きのうの朝、畑に檻の様子を見に行ってみると、なにか動物が入っています。そばに寄ってみらた狐でした。でも色がキツネ色でなく濃い茶色で、シッポが細い。裏山に住んでいるようでときどき見かけます。猫はそばに寄ると威嚇するような顔で、檻の中で暴れますが、狐はおとなしい。
おだやかな顔をしているのが写真でわかるでしょうか。においは強いのですが、そばに寄ってもピリピリした威圧感がない。檻のフタを道子さんが開けてもすぐに飛び出すわけでなく、解放されてもゆっくり歩いて、墓の下の溝で水を飲んでいました。それから名残惜しそうな顔をして山のほうに去っていきました。
北海道を旅したとき、車でゆっくり走っているとキタキツネを見かけることがありました。「アッ! キタキツネがいる!」と人間は大喜びして、エサでも持っていたらすぐあげたりします。でもそのとき思いました。人間はたまたま通りかかってキタキツネを見かける幸運にめぐまれたように思うけど、狐にすれば人間が通るのを待ちかまえていて、人間をよろこばせたのではないか。
人間と狐の間には、昔からなにか目に見えない交流があったのかもしれません。でも姿の立派な狐ではないし、オトモダチにならないでおこう。差別するわけではありませんが。
作家・城山三郎の『よみがえる力は、どこに』という遺稿集を読んでいます。同じく作家の吉村昭との対談が載っています。その対談で知りましたが、城山三郎・吉村昭・藤澤周平・結城昌二(みんな小説家です)はいずれも昭和2年生まれなんですね。ぼくより10年先に生まれ、戦争の真っ只中で、少年の感性で大人たちを見ながら育ち、あの日本の敗戦のときは彼らは18歳(前後)だった。
敗戦前後のことをよく書いている半藤一利なんかより少しだけ上ですが、あの敗戦を、自分の魂に力を込めて、全身で受けとめています。
前に岩波新書で、昭和10年代前半に生れた人と「あの戦争」との関わりを考察した本をこのブログで紹介したことがあります。昭和10年 ~ 14年くらいに生れた人が戦争の思い出を書いた本です。(敗戦のとき5歳 ~ 11歳くらいです)ぼくが昭和12年生まれですから現在72歳から77歳くらいの人です。小澤征爾とか河野一郎とか……の敗戦の感想を集めた本でした。
でも読んでピンときませんでした。子どもの作文でしかありませんでした。「なんだ、こんなものか」と感じました。ほんとうに、生涯かけて全身全霊で戦争を受けとめるしかなかった世代というのはもう10歳年上の、城山三郎の世代なのですね。また考えます。