古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

孫たちの夏休みでー、『じじ・ばば』は大奮闘中です。

2012年08月06日 21時24分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 孫たちが親元を離れて数泊することになりました。『じじ・ばば』は頑張ります。
 大志くんも小学生になったのだから、行水のタライみたいなプールでは遊べないだろうと、大きくて水深のあるビニールプールを用意しました。写真のように体を浮かせることができます。朝から水をためて日なた水にしておき(風呂よりずっとたくさん水がはいる)、ひとしきり遊んでくれました。
 朝は、うちの村の「夏のラジオ体操」はもうおしまいなので、テレビを見ながらじじばばといっしょに、リビングで体操をしました。それからウッドデッキでパンの朝食。片付けてから夏休みの宿題。
                
 午後はショートステイに行っている「ひいおばあちゃん」を訪問しました。きれいな個室です。ひいおばあちゃんとチェリーを食べてちょっとおしゃべりしました。買物をして帰り、夕方は畑仕事です。大志くんも萌ちゃんも水やりを手伝い、結構ドロドロになりました。
 夕食後は花火です。ウッドデッキにベニヤ板を二枚敷き、その上で花火をしました。二人とも音のする、打ち上げの花火は嫌いなので、たくさんのおだやかな花火を手に持って楽しみました。これから絵本を読んで寝ます。大志くんは親元をはじめて離れるのですが、萌ちゃんがこまやかな気づかいをしてくれてたのしく過ごしています。
 じじばばは、あれこれない智恵をしぼって奮闘しています。
 
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『ビルマ決戦記』を読んでいます。

2012年08月06日 04時18分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木と東条の図書館で何冊かずつ本を借りていますが、それは読まないで『ビルマ決戦記』を夜中に目覚めたとき少しずつ読んでいます。この本にふれて自分の思いを書きます。
 この本は光人社NF文庫の1冊で、「地獄の山野に展開した三十四万将兵の肉弾戦」という副題になっており、著者は<越智春海>という人です。この著者は大正7年生れで、自分が兵士としてマレーやシンガポールなどで戦った人ですが、ビルマ戦の体験はありません。多くの資料を見て、後で書いた本です。ぼくがこの本のことを書くのは、読んでほしいからではありません。
『インパール作戦』というと無茶苦茶な作戦を引っ張った『牟田口廉也』中将という指揮官にぼくは腹が立ちますが、いまの人はそんな感情の波風は、もう立たないでしょう。昭和19年(1944年)の、70年近く前の戦争であった、遠い遠い昔のことですから。
 実際に『インパール作戦』に狩り出された兵士の方々が、『牟田口廉也』という指揮官の名前を聞いてどんな風に反応するかは、以前このブログでも保阪正康氏の著書から引用しました。
 この本にはインパール作戦発案の様子が以下のように書かれています。長い引用になりますが。


 昭和18年11月6日の大東亜会議(※ 東条首相は戦局挽回のためにアジア各国の協力をとりつけようと東京で会議を開いた。この年の10月には学徒動員で大学生も戦争に兵士として狩り出した)の席上、各国の大統領や首相の面前で、東条首相はチャンドラ・ボースに「インドは、さし上げます」と、大見栄をいっている。
 しかし東条首相は、なぜ進攻作戦をやりたかったのだろう。戦術上は、ほとんど絶望的なことぐらい、見当はついていただろうに……。
 東条内閣については当初から、重臣たちはみな反感を抱いており、近衛文麿などは終始一貫「戦争の責任者は登場だ!」と言っていた。そういうムードだから、機会があれば倒閣の密議をしていたのだ。そういう動きの中で、刻々と太平洋の戦況は悪化して、国民の志気は沈滞しており、東条内閣の命脈は風前の灯火だった。東条首相自身は、総辞職すれば大いに楽になるのだが、それでは対外的にも対内的にも日本の配色を証明するようなものだから、それはできないのだ。
 このような複雑な状況のなかで、何かビッグ・ニュースを! という「あせり」から、インパール攻略が浮上してきたのだ。成功すれば内閣の余命は延びる。少なくとも作戦継続中だけは、倒閣の動きはしないだろう。もちろん失敗すれば、東条内閣は、つぶれてしまうだろうが、どうせ何もしなければ、倒閣される実情だから、もともとなのだ …… というわけだ。
 では、なぜビルマの戦場が選ばれたのか。次々と陥落しているのは、みな太平洋上の戦場ばかりで、海軍の劣勢という絶対的な不利があった。東条大将は陸軍軍人で、帝国陸軍は世界無比の陸軍だとう信念の持ち主の一人だ。陸軍だけで戦闘をやれば、まだまだ負けはしないのに、という思いも潜在していたはずである。こうしてビルマが戦場に選ばれたのだ。
 じつは、相当重要なことが、もう一つあるのだ。当時の陸軍内部は派閥で動く者が多かった。また派閥を越えて、何かの機会に親密な仲になって、同志というような交わりを一生、つづける気風も強かった。東条英機・河辺正三・牟田口廉也といえば、日支事変勃発当時、戦線を一路拡大した三羽烏だ。『森』軍司令官の河辺。(※ 『森』は軍隊編成上の名前。南方軍総司令官だから南アジアの戦争全体を指揮できる立場だった)
『林』軍司令官の牟田口。(※ 『林』は軍隊編成上の名前。ビルマ方面軍の総司令官だからビルマの戦争を指揮できる立場だった)このコンビが、東条内閣の命脈をつなぐために、狂気のように立ち回っているのがインパール作戦ではなかったか。
 この作戦に対する批判は、もちろん陸軍内部のいたる所にあった。いつとりやめになるかわかったものではない。せっかく牟田口中将をダシにして、作戦決行という段取りまで持っていったのに、統帥府が中止してしまえば、首相兼陸相の東条大将には、それを阻止する権能がなかった。
 昭和19年2月21日、ついに東条陸相は、参謀総長をも兼任するという、前代未聞の処置を強行した。インパール作戦の発起は、その15日後であった。
 昭和19年7月4日、 インパール作戦中止。東条内閣の総辞職はその14日後の7月18日であった。
 
 著者の、自分の推論や考えに合わせる書き方ですが、一つの見方として引用しました。 

 
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