添付のお写真はフランスのサンジルタール修道院内に安置されている
「奇跡の泉」を聖母マリア様から頂かれた聖ベルナデッタ様に祈りを捧げている
恩師「長尾弘」先生です。
~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~
講演 五
「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」
先の続き・・・
この肉体とは、いってみれば泥沼みたいなものです。
しかし蓮の花は泥沼がなければ絶対に咲きません。
蓮の花はあの泥沼のきたないものを吸収して、それを栄養として、
その泥によごされない美しい花を咲かせています。
蓮の花でも葉でも、泥水をかけても決して汚れることはなく、
水をみなはじいてしまいます。
悪や汚れを寄せ付けない蓮の花は
いったいどこから育ってきたのかというと、泥の中からです。
それと全く同じことで、六根がなかったら魂の進化、
悟りはありません。
私たち人間は、肉体の五官をもって、五官を栄養として、
汚れを寄せ付けない心の蓮の花を咲かせることが、
この世に生まれた目的でした。
今、この社会を見ましても、
リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、
自分も内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。
「私たちがいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、
世間の奴は悪いことばかりしているから何にもならない。
ましてや政治家が悪いことをしている世では
修行する意味がありません」
などと言う人がありますが、しかし、悪いことをし、
間違いを犯す方々は、私たち「法」を学ぶ者から見ますと、
これは泥沼と同じです。
その人たちの姿を私たちの栄養として
「あのような事はしないように、
ああいう間違いは犯さないようにしよう。
せめて自分だけでも間違いのないように生きよう」と思って、
そこから学び取っていくことですね。
そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。
過ちも人の悪も私たちが裁く必要はありません。
これは私たちと神様の問題です。
過ちを犯している人は、過ちを犯している人と神様との問題です。
私たちはそれを学びとして、せめて自分は過ちを
犯さないようにしようと、自分の栄養にしていけばいいのです。
ですから社会の悪もすべて私たちの学びの材料として
受け取らせてもらった時には、腹も立ちませんし、
人を悪く思うこともありません。
ましてや恨みや憎しみは関係のないことです。
その方と神様の関係だと思わせてもらえばいいのですね。