日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

妙喜庵から聴竹居へ そのⅡ 自然との調和

2017年12月23日 | 建築
 その日の早朝、薄明かりの中、目覚めてしばらくすると、すぐまえの駅前ロータリーからは、路線バスとおぼしきエンジンの音や東海道線を往来する列車の音がかすかに聞こえてきていた。
 昨日の余韻がのこっている。買っておいたヨーグルトを冷蔵庫からだして、金柑のテキーラ煮コンポートをかけてたべる。朝には濃厚かと思いきや、ことのほかまろやかな味わい。口にするうちに柑橘の香りとあいまってか、気持ちが覚醒して身体の芯からシャンとしてきた。これは、その日の聴竹居との初対面にむけて、好ましいイントロダクションとなるだろう。

 支度をすませて荷物を預け、外に出ると冬の青空に多少の雲、あたたかい陽射しがでてきている。昨日訪れたばかりの妙喜庵生け垣をみながら東海道線わきを進み、踏切を渡ってすぐ左手の道をカーブにそって天王山麓を上っていく。大きく曲がったさきの道端に、キャンバス立てにのった「聴竹居」看板が目に入ってきた。その見上げたたたき石段の先には、周囲の木々の落葉のせいだろうか、思いのほかあっさりとくだんの建物の入り口がみえている。初対面のご挨拶もすまないうちに、建物主で設計者の藤井厚二(1888-1938)に飾り気なく迎えてもらった気がして、こちらがどきまぎしてしまうような心持ちになる。

 まずは、玄関わきから左手にまわって、南の広場から一段高い位置の聴竹居と縁側=サンルーム越しに対面する。ここからの眺めはよく写真でみることのあるアングルで、あまりにも有名でいささか陳腐かもしれない。ところが縁側正面のイロハモミジはほとんど落葉していて、いまのすっぴんの平屋建て本屋建物の全容が見通せる。まるで自然の衣をぬいで、一糸まとわぬその見事な裸体プロポーションを惜しげもなくさらしてくれているよう。昭和のはじめから九十年の時を重ねて薄肌いろの壁に、木枠で縁どられた幾何学的な水平連続ガラス窓が真横に伸びる。薄い軒先屋根の勾配と連なりの美しさはどこかでみたような、そうだこれは都ホテル和風別館の佳水園を思い起こさせる。建物基礎土台がコンクリート(鉄筋入り)というのもいっしょで、耐震をふまえた近代構造学が活かされている。

 そして建物構造において必ず特筆されるのが、居間中央に北側外気を室内に取り入れる通気口、天上床には熱気をにがす排気口を設けていること。室内の気流を循環させることで夏の暑い季節をしのぎ易くし、涼しく暮らすための工夫がなされていることだ。じつのところ、高台なので窓を開け放てば、眼下の川床方面からの涼風が吹きこんでくるのだろうが、この構造があちこちで強調して礼讃されるのは、いまの時代のエコブームが関係していることもあると思われる。くわえて、深い軒に庇のつくりや周囲の植栽とあわせて、環境共生住宅のさきがけと言われる所以だ。

 夜になって縁側ガラス窓奥の居間障子戸がしめられ、室内のやわらのかな灯りがともった二重の情景をこの庭越しに眺めてみれば、さぞかし美しいだろう。縁側空間から一段下がった右手客室、左手寝室との連なりもリズミカルで、和風モダニズムが周囲の自然と調和している見事な佇まい。
  

 成長した木々に覆われる聴竹居。手前のドウダンツツジの紅葉は赤と黄色のツートーン。
 (撮影:2017/12/10 am)

 正面玄関の洋風木製窓には、菱型の飾りガラスが入ってほのかな品格がある。その扉の内側に入ると、飴色の世界といった雰囲気、建物の中心空間を占める居室へと案内していただく。ここの空間は半月形に開けられた縁の仕切り壁により、視野を遮ることがなく、食事室、客室、読書室へとつながって広々とした一室として印象づけられる。居室から寝室へとつながる小上がりがりのような仏間のある三畳敷のスペースは、居室床よりも三十センチほど高くなっていて、和と洋をつなぐ緩衝地として機能している。この発想、和洋の目線をあわせる配慮は、同時代の在野の建築家遠藤新(1889-1951)ともつながるところだろう。

 いっぽう遠藤と対照的なのは、居間の中心に暖炉がないこと。藤井は近代住居家屋における火の原初性、象徴性をどのように捉えていたのだろうか。日常空間としては、暖房や調理に電気器具を取り入れて、伝統的な囲炉裏からの脱却の一方、別棟の下閑室(茶室)空間において炉を設け、バランスを図ったということか。
 居室天上のアールヌーボー調の楕円形照明、室内コーナーの作りつけ物置台、テーブルや椅子の家具調度もすべてが美しく、手間をかけた無駄のないデザインでまったく押しつけがましさがない。
 これらには、じっさいの施工を担ったという伊勢出身の大工、酒徳金之助のアイデアとこだわり、丁寧な仕事の腕がおおきく貢献していたに違いない。その意味では酒徳なくして建物は存在せず、この珠玉の木造モダニズム住宅は、藤井と酒徳の共作といっていいだろうと思う。名声は藤井ひとりのみならず、おそらくふたりのものだ。

 あらためてゆっくりと周囲を見回す。縁側から窓越しに切り取られた庭の木々や東海道線を隔てたその先の遠景も、ゆるやかな山麓の途中の高台にあるために視界を遮られることがない。現在はふもとに住宅が建て込んしまい、桂川と宇治川、木津川が合流する情景は望めないにしても、庭の新緑の頃は緑がしたたり、紅葉のころは正面のイロハモミジが赤く燃える情景に包まれることだろう。
 意外なことに、かつてはあった周囲の竹林がはらわれてしまって、いまはいにしえの賢人が風に揺れての聴くところの余韻は失われて久しい。かわっていまは見事に枝をのばしているイロハモミジに因んで、凡人には“紅葉亭”といった風情なのだが、これでは、どこかの観光ホテルのようであまりにもベタ、平凡にすぎてしまう。やはり、時代が移ろおうとも、これからも聴竹居は聴竹居でなくてはいけない。

 モダニスト藤井厚二の意図したであろう、自然との調和と共鳴を思った。藤井における西洋文化と日本の伝統様式との統合指向は、建築デザインにおいてはもちろん、その生活スタイルにおいても顕著だ。とくにこちらの住宅設備においては、当時としては先端的なオール電化の電気設備(室内照明・冷蔵庫・電熱器・電気湯沸し器など)をとりいれている点が、着物をきたモダニストの面目躍如といったところ。だだし、かかる電気代はものすごいだろう。その反面、風呂場裏にはとってつけたような?昔ながらの煉瓦つくりの風呂釜があったりして、昭和初期のエネルギー事情を彷彿とさせる。

 さて帰り際、玄関先をでたところで気になるものを目にした。象か怪獣なのか、なんとも奇妙な小さな御影石の彫刻を目にする。敷地内にはもうひとつあって、藤井の東京大学時代の恩師、伊東忠太のデザインによるものという。この地に置かれた経緯はあきらかではないそうだが、明治45年に伊東が設計した西本願寺伝道院が竣工していて、その周囲に配置されたものと同じということだから、ふたりの間にやりとりがあったのかもしれない。いずれにしても邪気を払う守り神?か竣工記念の遊び心によるプレゼント?なのか、なんともほほえましい感じがして、名残惜しくも聴竹居をあとにする。


追 記:
 あらためて藤井厚二のプロフィールを参照すると、明治22年12月8日生まれ、昭和13年7月の没。
 ということは来2018年が生誕130年、没後80年にあたる。今回、重要文化財に指定されたばかりの聴竹居を訪れたのは、偶然にも藤井の生誕記念日直後の12月10日、これも何かの世の縁(えにし)のような気がした。このさきに桂離宮を見学できる機会があれば、すこし足を延ばして嵯峨野二尊院に建つ、藤井厚二みずからデザインの墓標に参ろうと思った。
 なお、重要文化財に指定されたのは、地元住人たちの地道な活動と、藤井厚二がかつて在籍した竹中工務店の所有となったことに加え、なんといっても決定的だったは、2013年6月に天皇陛下が行幸啓されたことだという。これで周囲の人々の意識が変わって覚悟が固まったのだから、平成皇室のやんわりとした御威光に感じ入る。
 

四条大橋西詰 東華菜館と喫茶室フランソワ

2017年12月21日 | 旅行
 その日のお昼過ぎ、妙喜庵を辞した後は、待庵のある生け垣を横目にみながらわき道をぬけて、少し離れた阪急大山崎駅まで歩き、そこから一路四条河原町まで出る。あすの聴竹居との初対面にむけて、ちょっとした気持ちの切り替えに街中へと、でもこれがまたなかなかの建築三昧のひととき。

 すこし遅めのランチを四条大橋西詰たもと、東華菜館でとることにしていた。W.M.ヴォーリズによる大正十五(1926)年竣工の五階建て、もともとは西洋レストランで、現在はあとを引き継いで老舗北京料理店となっている。反対側東詰にある、同時期の昭和二年(1927)竣工、当時の最先端建築様式だった表現派風デザインの外観をみせるレストラン菊水と対になるレトロモダン建築で、来るたびにいつも気になっていた。
 全体の外観と屋根瓦はいちおうスパニシュッ・バロック様式といわれているが、中に入ったアラベスク文様や特徴のある塔奥のデザインはイスラム様式の雰囲気を遺していて、とにかく不思議な印象がする建物だ。正面玄関のファサードからしてすごい。テラコッタ製のライオン、魚、タコ、貝などが踊っていて、訪問者をにぎにぎしく出迎えてくれる。右手のエレベータは、1924年製造アメリカ輸入のOTIS製とのことで、蛇腹式扉、時計式のフロア表示、運転は手動式で当時の最新式設備にびっくり。ちなみに外観で目立つあの塔屋なかは、エレベーター機械室なのだそう。
 四階についてうやうやしく窓際席に案内されると、そこからは南北にのびる鴨川と改修工事中の南座大屋根と祇園の街並みをみおろせて、東山から清水方面を展望できる風光絶佳のながめが拡がって、おおいなる感動ものなのだ。凝った床面の埋め込み模様、オリジナル家具調度の類もなんとも重厚で年代を感じさせるから、思わず背筋がしゅんと伸びる。
 ここでいただいた料理は、名物の水餃子に酢豚、生菜包(海鮮ミンチ炒めを新鮮なレタス菜で包んでたべる)にビールで二人前五千円は、たっぷりのお茶のサービスに建物の歴史的価値、そこからの眺めも入れて十分なくらいのお値打ちだと思う。これはぜひ、夏の川床や屋上のビアガーデンのころになったら、また訪れてみたいものだ。

 大橋をわたって四条通を祇園方面へそぞろ歩きすると、夕刻でさらに人出がましたのか混雑していた。もうひとつの目的地、京都現代美術館「何必館」へ立ち寄る。一階がギャラリーでここに入ると表の雑踏とは大きく異なる静謐な空間が広がっている。山口薫、村上華岳、魯山人の作品と対面、山口薫の絵画を意識してみるのは初めてだ。ここの印象はやはり、茶室のある最上階空間の空中庭園、光庭の印象である。館オーナーの隙のない美意識に敬意を表したいところだが、そのよく演出されたこだわりにちょっとした綻びをみつけてしまって、まあそれも人間らしい一面だろうと思う。

 ふたたび四条大橋を渡って、先斗町を通り抜け、廃校になった元小学校前でUターン、四条の交差点から高瀬川のすぐ横の通りをくだり突き当たった先に貫録のある白壁に瓦の建物が目に入ってくる。その村上重本店で冬の時期の名物、かぶらの千枚漬けを買い求める。この小さな通りは、雑踏からすこし抜け出ただけで落ち着いていて、両側には個性的なお店が並びなかなかのいい雰囲気だ。
 ひと昔前に一度泊まったことのある小さな旅館の玄関ももかわらぬ佇まいで健在だった。三階建ての裏に回ると高瀬川のせせらぎに面していて、こちらの部屋でそのせせらぎを眺めながらおいしい朝ごはんをいただいた記憶がよみがえった。ほんと、こんなところがあるんだ、京の都のふところの深さ、街中の町屋でゆっくり寛げてよかったなあ、こんどは桜の季節に泊まってみたらいいだろうな。

 もうひとつ、名店めぐりはつづく。おしまいに立ち寄った、喫茶室フランソワも変わらぬことの良さを感じさせるお店の代表格。じつに昭和九年の創業というから、この時世において愛されてるのはほんとうに立派で奇跡的というしかない。小さな扉の先は別世界、給仕するアルバイト女性たちの制服が、なんだか西洋メイドさんのようですてきだった。思いのほか、若いカップルや男性も多い。壁面の木製飾りのねじりアーチが印象的、かつての画家や文化人たちが集ったというその同じ白い空間でほっとひと息つく。

 京の街中、澄んだ夕暮れに肩寄せてのあちこちそぞろ歩きは、ノスタルジックでいいな。すっかり夕暮れた河原町交差点に出て高島屋の地下へと下り、阪急で大山崎への帰路につく。

妙喜庵から聴竹居へ そのⅠ 市中の山居

2017年12月16日 | 旅行
 年の暮れ、冬至まであと二週間というこの時期、念願かなって関西方面を旅してきた。

 早朝の新横浜から新幹線で名古屋まで行き、そこで在来線へ乗り換えて大垣経由関ヶ原を超えて、お昼前に大津へ到着した。駅前のなじみのお蕎麦屋さんで昼食をとったあとは、湖方面へむかってゆるやかな下りを歩き、大津港横の広場へと出る。花崗岩列柱が二列にならぶここの広場全体のモニュメントは、彫刻家井上武吉の遺作(1997)になる。やや広すぎてさびしい感じがする広場の中央にほつんと一本の楠がシンボルツリーとして植えられていた。もうすこし年月がたって楠が大木となり、周囲の半円上の石段が遺跡のように古びれば、もっと全体の見立てがよくなるだろう。

 その広場でしばらく佇んで湖面をながめているうちに小雨が降り出し、ちかくの遊歩道を三井寺まで詣でることにした。参道から山門をくぐるとすっかり紅葉が落ちてしまって地面を覆っていた。本堂まですすみ、参拝記念に近江八景のひとつ、三井の晩鐘を衝かせていただく。思いのほか長い余韻が響きわたり、その間手をあわせてこの旅の無事を祈った。
 高台に上って、はるか市街と琵琶湖方面を展望する。しだいに夕暮れがせまるなか雨が増してくる。京阪浜大津から、宿最寄りの石場駅までゆき、その日は琵琶湖畔で一泊した。大浴場からの夜景がきらめく。
 翌日、まだうす暗い空が朝焼けの湖面ともにしだいに透明に輝きだすと、湖をぐるりとめぐる近江の山並みのシルエットが浮かびだしてくる。この日は快晴になるだろう、その夜明けの雄大な自然の情景を心象の中に刻もう。
 すこしねぼけの目覚めにぴったり、金柑の自家製コンポートをいただく。金柑は冬至の七草のひとつなんだそうで、名前に「ン」がつく食べ物は“運盛り”とも言われて縁起がよいという。
 湖畔にでて、ひんやり空気の中を大津プリンスホテル目指してそろそろと歩く。風はすこしあるが静かな湖面に波はわずかでやはり湖国はいい。シャトルバスで大津駅まで乗せてもらう。

 ふたたび大津から東海道線に乗り、約三十分ほど、京都駅を過ぎて天王山ふもとの小さな駅舎で下車する。ここは山城国乙訓郡大山崎町、山崎駅のホームはずれが京都と大阪の国境となっている地だ。歴史的には戦国時代に秀吉と光秀の天下取り古戦場となり、地理的には桂・宇治・木津の三川が合流して淀川となって大阪湾へとくだっていくところ。
 まずは荷物を駅前の宿に預けてから、駅前広場のすぐ横の生け垣に囲まれた妙喜庵を訪ねる。まったく拍子抜けする位に駅の目の前で、すぐそこに高名な国宝茶室があるなんてにわかに信じられないくらい、でも確かにあるのだ。ここは東福寺につらなる臨済宗の小庵だそうで、思っていたより若い50歳前後の住職がてきばきと出迎えてくれる。
 さっそく案内をいただき書院へすすむ。すぐ目の前には小さいけれど、よく手入れされた植木、庭石と苔のすがしがしい庭が目に入る。まさしく、いまは市井のなかの山居といったたたずまいだ。その茶室は書院に付属してすぐ目の前にあった。独立した茶室だとばかり思い込んでいたのでこれはまったく不意打ちをくらったような意外なことだった。

 いったん庭に降りて、南側の躙り口のある正面にまわり、茶室待庵とのはじめての対面である。ややひろめの躙り口、東側の障子窓からひかりはすでになく、二畳敷の室内は薄暗いが濃厚な気配が漂う。黒ずんで練り込まれた藁の茎がはがれて模様のようになった塗壁に囲まれたムダのない、というかスキのない内空間と表現したらいいのだろうか。なんだかどろりとした薄眼をあけた肉厚で質感のつまった、それでいて柔軟な利休の気配のようなものを感じる。ここで利休と秀吉が対面いや対峙したときの四百年余り前の時代の空気を想像してみる。その遺構は、正面の床の間、角がとられた床柱、塗壁、斜めの化粧天上などに残っている気配がしていた。隅に切られた炉は使われていなくなって久しいというから、いちおう窯はおいてあるもののだだの飾りにすぎない。
 次の間は一畳板間付、茶の間と一間のしきり襖には木枠がなくて全体が障子張りとなっている。建物の外壁は、もちろん何度となく塗り直されていることだろう。こちらの住職によれば、午前中早く東側の障子明りが差し込む時間と午後からとでは、当然ながら室内の様子がことなるといっていた。やはり、これは機会をつくって、ぜひ午前中の光の内に訪れてみなくてはならないだろう。

 すこし、息を抜いてみようとあらためて庭を見回す。ふと、モッコクの木の横、茶室の南西の門にあたる位置に珍しいナギの木が植わっていることに気がつく。熊野権現のご神木で八咫烏とともに描かれる南方系の常緑樹だ。この小さな庵に植えられたのは近年のことだろうがとりあわせが面白い。
 書院にもどって茶室の水屋につながる入り口をみる。広間からは一段下がったつくりになっていて、一畳ほどの広さだ。この茶室が陣中にあったという天正十年(1582年)六月、利休が秀吉に茶をたてるために水屋をくぐっていく様子を想像してみよう。

 帰ってから、赤瀬川原平「千利休 無言の前衛」(1990、あとがきには1989.12.19と記されている)を開き直す。中ほどの129頁「待庵の秘密」の項には、赤瀬川さんの描いた「待庵空間」と題する著者のイラストが掲載されいる。その一見脱力感あふれるイラストと本物の印象を対比すると、この茶室の語りつくせない本質の一面がみえてくるのではないかと思う。まさしく簡素な「無言の前衛」という言葉のなかに、この草庵茶室と千利休という歴史的存在の本質が言い当てられている。

 今宵の駅前の宿は、三階建てのひよこ色の壁に木枠縁飾りの窓、プチホテルといった風情で、一階にベーカリーと喫茶室、二階に雑貨屋を併設している。翌日、ここから線路を渡ってすこし山麓を上っていけば、いよいよ念願の聴竹居との対面だ。

 
 京都府乙訓郡大山崎町小字竜光56。正面にある門柱に、ここの小禅庵の歴史的史跡事項が刻まれる。
 
(2017/12/16 書き始め、12/18初校校了)