浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2019-09-08 23:20:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

お釈迦様はこの肉体を
「不浄なるものを詰め込んだ皮袋のようなものである」
とおっしゃいました。

人体を何か尊い清らかなもののように錯覚を起こしていますが
よく考えてみますとこの肉体からは「くそ」ばっかり出てきます。
歯くそ、鼻くそ、耳くそ、目くそ、もうくそだらけでございます。
しかしこの汚い物が出てくる袋があってこそ、
私たちは悟らせてもらうことができるのです。

汚れ多き五官が無かったら悟ることはできません。
お釈迦様がおっしゃっているように不浄なるものを詰め込んだ
この皮袋あってこそ菩提と化すことができます。
蓮の花は汚い泥がないと咲かないのと同じことです。
    
天上界にいたら悟れません。
なぜかかというと、自分と全く同じ光の量の区域におりますから、
十ワットの者は十ワットの者ばかり、
百ワットの者は百ワットの者ばかりで外の人はいませんから、
他の方の見て学ぶことができないのです。

このくそ袋に魂が入りますと、偉大な光の大天使も、
地獄からちょっと上へあがった程度の方も
全部同じ肉体の中に入りますから見たところ皆人間ですが、
魂の次元の高い良き方は、やはり過ち少なく善き行いをなさいます。

この方その方の霊格、霊の高き、魂の段階の高さを知る方法は、
その方がどれだけ善き行いをなさっているか、
どれだけ過ち少ない生活をなさっているかによって判断できます。

一時、目を細くして相手を見たら光が出てきて、
光が大きいか小さいかを習ったことがありましたが、
そんなことしなくても、善いことはようしないで
悪いことばっかりしている過ちの多い人はもう霊格が低いと
判断して間違いありません。

魂の次元の問題です。
高い方は人のために仏の業をなされているはずです。
言われることに嘘やまどわしの言葉はいっさい使われません。
ですからその方の行い、言葉を見て霊格を判断することができます。


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「御垂訓」

2019-09-08 00:19:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

道教の教えに「友の憂いに我は泣き、吾が喜びに友が舞う」と
いうのがありますが、友に憂いに我が泣いてはいけません。
一緒に不幸になります。

喜びは、我が喜びも友の喜びも共に踊って喜べばいいのですが、
憂いを共にして泣くというのはいけません。
泣くよりも励まし勇気づけて、友の憂いを除く助けをするのが、

このように心の在り方によって人は不幸にも幸せにもなります。
菩提とは、内在された偉大な神の意識と表面の意識とが
遮られていることを知ることであり、一つの悟りです。

このことが把握できますと人間すべて兄弟であることが理解できます。
ここにコップがたくさんありますが、
どのコップの中にもみな同じ空気が入っているはずです。
このように人間は全部同根、コップが何十万個ありましても、
全部同じ空気が入っているように、
私たち一人一人の中に父なる神のご意識がそのまま入って
下さっています。
私たちは全部同質同根です。

これを知った時、
「自分を愛するがごとく他を愛さなければいけない」という
イエス様の言葉が理解できます。
お互いに愛し合いなさいというのは、それは内在の世界において、
皆自分がこの方であり、この方が自分であるからです。
菩提とは菩提と化すこと、つまり内なる意識に通じることです。

これは六根があるがためにこの心境を掴むことができます。
というのは、こちら側がるからそちらに達することができるのです。
カーテンがあり壁があって、壁の外側は私たちの表面意識、
内側は内在された神の意識が通じているということを
知ればいいのです。
つまり悟ることですね。
六根あるがゆえに菩提と化すことができます。良き友のお付き合いですね。


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