浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2019-09-01 00:15:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

六根という煩悩を頂いておりますが、
自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。
自らが仏となります。

魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、
理性的になったり、つまり「知性、理性、本能、感情」の
四つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。

その想念の働きよって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、
理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。

心が丸い状態で、四つの思いが想念によって調和されていますと、
あばたはあばたに見えます。
逆に知性ばかりが大きくなりましたら、
「頭でっかち」になり、これは危険です。

想念の働きによって、私たちの意識の状態がいろいろ変化します。
私たちの心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、
呪ったり、またある時は飛びはねるほど喜んだりします。

一人一人が持っている魂の器の底から少し離れた場所に、
五官の感覚というカーテンが下りています。
この感覚が表面と内とを遮ってしまうので、
神様が私たちの表面に出ていただけないのです。

幼い子の魂には遮るカーテンが下りておらず曇りがありませんから、
神そのものの意識が表面に出ておられているのですが、
もう三歳になりましたら立派にカーテンがかかってしまいます。

しかし神様と人間とが切り離されるのではなく、
心の曇りによって遮断されているだけであって、表面に振り回され、
五官に翻弄された人間になっているということです。

よく悪霊とか地獄霊とかいいますが、たとえサタンといえども、
表面が曇っただけで、内は神の御子です。
自ら遮っているだけで、この遮るカーテンを払えば、
どなたでも皆菩提と化すことができます。
すごく簡単なことです。



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