芭蕉句碑(善重寺 酒門町2096-2)
「芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜かな」(秋の大雨が芭蕉の葉を打ち、室内では雨漏りがして、盥にしたたる音がする。それを今宵は聞きながら物思いにふけっているといった感じでなのしょうか。)とあるそうです。「芭蕉」という横に書かれた字と、それ以下の縦書きの字の書体がまるで違っています。この碑は、藩の家老でもあった太田湖中(資胤(もとたね) 享保1年(1716)-天明6年(1756))という俳人によって建立されたそうです。以前は酒門(さかど)坂下にあったそうですが、近年、小川の石橋として使われていたそうです。それが、現在のように寺の境内へ移されて、碑は終の棲家(ついのすみか)を得たようです。
芭蕉句碑(大井神社の竜光院跡 飯富町3475)
遅月は明和5年(1768)に仏門に入り、芭蕉庵4世不二庵二柳に学んだそうです。寛政1年(1789)に水戸に来て、竜光院などに住んだそうです。水戸では俳句の門人が百人くらいはいたそうです。中には、林十江の父である高野悟井という富商もいて、遅月の生活を援助したそうです。すでに寺はなくなりましたが、その頃に遅月が境内に建てた芭蕉句である、有名な「古池や」の記碑が残っています。俳句のひたち野を主催した島崎専城が、文久2年(1862)の火災で埋もれていた句碑を、昭和28年に掘り出して今のような姿にしたそうです。
遅月句碑(大井神社の竜光院跡)
遅月は、俳句だけでなく、医術や陰陽道、易学、また香道、茶道にも通じた多才の人だったそうで、芭蕉を「水源」にし、戯作調に俳諧を逸話などで紹介する「俳諧水滸伝」なども書いているそうです。最晩年に、親しかった立原翠軒、杏所が江戸詰になったため、その後を追い、江戸で死去したそうです。翠軒は神崎寺に遅月の瘞蔵碑(分骨碑)を建てたそうです。写真の句碑は、専城が平成12年に建てたようで、遅月の句、「水見ても笑ふがごとし春の月」が刻まれています。
仏兮の碑(笠原山不動院墓地 )
遅月より少し遅れた寛政7,8年頃に水戸に来て銀河寺の住職になった俳人仏兮は、京都に向かう途中乗った船の事故で文化1年(1804)に36歳で死去したそうです。仏兮を師として芭蕉の初めての全集である、大著「俳諧一葉集」を編んでいた岡野(幻窓)湖中(太田湖中から3代目の湖中)は、その供養のために、銀河寺に13回忌を記念して碑を建てたそうです。いま、銀河寺墓地(米沢町436-8)の入口付近にあります。これは「幻窓湖中」を著した有馬徳が発見したそうです。
墓地の句碑(十一面観音堂 鯉淵町)
墓地には俳句をたしなむ人が句碑を建てることがよくあるようです。写真の句碑は、同じ人が昭和59年と平成3年に建てたようです。水陸会(すいりくえ)とは地上や水に棲む生き物に食物を与えて諸霊を救済するという行事だそうですが、たぶんお盆の先祖参りをいっているのでしょう。
注意喚起句(千波公園せせらぎ広場 千波町)
ゴミ川柳とでもいえばいいのでしょうか、私達は五七五が大好きなようです。ごみ袋が少し古い言葉になってきているようですが。
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