韓江は、ソウルを半周して流れ、黄海にそそぐ大河である。
楊花津(ヤンファジン:津は船着場)は、韓江有数の名勝の地として知られ、古来より、
王族達の遊行の場所でもあった。
楊花津は、龍頭峰とも呼ばれた小高い山の麓にあった。龍頭山は、その名の通り、あた
かも、龍が頭をもたげた様な形をしている。
ここでは、その龍峰山が、切頭山と呼ばれるようになった経緯についてお話してみる。
朝鮮に天主教が入ったのは、日本よりもかなり新しく、二百年たらず前のことである。
当初、小規模の迫害を受けたが、それがおさまると、次第に信者の数を増して、1860年
当時、全国で2万人を超えるまでに至った。
その頃、朝鮮半島進出を狙う西欧列強は、盛んに開国を求めたが、李王朝は応じなかっ
た。
このため、フランスは、艦隊を韓江に乗り入れ、楊花津まで侵入させて、デモをおこなっ
た。
これに激怒した、時の権力者、興宣大院君(幼い王の父親)は、天主教徒の迫害に乗り
出すことになる。
全国から、約二万人の信者を捕らえ殺害したと言われている。
ここ、龍頭峰ではもっとも多くの信者が迫害を受け、首を切られて死んでいった。
爾来、土地の人々は、この山を切頭山と呼ぶ様になった。
韓国キリスト教教会は、名も無く死んでいった信者や、殉教した宣教師達を弔う場所とし
て、切頭山を、聖地と定め、迫害の歴史を後世に伝えるべく、受難百年後の1966年に、
全国の信者から浄財を募り、ここに、記念館を建立した。
会館日の初日には、ヨハン パオロ2世も同席してミサを捧げた。
今も、毎日、多くの巡礼者たちが訪れ、祈りを捧げている。