毎日、熱いですね。
花の無い時期の土手です。
元気なのは、槿です。
高砂百合の一番花。
百日紅が、ようやく咲いてきました。
花は、テーブルの上です。
毎日、熱いですね。
花の無い時期の土手です。
元気なのは、槿です。
高砂百合の一番花。
百日紅が、ようやく咲いてきました。
花は、テーブルの上です。
4年前の過去ログである。
幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。
小学校(国民学校)の体操場へ疎開して来ていた、松本50連隊の兵達は、ほとんど兵隊としてやることがなかった。
練兵場が無いのである。
校庭はあっても、もはや、薩摩芋畑と化していた。
炊事洗濯の他は、歩くことくらいで有った。
戦地での行軍の訓練であろうか、長い列を組んで、市内を歩き回ってばかりいた。
遠くから、兵達の足音が聞こえてくると、宿題を放り出して、外へ飛び出したものであった。
近所中の子供達が飛び出して来て、兵達と手をつないで歩いたものだった。
歩くと言っても、子供達に歩調を合わせてくれるわけではない。
兵達の歩く速さに、子供たちは、駆け足でついて行くだけで有った。
いい加減走らされると、さすがに疲れて、ついていけなくなり、手を放して、家路をたどった。
どう言うわけか、兵達と子供達の間には、心の絆の様なものが有った様だ。
二十歳を超えたばかりの兵と、子供たちの間には、ちょっと、歳の離れた兄弟の様な感覚が有ったのかもしれない。
軍部にしてみれば、将来の戦力として必要な、子供達のことを考えて、可愛がってやれと言う様なな指導がなされていたのだろうか。
学校でも、家でも、兵達は、お腹がすいて可哀想だと、よく聞かされた。
実際、食料が足りなくて、育ち盛りの若い兵達には、ひもじい毎日だったのかもしれない。
何か、食べるものがあったら、渡してやれ、と言う様なことを言われた記憶がある。
行進で手を繋いでもらう礼の様な気持ちで有ったろうか。
子供達は、母から渡された何がしかの食べ物を、手に握りながら、手を繋いでもらった兵に、それとなく握らせていた。
mcnjも、干した残飯を炒ったものや、炒った豆などを母からもらって、兵に渡していたものだった。
兵達は、歩きながら、渡された、わずかばかりの食べ物を、大事そうに、軍服のポケットにしまい込んでいた。
よく洗濯された兵の軍服の石鹸のにおいが、今でも、懐かしく思い出される。
梅雨が明けたら、猛暑の夏が居座ってしまいました。
毎日、沢山採っていた、なすやきゅうりも、もう、おしまいです。
ほかの野菜も、青息吐息です。
天気がよいので、布団の虫干しをしました。
ベッドを動かしたら、こんなものが、転がっていました。
ネズミのミイラです。
みかんの仕業に違いありません。
いつやったのか分かりませんが、その間、ずっと、ミイラと同居でした。
今日も、何か狙っています。
4年前の過去ログ過去ログである。
幼かった昭和の戦争の語り部の記憶である。
mcnjの住んでいた所は、松本市の旧市内のはずれであった。
その先は、今では松本市になってはいるが、その当時は、田畑が広がっている村であった。
松本の人間は、在と呼んでいたが、在から街に買い物に来るなどと言って、多少の、優越感をもっていたようである。
小学校1年生のmcnjには、在が何を意味するのか、知る由もなかった。
兄たちが、あいつらは、ザイッポだからな、などと言っているのを聞いて、街の人間とは、多少違うのかなと言うくらいの意識しか無かった。
mcnjのいたすぐ近くに、金山町と言う町があった。
すぐ隣町で、小学校区も一緒であった。
同じ町内の様なもので、学校でも、家でも、良く、子供同志で遊んだものであった。
町の名前から、すぐに察しが着くと思われるが、朝鮮人の多く住む所であった。
当時は、日本全国にあった、朝鮮人町の一つに過ぎなかったのであろう。
彼らが、なぜ、そこにいたのか、どのようにして、生計を立てていたのかなどは知らなかったし、知る由もなかった。
彼らが、強制連行されたのか、日本の新天地にあこがれて来たのかを、議論するつもりはない。
タイトルにある通り、ここに記されるものは、小学1年生の見聞きした幼い記憶だけである。
幼い記憶ではあるが、出来るだけ忠実に思い起こして書き残しておきたいと思う。
戦中戦後を経験した、今では数少ない語り部の一人として、義務の様なものを感じている。
小学1年生の見聞ではあるが、戦中戦後の真実を知る者の目から見れば、戦争に関して、喧々諤々と議論している、今の政治家達は、嘴の黄色いひよこか、鼻垂れ小僧くらいにしか見えない。
そんな鼻たれ小僧に、この国の未来を託して、いいものかと言う思いが、mcnjにはある。
朝鮮人の女たちは、気が強い。
女だけではなかったが。
国民性と言うものもあったかもしれないが、異国の地に来て、目いっぱい生きて行かなければならない面もあったのであろう。
朝鮮人の女同志で、良く喧嘩をしている所を見かけた。
殴り合いはしなかったが、取っ組み合って、髪の毛を束で掴んで引きずり回すようなことは、当たり前であった。
片方は、髪の毛を引き抜かれて、頭から血を流していた。
mcnjは、母の陰に隠れて、遠くから眺めているだけであったが、怖いものだと思っていた記憶がある。
夜になると、灯火管制で、町は暗闇に包まれるが、突然大声が聞こえて来た。
ポクウ~、ポクウ~、
ハヤクコ~!
チヌデ コ~!
夫婦喧嘩か、近所の日本人との軋轢でもあったのであろうか。
mcnjは、暗闇の布団にもぐって、震えていた。
ボクが、僕なのか、朴だったのかはわからない。
当時の朝鮮人は、皆、日本名を名乗らされていたから、たぶん、自分たちの本名の朴だったのかもしれない。
兄達は、朝鮮人の学友をからかうときに、良く言っていた。
朝鮮人の母親が、わが子を庇うときに、兄達をしかりつけて言った言葉である。
チョウセンジン、チョウセンジント、パカニスルナ。
オナジ メシクテ トコチガウ。
ウソタト オモタラ ベントパコ ミロ、ベントパコ。
mcnjは、この家の子供と、中学卒業まで一緒であった。
遊ぶ時も、学ぶ時も、仲の良い友達であった。
彼が、今どうしているか、気にはなっているが、知らない。
mcnjと同じように、どこかで、戦後70年の出来事を、思い出していてくれるなら、ありがたいことであるが。
ここで、誤解の無いように、一言付け加えておきたい。
本稿で、mcnjは、朝鮮人と言う言葉を、差別的に使った意識は、毛頭ない。
mcnjは、日本の化学会社に勤務した後、定年の3年前に、韓国の化学会社に出向となり、そのまま定年退職した。
退職後、そのまま、韓国の友人m,cの二人と、mcnjの3人でソウルに会社を興した。
mcnは、3人の頭文字である。
これに、japanのjを付けてHNとしている。
韓国では、m,cの他にも、たくさんの友人と付き合っている。
朝鮮と言う国名の起源であるが、秦漢以前にさかのぼり、朝が鮮やかな国と言う意味で、中国に対抗して付けられた名誉ある国名である。
のちに、李王朝の時の朝鮮と区別するため、古代朝鮮を古朝鮮と呼んで区別する。
韓国では、朝鮮と言う言葉は、忌み嫌われる。
これは、北朝鮮が、朝鮮を名乗っている面もあるが、mcnjが、ソウルの友人に、
どうしてお前達は、朝鮮と言う由緒ある言葉を嫌うのかと質問した時、このような返事が返って来た。
李氏朝鮮が、日本によって受けた屈辱を考えると、朝鮮と言う言葉は聞くに耐えられない。
8月3,4日と、大四日市祭りが行われました。
猛暑の中、出歩くのも大変です。
ローカルTVで、テレビ観戦です。
鳥出神社鯨船。
近年、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
岩戸山。
狸に変身。
ここの早業が見ものです。
狸の何とか、8畳敷。
ここの早業も、見ものです。
もとどおりに変身。
この画面は、四日市祭りの繫華街の出し物です。