アイヌって?
アイヌ民族博物館 北原次郎太
歴史
アイヌは、日本国に暮らす民族の一つで、東北地方の北部から北海道、千島列島(北方四島とその北の島々)、樺太(今のサハリン)といった地域に古くから暮らしてきました。明治時代になって、おおぜいの和人(日本民族)が入植(植民地に入って生活をはじめること)し、隣り合ってくらすようになりました。そこで、先にくらしていたという意味で「先住民族」という言葉を使うこともあります。
アイヌモシリ(アイヌ民族の土地)には、文字を使った記録ができるより前から人が暮らしてきました。約2万年前の石器、1万年前の人の骨が見つかっています。この骨は、現在のアイヌの先祖らしく、この頃までにはアイヌが北海道に来ていたことがわかります。
世界のどの民族でもそうであるように、アイヌの歴史も周りの民族との関わりのなかで作られてきました。樺太から先にはニヴフ、ウイルタ、そしてウリチ、ナナイや、モンゴル、漢人、満州人といった大陸の民族がいました。千島列島の先にはカムチャッカ半島があり、イテリメンやコリャーク、チュクチが暮らしていたほか、時代が下るとロシア人が入植してきました。もちろん、本州の和人とも長い交流の歴史があります。
アイヌは、身の周りの環境をよく知り、そこから手に入る魚や海草、動物の肉と皮、ワシの羽根などによって周囲の民族と取引してきました。また、いくつもの民族を介して中国製品を手に入れ、それをまた本州に売るなど「仲介交易」と呼ばれる取り引きもありました。「物々交換」というと単純なイメージがありますが、それは今の「貿易」や「国際交流」と変わるものではありません。北海道産の魚からつくったこやしが、近畿地方の綿花をそだて、木綿製品になってアイヌにもたらされるなど、お互いの生活に大きな変化を生みだすきっかけでもあったのです。
このページで紹介している物語にも交易がたくさん出てきます。初期の交易は、お互いに自由に行き来ができました。アイヌは船を操って函館や東北地方まで渡り、自由に相手を選んでいました。やがて函館付近の和人が勢力を持ち、松前藩となっていく中で、交易には多くの制約が課されました。東北地方へ渡ることが禁じられ、やがて函館にも行くことが禁じられました。それぞれの地域に和人が出向いて交易を行うようになると、決まった相手としか取り引きできなくなり、多くの不正が行われました。「アイヌ勘定」や「メノコ勘定」という言葉があります(メノコは女性のこと)。「アイヌは数をかぞえることができないので『はじめ、一、二…十、おわり』と数えて交易品を騙し取った」という笑い話で、アイヌをこっけいにあつかった北海道の民間伝承です。明治時代に「アイヌ勘定」をされた女性の思い出話が残っていますが、実際にはウソとわかっていてもにらみをきかせて文句を言わせないのだそうで、とてもくやしかったそうです。
このような事情から、物語に語られるような幸せな交易の時代もやがて終わりを迎えました。また、中国やロシアと行き来がしやすい地域では、和人よりもそちらの民族と親しくした人もいました。
明治時代になると、日本政府はそれまで蝦夷地と呼んでいた場所を、新たに「北海道」という名前にして、植民政策(自民族の領地として人を送り込むこと)を始めました。アイヌは日本国民とされましたが、制度の上でも今日まで続くいろいろな不平等があります。
千島列島と樺太はロシアとの間で奪い合いとなり、何度も国境が変わりました。アイヌは国境によって、また領土内の移住によって暮らす場所を変えられ、仕事も言葉も新しいものに変えなければなりませんでした。先祖伝来の暮らしから異民族の名前と言葉を使い、異民族の神に参り、異民族の間で暮らすこととなりました。この時代を乗り越えるのは、いまの私達には想像もできないほど大変なことだったでしょう。
そうした新しい暮らしのなかでも、このページで紹介している物語や歌などは伝えられてきました。雑誌やテレビなどを通じて新しい娯楽に親しみながらも、同時にこうしたものを楽しむ人がいました。なかには、アイヌのことばや物語・歌を後世に伝えようと意識して努力する人もいました。
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情報の共有と考えています。
■私たち日本人(定義はあいまいですが)の祖先の人々は、厳寒の中で暮らす衣 食住の知恵をどれほど、アイヌの方々から教えられたか判りません。
日本の、昔話もアイヌの口承文芸をアレンジしたのも少なくはないようです。
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