冬支度のため新潟に向かう。圏央道経由で藤岡ジャンクションから信越道に入って、一路ふるさとへ。
碓氷峠のトンネルを抜けた妙義山のあたりでは、雨雲に隠れて奇岩の連なりは見ることができない。小諸までくると雨は上がってきて、右手方向のさきに浅間山の雄大なすそ野が広がっていた。長野から須坂の先、小布施サービスエリアで二回目の休憩をとる。駐車場の向こうには戸隠飯綱連峰が望める。またすこし雨模様になってくる。このさきの県境ちかくになると雄大な妙高山がみえるはずなのだが、あいにくの天候で上から半分は雲に覆われてしまっていた。
上越高田インターチェンジを下りたのが午後三時過ぎで、ここから高田市街を抜けて、刈取りの澄んだ田園地帯をひたすら東へと走ってゆく。やがて平野が頚城丘陵へと入るあたり、雨脚は次第に強くなり、山高津字鞍馬というところで沿道に民家を改装した軒先の白い暖簾が飛び込んでくる。鞍馬とは気をひく名前だが、戦国時代の武将上杉謙信にちなんだ名前だという。
このあたりではまったく珍しい喫茶専門店だ。だいぶ前の帰省の折に立ち寄って以来、変わらずに営業を続けている様子になんだか嬉しくなり、玄関前に車を停めて中をうかがう。吹き抜けの天井に黒々とした梁が組まれた空間、土間にいくつかのテーブルを並べた店内に客は誰もいない。まだ三十代くらいの若い夫婦らしきふたりの姿がみえた。ミシン台を再利用したテーブルの椅子に座って呼吸をすると、すこし煤けた匂いが残っている。温かい飲み物が欲しくなって、ココアを注文した。
ココアを飲みながら、吉野登美子「琴はしずかに」の頁をめくる。その副題にあるように、齢三十歳前で夭折した詩人八木重吉の妻が、出逢いから死別までのわずか六年ほどの思い出について、詩人没後五十年を機に回想して綴られた文章である。この著者は、旧高田藩士であって日本画家だった父をもつひとで、まさしくふるさとゆかりのひとだ。一方の八木重吉は多摩のはずれ、旧堺村相原生まれで豪農の二男のクリスチャン、夫人とは池袋の下宿先で家庭教師とその生徒の関係で知り合ったことをきっかけに、生涯の伴侶となっていく。まことに短い生涯であった分、その無垢な魂の交流の純度は、痛々しいくらい崇高に感じられる。夫人は夫との死別後、数年して愛するこどもたちを次々と結核で失いながらも夫の原稿を守り抜き、戦後は巡り合った高名な歌人の吉野秀雄と再婚したのちも、吉野の理解のもと八木との魂の交流を描くことなく、平成十年にその稀有な人生の長寿を全うされた。
本書では、夫人が幼い時代を過ごした明治期の高田時代のことや、吉野秀雄との出逢いについては殆ど触れられていないのが残念なことだ。その中でふたりが新婚時代を過ごした兵庫県御影時代の様子が記されている。それによると、ココアは重吉の好物であったそうで、英語教師であった重吉が勤務から帰ると、まずココアを飲んでから詩作に励んだのだそうである。
さて、ここからふるさとの家まではひとつ峠を越えたら、もうすぐだ。
落ち着いた構えの“喫茶去”骨董と手作りケーキの店とある。
喫茶去とは、禅語で「お茶をどうぞ」の意。さり気げなくも人生の極意を表わす。
店の脇には、移築された鋳物製の外灯が地方文明開化を感じさせる。
碓氷峠のトンネルを抜けた妙義山のあたりでは、雨雲に隠れて奇岩の連なりは見ることができない。小諸までくると雨は上がってきて、右手方向のさきに浅間山の雄大なすそ野が広がっていた。長野から須坂の先、小布施サービスエリアで二回目の休憩をとる。駐車場の向こうには戸隠飯綱連峰が望める。またすこし雨模様になってくる。このさきの県境ちかくになると雄大な妙高山がみえるはずなのだが、あいにくの天候で上から半分は雲に覆われてしまっていた。
上越高田インターチェンジを下りたのが午後三時過ぎで、ここから高田市街を抜けて、刈取りの澄んだ田園地帯をひたすら東へと走ってゆく。やがて平野が頚城丘陵へと入るあたり、雨脚は次第に強くなり、山高津字鞍馬というところで沿道に民家を改装した軒先の白い暖簾が飛び込んでくる。鞍馬とは気をひく名前だが、戦国時代の武将上杉謙信にちなんだ名前だという。
このあたりではまったく珍しい喫茶専門店だ。だいぶ前の帰省の折に立ち寄って以来、変わらずに営業を続けている様子になんだか嬉しくなり、玄関前に車を停めて中をうかがう。吹き抜けの天井に黒々とした梁が組まれた空間、土間にいくつかのテーブルを並べた店内に客は誰もいない。まだ三十代くらいの若い夫婦らしきふたりの姿がみえた。ミシン台を再利用したテーブルの椅子に座って呼吸をすると、すこし煤けた匂いが残っている。温かい飲み物が欲しくなって、ココアを注文した。
ココアを飲みながら、吉野登美子「琴はしずかに」の頁をめくる。その副題にあるように、齢三十歳前で夭折した詩人八木重吉の妻が、出逢いから死別までのわずか六年ほどの思い出について、詩人没後五十年を機に回想して綴られた文章である。この著者は、旧高田藩士であって日本画家だった父をもつひとで、まさしくふるさとゆかりのひとだ。一方の八木重吉は多摩のはずれ、旧堺村相原生まれで豪農の二男のクリスチャン、夫人とは池袋の下宿先で家庭教師とその生徒の関係で知り合ったことをきっかけに、生涯の伴侶となっていく。まことに短い生涯であった分、その無垢な魂の交流の純度は、痛々しいくらい崇高に感じられる。夫人は夫との死別後、数年して愛するこどもたちを次々と結核で失いながらも夫の原稿を守り抜き、戦後は巡り合った高名な歌人の吉野秀雄と再婚したのちも、吉野の理解のもと八木との魂の交流を描くことなく、平成十年にその稀有な人生の長寿を全うされた。
本書では、夫人が幼い時代を過ごした明治期の高田時代のことや、吉野秀雄との出逢いについては殆ど触れられていないのが残念なことだ。その中でふたりが新婚時代を過ごした兵庫県御影時代の様子が記されている。それによると、ココアは重吉の好物であったそうで、英語教師であった重吉が勤務から帰ると、まずココアを飲んでから詩作に励んだのだそうである。
さて、ここからふるさとの家まではひとつ峠を越えたら、もうすぐだ。
落ち着いた構えの“喫茶去”骨董と手作りケーキの店とある。
喫茶去とは、禅語で「お茶をどうぞ」の意。さり気げなくも人生の極意を表わす。
店の脇には、移築された鋳物製の外灯が地方文明開化を感じさせる。