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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

建築・美術館周遊(3)~明治神宮から外苑絵画館へ

2014年07月07日 | 建築
 明治神宮手前の山手線にかかる神宮橋から、代々木国立室内競技場の二つの勇姿を眺める。改めて、よくぞ五十年前の時代にこのような建物を完成したものと素直に感動。本当に称賛されるべきは構造設計者と施工会社と建設に従事した人々である。なにしろ、竣工が1964年9月第18回オリンピック東京大会の開幕直前だったとのこと。この同時期、丹下健三は、目白の東京カテドラル大聖堂も設計していて創造性の絶頂期だったのだろう。
 この吊構造による大屋根と大空間を内包した建築は、当時構造的にも造形的にも類のないもので、未来に向って燦然と輝いていただろうし、いまみても全く古びていない。個人的な印象で言うと、構造的には海洋をまたぐ吊り橋と同じ土木的あるいは原初的壮大な力強さを感じるとともに、造形的には第一(水泳場)・第二(バスケットボール)競技場ともカタツムリかサザエまたは南洋貝類の一種に見えて、近代的でありながらどこか有機的な印象である。近代建築にありがちなよそよそしさがないのは、50年の時間経過が周囲になじんできたことと敷地の余裕、そしてあの大屋根にあるのだろう。現代建築がなくしたものの大きな要素のひとつは、一般に屋根だといわれている。それは伝統木造建築と比較すると一目瞭然だけれども、この建築は吊構造から生じる大屋根の存在が、見るものに壮大さと同時に寺院建築をみるようなどこか安心感をあたえるのではないだろうか、と思ったりもするのだ。ふたつの異なった柔らかな屋根と壁面が描く曲線の対比もすばらしい。

 ひとしきり、オリンピック遺産を崇めてから南参道を進んでいく。小雨の中、200メートル余り進むと内苑の東門入口、500円の入苑料を納めて中へと進む。この時期に訪れるのは本当に久しぶり、南池ほとりの御釣台前にでる。初夏らしくスイレンが白い花をたくさん涼しげに浮かべていた。初めて見たときは、モネの絵画のようだと思ったけれど、自然が芸術を模倣するなんて地球上では人間だけの見方なんだと思い当たった。ここは、都心にありながら変わらなさがいい。草木は日々変化しているのだけれど、その変わり方のリズムがゆっくりと人になじみ、安心をあたえるだろう。
 先にすすむと、木々の緑に囲まれて菖蒲田が見えだし、幸運にも最後の花々を崇めることに間に合った!田んぼにはすでに水は張られてはいなかったけれども、この霧のような雨が瑞々しさを遺していてくれた。四阿の茅葺屋根は葺き替えられていたけれど、この風景も、上京したばかりの30数年前同様、ほっとさせてくれて時間が戻ったかのようだ。さらに奥へと誘われると、自然湧水の清正井に辿り着く。都心のパワースポットとしてブームになってしまった分、以前ほどの神秘性が失われてしまったのは、まあ仕方がないのかな。

 内苑北門からふたたび参道へ。右に折れると拝殿と向き合うことになる。以前より外国人、とくにアジア人の観光客が増えている。1958年に再建されて風格の出てきた本殿を囲む回廊の屋根の連なりがいい、やっぱり伝統建物には屋根だ。したたる緑の中の屋根の存在が安心感と一定のリズムを建物に与えてくれるのだと思うことしきり。
 平成に入って新築された神楽殿の前を通り、社務所の先の北参道を進むと、ぐっと歩く人の姿が減ってきて大鳥居を抜けると、右手に神社本庁の黒々した建物が見える。そのまま銀杏並木にそって、山手線高架をくぐって並木にしたがっていくと、代々木・千駄ヶ谷方面へと続く。この参道は大正期に明治神宮が創設された際には、内苑と外苑をつなぐ裏参道として馬車道とともに整備されたそうだ。いま、両側の銀杏並木は残るが、地下には大江戸線が通り、どうやら馬車道の部分は首都高速がJR中央線と並行して走っていて、ここがかつて計画された北参道と意識できる人は少ないだろう。

 途中、国立能楽堂(1983、設計:大江宏建築事務所)をみていくことにする。古典芸能を意識しながらも建物は伝統的な様式を装った鉄筋コンクリートと御影石を組み合わせた現代建築で、とても竣工30年が経過しているようには見えない。九つの大小の屋根がリズミカルに連なる。
 やがて、千駄ヶ谷駅前にでると目の前に津田ホール(1988年竣工)と東京体育館(1990年)、ふたつとも槇文彦総合計画事務所の設計による。前者は青山スパイラルのファサードをすこし大人しくした感じで、駅に向かったコーナーが丸みで柔らかくデザインしてあるのが目をひく。後者は、いまにも飛び立とうとしている宇宙船のよう、屋根と立面にはアルミ板が使われてメカニックな感じがするが威圧感はなし。どうしても国立代々木競技場と比べたくなるけれど、敷地の広さにあわせ象徴性を押さえている分、まわりの緑や住宅地との調和が考慮されてるのだろう。背後の新国立競技場建て替え問題が議論を呼んでいるいま、それはそれでひとつの卓見だと思う。このトピックスには、一般市民の立場からいずれじっくりと整理して考えてみたいと思っている。
 
 東京体育館広場を通り抜け、外苑西通りを跨ぐ明治公園橋を渡り、その国立霞ケ丘陸上競技場正面入口に立ってみる。解体準備の工事囲いの向こうの競技場本体壁面には、オリーブの小枝をかたどった模様と東京オリンピック1964のメモリアルプレートがはめ込まれ、陸上競技優勝者名が刻まれている。きっとマラソン優勝者アベベの名もどこかにあるはずだ。
 ここはスポーツの聖地であると同時に、前身の明治神宮外苑競技場だった戦時中の1943年10月21日、文部省主催で時の首相東條英機が激励し、出陣学徒壮行式が行われた地でもある事実が重く迫ってくる。戦争の暗い影の歴史の上に平和の世界スポーツの祭典が開かれたのは、記憶されるべきことだろう。その記念碑があるのを知ったのは5月末の朝日新聞別刷be「映画の旅人 東京オリンピック」記事中だったけれど、残念ながら今回は見つけることができなかった。

 国立競技場を半周して、いよいよ終点の聖徳記念絵画館(1926年竣工、設計:公募当選作を明治神宮造営局で修正)の前に立つ。絵画館というくらいだから、これこそ歴史ある空前の規模のギャラリーで、それも近代の実存したお二人の人物事蹟をたたえる80枚の日本画と洋画が展示された絵画館だ。建物裏に回ると中央ドームの真後ろの位置には、明治天皇葬儀の際の葬場殿址があって、そこには楠の大樹が神々しく聳えていて、西洋近代化にひた走った「明治」という時代のメモリアル聖地を象徴しているかのようだ。
 ふたたび、表の絵画館正面階段にたって、広場から青山通りまでシンメトリーに連なる銀杏並木とその先の高層ビルが対比が見事なランドスケープに見入る。広場前の石造の旧国旗掲揚には、二頭のたて髪をなびかせた麒麟のブロンズ像が前足を高々と上げて向き合っている。ここは明治の幻影を引きずった大正期の壮大な都市計画が、大戦をはさんだ昭和を経て、平成の現代までとつながった歴史的文脈の中で存在してきているかけがえのない空間だ。

 
 一か月前、Mとふたり青山から表参道を横断して神宮前のワタリウム美術館に立ち寄ったあと、黄昏時の外苑西通りにでて青山通り側から、ライトアップされた銀杏並木ごしに眺めた絵画記念館を発見し、ロマンチックな気分に浸ったのもつかの間、ひと気の途絶えた静謐な並木のもとを歩きながら正面から近づいて見上げたときの何とも言えない不思議で神聖な感慨は、この幾重にも重なったこの地の地霊のようなものが呼び覚ましてくれたのかもしれない(いったいあの時は何を話したのだっけ?高尾にある大正と昭和天皇御陵のこと?う~ん、今から思うとあの情景のなかでは確かに相当ヘン!もしかして天皇の祖霊がいたのかな?)。

 ここがTOKYOという都市空間の優れた景観として鎮座し、平和の中この先もずっと変わらずにあってほしい、そう切に願う。




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