10日 | 音楽
 きょう、六月十日は時の記念日、台風五号の影響で雨の一日だった。あちこちで紫陽花が鮮やかだ。
 
 いまからもう六年前にさかのぼる、2012年6月4日、ビーチ・ボーイズ最新アルバムが久々のブライアン・ウィルソン・プロデュースにより、世界同時発売された。そのアルバムタイトルは「Thats why god made the radio」で、過ぎ去りし青春のよき時代をしのぶような、甘酸っぱい郷愁にみちた内容なのだろうかと想像した。 果してそのアルバムは全12曲からなっていて、はじまりは「Think about the days あの頃に」で、ラスト曲は「Summers gone ~ 過ぎゆく夏」。おおまかには期待通りの安心?路線だけれども、七十歳なかばを超えたビーチボーイズの面々が、これまで以上にはつらつと若々しいコーラスと明るく突き抜けたサウンドを聴かせているのはさすがというほかないだろう。

 その二日後の6月6日付新聞朝刊社会面をひらくと、「村上春樹さん 初のラジオ 8月5日 文学や音楽語る」という、写真入りの囲み記事が目に飛びこんできた。これは、社内村上フリーク記者の仕業にちがいないと直感したのだが、たしかにスマッシュトピックスには違いない。
 ムラカミ氏にはすでに「村上ラヂオ」というエッセイ本があって、ラジオと音楽の相性というか親和性はそれこそ抜群だろうし、くわえてDJをムラカミハルキが務めるとしたら、これまたこれほどハマる番組はないだろう。ご本人のラジオ出演が初めてというのも意外だけれど話題を呼ぶことは間違いない。番組タイトルは「村上RADIO~RUN&SONGS」とあり、あえて文学を標榜しないで“走り”をもってきたことは、国民的人気作家の矜持?なんだろうか。
 さらにムラカミ氏がよせたという番組メッセージをよむと「僕の好きな音楽ソースをうちから持ってきて、それを好きなようにかけて、そのあいだに好きなことを放させていただく・・・、そんな感じのパーソナルな番組にできればと思っています」とある。この肩の力の抜けた当たり前すぎるオーソドックスな姿勢が、ラジオというオールドメディア向きでいいなあと思ったのだ。
 ラジオで流す音楽には、やっぱりレコードが似合うけれども、いまの時代はメディアが多様化しているから、音楽ソースという言葉が正確なのだろう。それにしてもこのメッセージのしめすところは、やっぱり、若いころにジャズ喫茶を国分寺や千駄ヶ谷で営んでいた一個人が、いまや小説家として大成功したことからくる余裕というか、視聴者との絶好の距離間の保ち方なんだろうと思う。

 それでもって、きょうはようやく初めてインターネットラジオで「山下達郎のサンデーソングブック」を通しで聴くことができたのだった。今回のテーマは「JAZZ」、ジョージ・ベンソンの有名になる前のインストミュージックから始まって、鼻にかかったタッツアン節に耳を傾ける。
 先の村上番組のメッセージって、まさしくこの25年もつづく長寿番組にもつながるのではないだろうか。SSBの名物コーナー「棚からひとつかみ」は、ムラカミ氏の「僕の好きな音楽ソースをうちから持ってきて」というフレーズと共鳴しているし、ふたりがビーチボーイズ・フリークというのも共通している。1949年京都生まれ神戸育ちの村上春樹氏と1953年東京生まれ育ちの山下達郎氏、微妙に異なる時代の空気が音楽体験にどのような影響をあたえているのだろうか。

 とにかく村上RADIOの選曲もオールディース中心の選曲になるだろうが、どのような固有名詞が選ばれるのか、いまから夏に向かってあれこれと想像することが、今年の夏に向けてのよき日々の過ごし方になる。放送局HPでムラカミ氏への音楽に関わる質問を受けつけていたので、ダメモトでふたつ送信してみたら、羊と猫とレコードとペンとご本人の似顔絵らしきイラスト入りの受信通知メールが還ってきた。
 くしくも八月五日は、その山下・村上両番組が午後二時と七時に相次いでのオンエア競演となる。おそらくは、またとない至福のRADIO日和、とても楽しみにして待とう。

立秋すぎのbossa nova ライブ

2017年08月12日 | 音楽
 今週はウイークデーの仕事を定刻で切りあげて、近くの小さなライブハウスへでかけた。そこでお気に入りの演奏会があるので、聴きにいくことにしたのだ。久しぶりに聴く中村善郎のギターでボサノヴァのスタンダード、共演はピアニストのフェビアン・レザ・パネ、静まった夏の夜にふさわしいノスタルジックで静謐な時間が流れる。

 善郎さんは明るい青のポロシャツに藍色のコットンパンツ?ジーンズ?、黄土色のスリップオンの靴、一方のパネさんはアース色のTシャツに同系統のコットンパンツ姿で登場。このふたりのデュオの音は、鳴り出した瞬間にそれとわかるなんとも言えない“安心感”のような雰囲気があって、とても落ち着いた気持ちにさせられる。二、三曲演奏したあとにパネさんが立ち上がって、ピアニカを手にした。アコーディオンの伴奏のようで、懐かしさを思い起こさせる音色がボサノヴァの世界とよくとけあっていく。

 休憩後の冒頭、中村さんがひとり登場しておもむろに弾きだしたギターのイントロにはっとさせられた。ああ、この音「私の心を傷つけるために」は、2000年8月にリリースされた「SIMPLES」の一曲目で、生い茂るシダの密林のなかで赤い絞り染めの半袖シャツを着てギターを抱えた善郎さんの横を向いた立ち姿が印象的なジャケット写真のCD、もうあれから17年が過ぎてしまったのか。最近思い出したようにドライブ中によく聴いていた曲だ。ここちよく刻まれるリズムに、深みのあるヴィーカルも合わさって、ライブの密度の濃い臨場感で空間が満たされてゾクゾクしてきたのを感じる。そしてピアノソロはリリカルに、まるで外の熱気を覚ます急な雨が降り出したかのよう。
 
 ふたたびデュオに戻って、ギターとピアノによるインストルメンタル曲のあとに「コルコバード」「バイーア」と続き、アンコールは「ディサナフィード」で締めくくり。もう時計は22時を回っている、いいライブ、やはり聴きに来てよかった。



 夏のスカイラインを切り分ける二景、まほろ郊外をすこし車で走ればこんな風景に出会える、というわけで相模川ちかくにひろがるヒマワリ畑と青々と伸びた稲が風になびく水田。
 これをハワイにいる友人に送ったらしばらくして返信をくれて(時差を感じる)、このヒマワリ畑をみてS.ローレン主演の映画「ひまわり」を連想したとあった。それほど広大ではないが、ニーノ・ロータの哀愁溢れるテーマ曲が広大なヒマワリ畑風景に被って、なんとも印象的ただったのを思い出す。ちなみに水田のほうには反応なしで、これは海外生活が長いからなのだろうか、瑞穂の国の住人としてはちょっとさびしいかな。
(2017.08.06 座間キャンプさきの座架依橋付近にて)