
大阪水曜ほっと集談会一世です。
本日は、誤解を承知で思いっきり書かせていただく。
未だに症状を苦服するとか乗り越えるという発想をされる人がいる。
それが何十年も森田を学んできた自称治った人だから始末が悪い。
集談会で出会う人の中には正直、とらわれていた時の方が人間的であったと思える人がいる。
共通しているのは、妙な押し付けがあるのである。
無言の自分はこうして森田で立ち直ったという圧力。
こうすればおまえも立ち直る、どうだと言わんばかりである!
余計なお世話である。
行動を通じて社会に適合し成果を上げた自慢話も嫌いである。
まったく参考にならない。
自助グループ活動であるにも関わらず、知らず知らずの間に、教える立場になりきっている一部の何とか委員や講師にも違和感を感じる。
胡散臭い。
立ち直ったから、それがどうしたというのか?
とらわれたり、症状により生活が停滞する時期も必要ではないか?
その迷妄の時期に自分と向き合い、今までの生き方を見直すことは、無駄な時間であろうか?
私はそうは思わない。
行動、行動で感情をねじ伏せ、誤魔化す方が問題ではないか?
とらわれや症状が無くなったのは、単純に新たな欲望を見失い、社会的なプレッシャーから解放されただけではないか!
人は新しい経験や挑戦をするときには必ず緊張し、とらわれる。
その緊張やとらわれがないとすれば、その人は今を生きていない人かもしれない。
自分の症状やとらわれを過去のこととして語るあなたの言葉は、森田正馬全集をすべて暗記していたとしても、悩みの渦中にある人の心には届かない。
以下森田博士の言葉より、
神経質が、種々の症状に悩むのは、その限りなき欲望に対する過渡期であり、終には悟りに達すべき迷妄の時期である。
2022.7.22 一世