二十三夜の信仰は、金に不自由しないという現実的ごりやくが背景にあったそうです。そのためには豊作が必要ということから、若者の信仰とされたそうです。また、年に何回かは三夜様(桂岸寺 松本町13-19)への参拝も行われたそうです。(内原町史) 今回も建立年号のわかる石碑です。
二十三夜供養(岩根町)
享和2年(1802)正月とあります。海野忠治右衛門という個人名が刻まれています。上部にある梵字はサクと読んで、二十三夜の本尊・勢至菩薩のことだそうです。
二十三夜供養(筑地町 36°22'08.3"N 140°22'46.4"Eあたり)
文化5年(1808)とあります。中央上部には下弦の月が刻まれています。墓地にある石造物群の中にあります。
二十三夜塔(牛伏(うしぶし)町 36°23'31.3"N 140°21'50.0"Eあたり)
くれふしの里古墳公園の入口近くにある石造物群の中にあります。文化4年(1807)とあります。
廿三夜供養塔(小吹町 36°20'41.2"N 140°25'40.7"Eあたり)
右に文化8年(1811)2月とあり、左下に邨中(そんちゅう 邨=村)とあります。5基ある石造物群の中にあります。
二十三夜供養塔(稲荷塚(とうかづか) 元吉田町2322)
碑は倒れています。嘉永7年(1854)11月とあります。この月の27日に安政に改元されたそうです。二十三夜塔は11月の建立が多いそうです。ここは、佐竹義宣(よしのぶ)の臣下で、徳川氏に乱を起こした車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)が磔になった地といわれているそうです。現在、稲荷神社が建っていますが、多分車の霊も祀られているのでしょう。
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