幼いころ
アパートの一階に住んでいた
そこの窓には転落防止の柵が取り付けられていた
柵の高さは窓のせいぜい半分くらいだったが
私の身長より高かった
金属製で直径5mm程度の円柱が縦び
その隙間はせいぜい10cm程度だったと記憶している
2~3歳の頃だと思うのだが
その隙間から顔を外に出せていた
頭が小さいし柔らかいからできていたのだろう
ある日出した顔を引っ込めようとしたとき
一瞬顔を抜くことができなくなり
まずいぞ たいへんだ
と思った感覚が確かに今も記憶に残っている
その残った感覚は
確かに私自身だと感じる
物心ついたころから
今の自分まで
確かにつながっているという感覚だ
体の構成成分は
完全に入れ替わっているはずなのに
自我が連続していることが不思議だと思う
死というのは
その自我が途絶えることになる
それがどういうものなのか
その時を向かえないとわからないのだろう
もちろん迎えてもわからないのかもしれないが
ひょっとしたら認知症の入り口に立てば
連続した自己と不連続な自己との間を行ったり来たりして
自我の断絶というものがどういうものなのかわかるかもしれない
物質的には違うもので構成されながら
連続する自我とはいったい何なのだろうか
アパートの一階に住んでいた
そこの窓には転落防止の柵が取り付けられていた
柵の高さは窓のせいぜい半分くらいだったが
私の身長より高かった
金属製で直径5mm程度の円柱が縦び
その隙間はせいぜい10cm程度だったと記憶している
2~3歳の頃だと思うのだが
その隙間から顔を外に出せていた
頭が小さいし柔らかいからできていたのだろう
ある日出した顔を引っ込めようとしたとき
一瞬顔を抜くことができなくなり
まずいぞ たいへんだ
と思った感覚が確かに今も記憶に残っている
その残った感覚は
確かに私自身だと感じる
物心ついたころから
今の自分まで
確かにつながっているという感覚だ
体の構成成分は
完全に入れ替わっているはずなのに
自我が連続していることが不思議だと思う
死というのは
その自我が途絶えることになる
それがどういうものなのか
その時を向かえないとわからないのだろう
もちろん迎えてもわからないのかもしれないが
ひょっとしたら認知症の入り口に立てば
連続した自己と不連続な自己との間を行ったり来たりして
自我の断絶というものがどういうものなのかわかるかもしれない
物質的には違うもので構成されながら
連続する自我とはいったい何なのだろうか