大阪水曜ほっと集談会一世です。
集談会で悩みの渦中にある若い方の自己紹介を聞くとなんだか嬉しくなる私です。
そこに極めて人間らしさを感じるからです。
私はこうして森田療法で症状を乗り越えましたとか、恐怖突入をして克服しましたとか過去形で聞くと、若い頃と違いひねくれ者の私はなんだか、がっかりして疲れてしまいます。
もっとも若い頃からずいぶん、ひねくれてはいましたが(笑)
そんなにがんばって克服しないとだめなのか?
私は体験談も「森田を学んでまだ2~3年ですが生活の中に、このように森田を取り入れて悩みながらやっている状態です」という体験談が一番好きです。
つまり克服したとか乗り越えたなどという結果はどうでもよいのです。
乗り越えなくても日々楽しいと感じられたり、仲間とのふれあいに、ふと心が癒されたりそれで良いのではないですか?
森田療法の着地点を症状を乗り越え、とらわれない生活やバリバリ仕事ができて行動的であると設定したときにどうなるか?
症状がなくなったから仕事や遊びが優先で集談会にもいかないし、時間がもったいないので、発見誌も積んどく状態になります。
集談会で立ち直ったから、新しい会員に何ができるか考える発想もなくひたすら自己実現とやらに励んでいく。
神経質の良さが次第に薄れてかくれていた自己顕示欲や承認欲求が顔を出します。
やがて神経質の仲間との交流も次第に減り、効率や意味を求めてがむしゃらに頑張る生活に後戻りするのです。
そしてまた日常に忙殺されながらふと気がついたときに、企業や組織にうまく利用されていただけではないかと何か虚しい気持ちに襲われることもあるのです。
これらはすべて私の実体験です。
症状の背後には、強い欲求や意味があるとかいうのも嫌いです。
意味があるかどうかはわかりません。
少なくとも抑鬱などは原因がわからないことも多いのですから、単純に意味が有るなどと決めつけないでいただきたい!
ただ自分はそういう傾向を持った人間であると自覚するだけです。
森田学習をやめると再発するとかいうのもなんだか健康食品のCMのようで、止めるにやめられないと、脅迫されているようで嫌です。
これらはすべてシニアおじさんの私の本音です。
※今日の森田の言葉
私たちはおよそ生老病死にまつわる事態には良し悪しを離れて承服せざるを得ない。
その、人生の根本的事実をそれなりに受け止めるのが、あるがままになりきった姿ということができましょう。
人間としてうまれた以上は、つねに不安恐怖や葛藤があってあたりまえです。
いつでもそれらが、ついて回るということ。
それでこそ人間の自然~あるがままなのです。
2023/10/22 6:03 一世
※そのままのあなたですべてよし
※山中和己氏著※NPO法人生活の発見会発行