令和元年も、残り少なくなった。
振り返ってみれば、戦争を除いて、過去最悪の年であったような気がする.
地震、台風、大雨、竜巻、自然災害も多かった。
政治とカネ、テロ殺人、親殺し、子殺し、夫婦の殺し合い、介護疲れ殺人、心中、あおりや、認知症運転事故、いじめ、パワハラ、セクハラ。
上げればきっりがない。
世の中も、人の心も、荒み切ってしまった。
どうして、このような世の中になってしまったのだろう。
政治の誤り。
教育の誤り。
子育て方の誤り。
いろいろあろう。
国民を挙げて、考え直す時期である。
このような年を早く、終わらせて、心機一転、新しい年を迎えたい。
しばらく休んでいたが、令和元年の終わりに当たり、昭和の戦争がなんであったかを、考えてみたい。
戦後70年の記憶、4年前の過去ログである。
幼なかった昭和の戦争の語り部の記憶である。
マッカーサーが日本に来た当時の事は、あまり記憶に無い。
天皇陛下よりも偉い奴が、日本に来たと言う話を、兄たちはしていた様に思う。
鬼畜米英と言われていた、ルーズベルト、チャーチルの内、ルーズベルトが、日本の敗戦の直前に死んだ。
当時の新聞は、ざまあ見ろ、これで勝てると、大々的に報道していた。
mcnjも、子供心に、ホッとした記憶がある。
ルーズベルトの後には、トルーマンが米大統領として着任した。
マッカーサーは、トルーマンに任命されて、極東地区の司令官に任命されたのであろう。
マッカーサーにとっては、それが不本意だったそうである。
マッカーサーが着任して、真っ先に行ったのは、虱退治であるが、これは、前に書いたとおりである。
その次に行ったのが、食料の確保である。
配給制度はあったが、国内の自給が不十分であったから、国民は、みな、飢餓状態にあった。
ヤミ屋と言われるブローカー、満員列車での買い出しなどで、何とか糊口をしのぐのが、精一杯の状態であった。
マッカーサーは、米軍の放出物資を日本国民に与えたが、これは、大変にありがたかったらしい。
彼の人望は、急速に高まって行った。
朝鮮戦争の頃、原爆の使用を提案したマッカーサーは、突然解任されるが、日本国民にとっては、まさに、根耳に水の事であった。
朝の、ラジオで、NHKのアナウンサーが、そのことを放送していたが、声が上ずっていたことを覚えている。
国中が、悲しみに浸っていた。
戦争犯罪人は厳しく罰したが、敗戦国民に罰を与えず、飢餓から守ってもらったのが、心から、うれしかったのであろう。
こうして、マッカーサーは、全国民から惜しまれながら、日本を去っていったのである。
本土徹底抗戦、1億総玉砕、国体護持を叫んでいた、一部の不満分子も、まったく影を潜め、GHQによる、日本統治
が安定した。
これに伴い、GHQは、不満分子の抑圧に、共産主義勢力を利用する必要は無くなった。
これが、後のレッドパージへと発展し、前に書いた、火炎ビン闘争へとつながっていくのであった。