浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

極楽と地獄の在り処
たずぬれば我が内にこそ
共にあるなれ

「御垂訓」

2019-09-14 10:12:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

私たちは天上の世界におりますと、
自分の魂の光の量をさらに上げることができないために、
この厳しい現象界で肉体の中に入って魂の修行をします。

現象界というのは天上界から見ますとものすごく危険極まりない場所で、
いつ転がり落ちるか分からないような断崖絶壁を旅している世界ですね。
一歩踏み外すとたちまち奈落の底へ落ちます。

仲良く幸せに暮らしていた家庭で、奥さんが亡くなられたあと、
息子さん夫婦にもの事が起きてお嫁さんが子供を残して家を出てしまい、
私たちが知り合った当時の幸せな調和された家庭が二年もしないうちに
完全に破壊したのを知っていますが、
このような崖ふちを私たちは旅をしているということです。
一つ何かの縁にふれましたら、突然奈落の底へ落ちているという方が
いっぱいありますね。

会社の場合も同じです。
この間まで景気よく盛大にやっておられた方が、
ある日会社の前を通りますと、
破産のため会社は潰れ、家族は分散していました。

これも危険なこの世の旅で一歩足を踏み外した姿です。
自然界の海原の航海にも譬えられます。
海原は或る時は波一つなく静かに凪いでいますし、
また暴風に荒れ狂う時もあります。

海面は凪いでいても霧に閉じ込められて航海不可能な状態もあり、
凪いでいるから「やれ嬉しや」と航海していると暗礁が出ていて
船底を突き破ってしまうこともあります。
それと全く同じです。
私たちの人生も油断していたら港の入口で船の底を
割ったという例になりますね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-12 23:39:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はイスラエルの聖墳墓教会の地下にご覧のような小部屋があります。
そこで腰かけている恩師「長尾弘」先生です。

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

逆の場合も同じことですね。
「うちのお父さん、しょうがないなあ」と言って
主人に腹を立てていますと
奥さんのほうが愚かです(笑い)。
自分が愚かなことをしたら、
これは悔い改めなければいけませんが、
人が愚かなことをしていて、それで自分が怒っていたら、
その愚かな人よりも自分のほうがなおアホということです。

人のことで自分が腹を立てないこと、
ましてや相手が間違っている場合に腹を立てたら、
丸損でございます。
これを専門のようにして、
人の悪いことばかりを言ったり書いたりして
怒っている人がありますね(笑い)。
あれは丸損です。
自分の心の休まる暇がありません。

他人の悪いところばかりが目につく人は、
常に心がいら立って、
腹を立てていますから、
心の中に安らぎのあるはずがありません。
こんな人は死んだら必ず硬くなります。
これは絶対に間違いありませんから、
そういう人を一度見ておくといいですね。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-11 23:52:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

身近な親しい人が正しくないことをされる場合も同じことです。
腹が立ったり嫌な思いをしたり、ひどい時にはカッカときて、
他人の愚かな行為のために自分が心の楽しみを失います。

自分は間違っていないのに、
人が間違ったからといって自分自身の心を苦しめる方が多いのですが、
この時、私たちは次のように思うことです。
「人の愚かなる行為をもって、我が心の楽しみを失うことなかれ」と。

人が愚かなことをした場合、
大半の人はそのことで自分の心を苦しめます。
例えば、電車に乗っていてすごくマナーの悪い人に対して
「ほんとに、ようあんなことができるものだ」と怒っています。

怒るのは自分ですね。マナーの悪い人は他の人なのに、
それを見て怒って自分の心が苦しんでいます。
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなり」。
他の愚かな行為で夫婦の間でも友情の間でも
心を苦しめることは多いです。
「ほんまにうちの嫁さん、もう何やってるのやなー」と、
自分がしてないのに自分の奥さんのことで怒っていますと、
嫁さんよりも婿さんのほうが愚かになります。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-11 00:42:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

今、この社会を見ましても、
リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、
自分も内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。

「私たちがいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、
世間の奴は悪いことばかりしているから何にもならない。
ましてや政治家が悪いことをしている世では修行する意味がありません」
などと言う人がありますが、しかし、悪いことをし、
間違いを犯す方々は、私たち「法」を学ぶ者から見ますと、
これは泥沼と同じです。

その人たちの姿を私たちの栄養として「あのような事はしないように、
ああいう間違いは犯さないようにしよう。
せめて自分だけでも間違いのないように生きよう」と思って、
そこから学び取っていくことですね。
そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。
過ちも人の悪も私たちが裁く必要はありません。
これは私たちと神様の問題です。
過ちを犯している人は、過ちを犯している人と神様との問題です。

私たちはそれを学びとして、せめて自分は過ちを犯さないようにしようと、
自分の栄養にしていけばいいのです。
ですから社会の悪もすべて私たちの学びの材料として
受け取らせてもらった時には、腹も立ちませんし、
人を悪く思うこともありません。
ましてや恨みや憎しみは関係のないことです。
その方と神様の関係だと思わせてもらえばいいのですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-09 23:12:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はフランスのサンジルタール修道院内に安置されている
「奇跡の泉」を聖母マリア様から頂かれた聖ベルナデッタ様に祈りを捧げている
恩師「長尾弘」先生です。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

この肉体とは、いってみれば泥沼みたいなものです。
しかし蓮の花は泥沼がなければ絶対に咲きません。
蓮の花はあの泥沼のきたないものを吸収して、それを栄養として、
その泥によごされない美しい花を咲かせています。

蓮の花でも葉でも、泥水をかけても決して汚れることはなく、
水をみなはじいてしまいます。
悪や汚れを寄せ付けない蓮の花は
いったいどこから育ってきたのかというと、泥の中からです。

それと全く同じことで、六根がなかったら魂の進化、
悟りはありません。
私たち人間は、肉体の五官をもって、五官を栄養として、
汚れを寄せ付けない心の蓮の花を咲かせることが、
この世に生まれた目的でした。

今、この社会を見ましても、
リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、
自分も内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。

「私たちがいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、
世間の奴は悪いことばかりしているから何にもならない。
ましてや政治家が悪いことをしている世では
修行する意味がありません」
などと言う人がありますが、しかし、悪いことをし、
間違いを犯す方々は、私たち「法」を学ぶ者から見ますと、
これは泥沼と同じです。

その人たちの姿を私たちの栄養として
「あのような事はしないように、
ああいう間違いは犯さないようにしよう。
せめて自分だけでも間違いのないように生きよう」と思って、
そこから学び取っていくことですね。
そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。
過ちも人の悪も私たちが裁く必要はありません。
これは私たちと神様の問題です。
過ちを犯している人は、過ちを犯している人と神様との問題です。

私たちはそれを学びとして、せめて自分は過ちを
犯さないようにしようと、自分の栄養にしていけばいいのです。
ですから社会の悪もすべて私たちの学びの材料として
受け取らせてもらった時には、腹も立ちませんし、
人を悪く思うこともありません。
ましてや恨みや憎しみは関係のないことです。
その方と神様の関係だと思わせてもらえばいいのですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-08 23:20:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

お釈迦様はこの肉体を
「不浄なるものを詰め込んだ皮袋のようなものである」
とおっしゃいました。

人体を何か尊い清らかなもののように錯覚を起こしていますが
よく考えてみますとこの肉体からは「くそ」ばっかり出てきます。
歯くそ、鼻くそ、耳くそ、目くそ、もうくそだらけでございます。
しかしこの汚い物が出てくる袋があってこそ、
私たちは悟らせてもらうことができるのです。

汚れ多き五官が無かったら悟ることはできません。
お釈迦様がおっしゃっているように不浄なるものを詰め込んだ
この皮袋あってこそ菩提と化すことができます。
蓮の花は汚い泥がないと咲かないのと同じことです。
    
天上界にいたら悟れません。
なぜかかというと、自分と全く同じ光の量の区域におりますから、
十ワットの者は十ワットの者ばかり、
百ワットの者は百ワットの者ばかりで外の人はいませんから、
他の方の見て学ぶことができないのです。

このくそ袋に魂が入りますと、偉大な光の大天使も、
地獄からちょっと上へあがった程度の方も
全部同じ肉体の中に入りますから見たところ皆人間ですが、
魂の次元の高い良き方は、やはり過ち少なく善き行いをなさいます。

この方その方の霊格、霊の高き、魂の段階の高さを知る方法は、
その方がどれだけ善き行いをなさっているか、
どれだけ過ち少ない生活をなさっているかによって判断できます。

一時、目を細くして相手を見たら光が出てきて、
光が大きいか小さいかを習ったことがありましたが、
そんなことしなくても、善いことはようしないで
悪いことばっかりしている過ちの多い人はもう霊格が低いと
判断して間違いありません。

魂の次元の問題です。
高い方は人のために仏の業をなされているはずです。
言われることに嘘やまどわしの言葉はいっさい使われません。
ですからその方の行い、言葉を見て霊格を判断することができます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-08 00:19:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

道教の教えに「友の憂いに我は泣き、吾が喜びに友が舞う」と
いうのがありますが、友に憂いに我が泣いてはいけません。
一緒に不幸になります。

喜びは、我が喜びも友の喜びも共に踊って喜べばいいのですが、
憂いを共にして泣くというのはいけません。
泣くよりも励まし勇気づけて、友の憂いを除く助けをするのが、

このように心の在り方によって人は不幸にも幸せにもなります。
菩提とは、内在された偉大な神の意識と表面の意識とが
遮られていることを知ることであり、一つの悟りです。

このことが把握できますと人間すべて兄弟であることが理解できます。
ここにコップがたくさんありますが、
どのコップの中にもみな同じ空気が入っているはずです。
このように人間は全部同根、コップが何十万個ありましても、
全部同じ空気が入っているように、
私たち一人一人の中に父なる神のご意識がそのまま入って
下さっています。
私たちは全部同質同根です。

これを知った時、
「自分を愛するがごとく他を愛さなければいけない」という
イエス様の言葉が理解できます。
お互いに愛し合いなさいというのは、それは内在の世界において、
皆自分がこの方であり、この方が自分であるからです。
菩提とは菩提と化すこと、つまり内なる意識に通じることです。

これは六根があるがためにこの心境を掴むことができます。
というのは、こちら側がるからそちらに達することができるのです。
カーテンがあり壁があって、壁の外側は私たちの表面意識、
内側は内在された神の意識が通じているということを
知ればいいのです。
つまり悟ることですね。
六根あるがゆえに菩提と化すことができます。良き友のお付き合いですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-07 00:25:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が高橋信次先生と邂逅(かいこう)され「正法」に
帰依されてほどなくの、まだ若かりし頃、浄心庵「心の道場」でのご講演会のものです。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

どんなことでも「ああ悪いことをした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と
言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、
反省すればするほど自分が嫌になるとよくおっしゃいますが、
それはその後の実践をしていないから苦しいのです。

ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
反省をして償いのために善き行いをしますと、
「ああ人として生まれて良かった」という喜びが必ず与えられます。
反省をして自分の過ちに目覚め、
次に償いのために善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。

「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、
そこで悔い改めることができて償いをさせてもらえて良かったなあ」
という喜びが頂けるはずですね。
頭で反省するだけで実践がありませんと、だんだん落ち込んでいきます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-06 00:23:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

二度と繰り返さないという修行法でしたら私たちは
自信を持って修行できます。
失敗しても当たり前、それを学びとして
次に繰り返さなければいいのですね。

「私はもう再び人の悪口を言いません」と言いながら、
言うはしから次々と悪口を言っている人があります。
これでは何もなりません。

間違いと気付けば「過ちを悔い改めるのに憚ることなかれ」で、
遠慮せず勇気をもって改めたらいいのです。
イエス様がおっしゃるように「悔い改めよ、汝の罪は許されん」です。
悔い改めたらもう罪は許されます。
しかし改め放しではいけません。
今度は良き償いをすることですね。

例えば、よその人をひどい目に会わせて、殴って泣かせます。
今度悔い改めましたと言って相手に謝らないでいると
「こら」と殴られます。
相手からド突いてもらうのが償いです。
ト突いてもらって「はい、有難うございました」と
言って受けるのが償いの行為です。
 
どんなことでも「ああ悪いことをした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と
言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、
反省すればするほど自分が嫌になるとよくおっしゃいますが、
それはその後の実践をしていないから苦しいのです。

ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
反省をして償いのために善き行いをしますと、
「ああ人として生まれて良かった」という喜びが必ず与えられます。
反省をして自分の過ちに目覚め、
次に償いのために善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。

「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、
そこで悔い改めることができて償いをさせてもらえて良かったなあ」
という喜びが頂けるはずですね。
頭で反省するだけで実践がありませんと、だんだん落ち込んでいきます。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-05 06:14:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はその昔、お釈迦様が好んで「法」をお説きになられた
インドの霊鷲山(りょうじゅせん)山頂で昇る朝日を
カメラ片手にお待ちになっている恩師「長尾弘」先生です。


~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

日常の具体例で、怒りの壊滅の方法をいいますと、
これは思い方をうまく変える方法しかないのです。
一番手っとり早い方法は常に大難を小難と思うことです。

何事が起きても、もっとひどい目に会うことを思えば幸いだと、
考えることです。
ある方が奥さんからいつも怒られて逃げ回っていると、
また追いかけてきて言われるので「うちの嫁さんにはかないません。
どうしたらいいですか」と相談に見えたのです。

「本物の狂人よりはましだと思って喜びなさい、
文句を言われるぐらいで結構なことです」と言いますと、
「そう思いましたら、えらい楽になりました」
と言って、いつもそう思うことにされたそうです。

私たちは思い方一つによって不幸になったり、
幸せになったりしますね。
男性は嫁さんにえらい目に会わされてかなわんな、
えらい嫁さんで苦労するなと思うのですが、
ほんとうは心の持ち方でああましな嫁さんだと思えるのです。
奥さんの立場に立って見ても同じことです。

うちの主人はうるさくて嫌だな、
どうしようもなくかなわないと思う主人を、
「ああ結構だ、この人がいるから私は生活させてもらえる、
もう嫌なところは目をつぶろう」と
思い変えましたらたちまち楽になります。
嫌な面ばかり見るから嫌になるのです。

私たちは環境の中に生きていると錯覚を起こしていますが、
ほんとうは心の中に生きているのであり、
思い方一つ変えるだけですごく救われる場合がありますね。
   
自由自在に良い面も悪い面も見分けて、
良いほうへ心を変えるのが「観自在菩薩」で、
良い面に素早く切り変えのできる方は観自在です。
仏を目指して修行する方をボサターと言います。

私たちは、アボロキティーシュバラーといって過去、現在、
未来の三世を見通す能力を持つような
偉大な者にはなれませんが、
観自在菩薩でしたら、誰にでもなれます。

私たちは確かに三世を見通す能力があれば
素晴らしいなあと思いますが、
こんな能力がつきますと、魂の修行ができないのです。
みな分かってしますから生まれる必要はなくなってきます。

前以てすべての筋道が分かっていて、こちらへ行ったら駄目、
こう行ってこのようにすればよいというのでしたら、
何も生まれてくる必要はありません。
ですからいくら失敗しても「ああ私は駄目人間だ」と
思わなくってもいいのです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-03 23:42:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

じっくりと反省しますと
自分の数々の過ちが浮かび上がりますから、
自分の罪に対する償いとして、どなたに対してでも構いませんから
「あの罪の償いとしてこの方に善をさせていただこう」と
思って実践することによって罪は消えていきます。

しかし次々と罪を繰り返しましと、
いつまで経ってもカーテンは上がってくれません。
曇りの原因をまず作らないこと、「今度はいっさい腹を立てまい」
「今度はいっさい愚痴は言うまい」
「すべてのものに足ることを知る生活をしよう、
貪欲を捨てさせてもらおう」これでいいのです。

お釈迦様の教えの「悟り」についてみますと、
悟りとはニルバーナ、つまり
火が燃え尽きてしまった状態という意味です。
この言葉が中国に伝わりまして涅槃という言葉になっております。
「涅槃」そのものが「悟り」です。
 
あるお弟子がお釈迦様に質問をされたのですね。
「ニルバーナ(涅槃)とはいったいどういうことですか」。
そうしますとお釈迦様は次のようにお答えになったそうです。

「ニルバーナとは私たちの心の中に怒りの壊滅、愚痴の壊滅、
そして貪欲の壊滅である」と。
この状態がニルバーナであるとおっしゃっていますから、
これなら私たちも悟りの心境に至ることができるはずです。

この教えが理解できましたら、私たちは自信を持って、
勇気を持って挑戦することができます。
滝に打たれたり、断食したりということはちょっと真似ができませんが、
この三つでしたら日々の生活の中で実践できるはずですね。

誰でもできることです。
それが悟りであったのです。
この状態になったことをまた菩薩ともいえるわけですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-03 00:50:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

ほんとうは悟りもせずに死んでしまったら皆亡者さんです。
この世を去った時、その方の人生のすべてが、肉体に現れます。
昔から「人の価値は死んだ時に分かる」といったものです。
それは、死にざまと、亡くなった時の姿を言うのです。

この世でのお付き合いが多く、
顔の広かった方や何とか議員という方のお葬式で花輪がいっぱい並び、
この世的にお葬式の送り人が多かったので値打ちがあるというふうに
一般には思いますが、ほんとうはそういうものではなく、
自ら心を悟り、神の子として生き、
この世をさる時に成仏された方こそ値打ちがあります。

こういう方は死後硬直は起きないという形でその方の価値は
肉体の上に現れます。
今まで人が亡くなれば死後硬直が起き、必ず冷たくなるものと思い、
それが常識となっておりましたが、
硬くなるようでは成仏できていないのです。

その数からいいますと、
いかに成仏できないお方が多いかということが分かります。
しかし硬くなった方にも、
私たちがほんとうに愛の心をもって法をお伝えさせていただきますと即、
硬直がとけます。
   
今冷たくなって見るも無残な姿をなさっていても、
ご本人が自分の過ちに気付き、死というものを認識し、
そしてこの肉体から魂がうまく離れることが出来た時は瞬間に肉体は
ふわふわと柔らかくなります。

こういうことはたくさん体験させてもらっていますね。
これは自ら菩薩と化すことを悟られたから、そうなったのです。
私たちの本質は神そのものであり、
神が私たちの内に入って下さっているということを知るだけで、
また、「ああなるほどそうか」と思わせていただくだけで、
もう皆さんの魂のワット数は何ワットか上がります。
このことが分かれば今度は実践することですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-02 00:12:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がモンゴルの大統領から招待され、
大統領を始め、ご家族の癒しをされるため、モンゴルを訪問された時に
身につけられたモンゴルの民族衣装です。

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

このカーテンを取り除くにはどうしたらいいか。
まずこの曇りはなぜできたかというと、五官に翻弄されて怒り、
妬み、謗り、恨み、憎しみ、嘘、盗み、取り越し苦労、不安、恐怖、
貪欲などによって生じたのです。

五官の求めるままに翻弄されると、怒りや妬みになるのですから、
この邪魔ものを取ってしまえばいいのです。
取る方法は「徹底した自己反省」をさせていただくことです。

生まれてから今日までの間を振り返り、
「あの時あのような過ちを犯した」
「あの時はこんなことをして人を恨んでしまった」と、
一つ一つ神様にお詫びをさせてもらい、これを改めていくことです。
そしてその悪の償いとして善き行いを積み重ね時に
だんだんと心の曇りが薄れます。

反省を通して心の壁、カーテンを打ち破った時、
自らが光であるということが体験できます。
五官の感覚は全く消えて光だけになるという体験を、
私はさせてもらいましたので、間違いございません。
 
妙な霊能力がつくとかいうものとは違って、全く異質なものです。
お釈迦様は誰でもできる道をお説きなったはずですし、
イエス様も誰でもが救われる道をお説きになりました。

仏も昔は凡夫だったのですから、
私たちも悟った時には仏と化すことができます。
これを「やがては死ぬから仏になる」と思えば大きな間違いです。
死んだら仏になるのではありません。
悟られた方が仏になるのです。

死んだ者は亡くなった者、つまり「亡者」と書きます。
亡くなった方のお宅へ行って「亡者さんにお悔やみさせて下さい」と
言うと無礼だと叱られますから、
いっそ死んでしまったのだから仏にしてしまえといって
「仏さんにちょっとご冥福を祈らせて下さい」と言うようになったのです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2019-09-01 00:15:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

六根という煩悩を頂いておりますが、
自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。
自らが仏となります。

魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、
理性的になったり、つまり「知性、理性、本能、感情」の
四つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。

その想念の働きよって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、
理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。

心が丸い状態で、四つの思いが想念によって調和されていますと、
あばたはあばたに見えます。
逆に知性ばかりが大きくなりましたら、
「頭でっかち」になり、これは危険です。

想念の働きによって、私たちの意識の状態がいろいろ変化します。
私たちの心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、
呪ったり、またある時は飛びはねるほど喜んだりします。

一人一人が持っている魂の器の底から少し離れた場所に、
五官の感覚というカーテンが下りています。
この感覚が表面と内とを遮ってしまうので、
神様が私たちの表面に出ていただけないのです。

幼い子の魂には遮るカーテンが下りておらず曇りがありませんから、
神そのものの意識が表面に出ておられているのですが、
もう三歳になりましたら立派にカーテンがかかってしまいます。

しかし神様と人間とが切り離されるのではなく、
心の曇りによって遮断されているだけであって、表面に振り回され、
五官に翻弄された人間になっているということです。

よく悪霊とか地獄霊とかいいますが、たとえサタンといえども、
表面が曇っただけで、内は神の御子です。
自ら遮っているだけで、この遮るカーテンを払えば、
どなたでも皆菩提と化すことができます。
すごく簡単なことです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする