萬古焼の歴史。
古萬古。
桑名の豪商沼波弄山が、伊勢及び江戸で作った陶器。
萬古の窯は、一度、廃れたため、後世再興した萬古焼に対して、弄山の時代の作品を、この様に呼ぶ。
別名弄山萬古。
弄山は、元文年間(1736-41)に、邸内に窯を設けて、楽しんでいたが、後に、伊勢国小向村に
本格的な窯を築き、付近の、名谷山の陶土をもって、本格的な製陶を始めた。
その後宝暦年間(1751-64)に江戸に進出し、向島小梅の別邸に窯を作り、陶土は桑名から運ばせて
製陶した。
江戸では、将軍家御成り先の御用や、御数寄屋御用も、仰せつかまつるまでになる。現在の
この時代のものを、江戸古萬古と呼ぶ。
弄山の死後、子は、作陶を好まず、寛政年間に廃窯された。
有節萬古、射和(いざわ)萬古。
弄山の創めた萬古焼は、寛政年間に、窯をつぐものがなく、廃れてしまった。
幕末に至って、伊勢の地に、萬古再興の機運が高まった。
萬古創設の地、小向村で、天保3(1832)開窯した森有節、南勢松坂の地で開窯した竹川竹斎がその代表と言える。
両者は、それぞれ、全く違う境遇の元で、それぞれの持ち味をもって、相手を意識し合いながら、弄山の萬古焼を、復活させた
のである。
竹斎の射和萬古は、開窯後、7年ほどで、閉窯したが、有節萬古は、小向の地で、2代、3代と、代を重ねて
北勢地方の産業発展に多い来な功績を残して、現在の現在の四日市萬古焼へとつながっていくのであった。
古萬古、萬古の名品。
↓酔月窯カタログより。