きのうペリリュー島の戦闘のことを書きました。そして『ペリリュー島玉砕戦』(船坂 弘 著)を少し読み返してみました。
大豆の畝に竹の杭を打ち込み、マイカ線を張って「傾いた・倒れかかった」/「下枝の落ちそうな」大豆を支える仕事をしながら、ペリリューの兵士たちの「絶望」がずっと頭を占めていました。
うまく伝わるか心配ですが書いてみます。
アメリカ軍が3日で占領すると言った南海の小島の戦いは、昭和19年9月15日にはじまり、11月24日まで続きました。日本軍は11000名が洞窟を掘って抵抗し、アメリカ軍は新型火炎放射器やナパーム弾を洞窟に撃ち込んで焼き尽くしていきました。小銃で一人一人狙い撃ちしても、洞窟に投げ込まれたナパーム弾で50人100人と焼き殺される戦いでした。戦死した兵士が10000人を越え、いよいよ追い詰められた日本軍は、11月8日、パラオ本島の司令部に「全員飛行場に斬り込む覚悟なり」と突撃玉砕の電報を打ちます。そのとき掌握した戦闘人員は、軽傷者を含めて350名しかなく、他に重傷者が130名でした。以下引用します。
中川大佐(ペリリュー守備隊の隊長)はサイパン戦の持久を考えた。あの島には、31000名が6月15日に敵を迎撃して以来、7月7日の玉砕にいたるまで、その持久は23日間であった。つぎにテニアンの5000名はわずか7日間、グアム島は18000名で20日間。これらを比べても、ペリリュー島1万余名で2ヵ月の持久に耐えたのだ。敵に与えた損害も莫大であった筈だ。
圧倒的な兵器の差・力の差でどうしようもないけど、勇猛果敢に持ちこたえてきました。そして「最後に突撃・玉砕する」と打電したのです。その返電は「生きて持久せよ」でした。
…… 地区隊がいかほど小兵力となるも、軍旗を奉じてペリリューの中央に厳乎健在しあることのみにより、いかほど我が作戦の全局に貢献し、全軍を奮起せしめ、一億の敢闘精神を鼓舞したるか、これ何人も疑うの余地なし。すなわち灼熱の闘魂に更に拍車し、あくまで持久に徹し、万策を尽きて神機到るを待つべし。全員斬り込みは易く、忍苦健在健闘するは難しかるべきも、宜しく村井少将、中川大佐心を一にして全戦局を想い、右苦難を突破せんことを期すべし。(原文はカタカナ書きですが読みにくいのでひらがなに直しています)
官僚答弁のような空しい美辞麗句。この電報を受けて、兵士たちは自分の戦死までの時間、どんな気持ちだったか。
11月24日、ペリリューからの最後の電文では戦える兵士は50人で「遊撃隊となって戦う」とありました。
大豆の畝に竹の杭を打ち込み、マイカ線を張って「傾いた・倒れかかった」/「下枝の落ちそうな」大豆を支える仕事をしながら、ペリリューの兵士たちの「絶望」がずっと頭を占めていました。
うまく伝わるか心配ですが書いてみます。
アメリカ軍が3日で占領すると言った南海の小島の戦いは、昭和19年9月15日にはじまり、11月24日まで続きました。日本軍は11000名が洞窟を掘って抵抗し、アメリカ軍は新型火炎放射器やナパーム弾を洞窟に撃ち込んで焼き尽くしていきました。小銃で一人一人狙い撃ちしても、洞窟に投げ込まれたナパーム弾で50人100人と焼き殺される戦いでした。戦死した兵士が10000人を越え、いよいよ追い詰められた日本軍は、11月8日、パラオ本島の司令部に「全員飛行場に斬り込む覚悟なり」と突撃玉砕の電報を打ちます。そのとき掌握した戦闘人員は、軽傷者を含めて350名しかなく、他に重傷者が130名でした。以下引用します。
中川大佐(ペリリュー守備隊の隊長)はサイパン戦の持久を考えた。あの島には、31000名が6月15日に敵を迎撃して以来、7月7日の玉砕にいたるまで、その持久は23日間であった。つぎにテニアンの5000名はわずか7日間、グアム島は18000名で20日間。これらを比べても、ペリリュー島1万余名で2ヵ月の持久に耐えたのだ。敵に与えた損害も莫大であった筈だ。
圧倒的な兵器の差・力の差でどうしようもないけど、勇猛果敢に持ちこたえてきました。そして「最後に突撃・玉砕する」と打電したのです。その返電は「生きて持久せよ」でした。
…… 地区隊がいかほど小兵力となるも、軍旗を奉じてペリリューの中央に厳乎健在しあることのみにより、いかほど我が作戦の全局に貢献し、全軍を奮起せしめ、一億の敢闘精神を鼓舞したるか、これ何人も疑うの余地なし。すなわち灼熱の闘魂に更に拍車し、あくまで持久に徹し、万策を尽きて神機到るを待つべし。全員斬り込みは易く、忍苦健在健闘するは難しかるべきも、宜しく村井少将、中川大佐心を一にして全戦局を想い、右苦難を突破せんことを期すべし。(原文はカタカナ書きですが読みにくいのでひらがなに直しています)
官僚答弁のような空しい美辞麗句。この電報を受けて、兵士たちは自分の戦死までの時間、どんな気持ちだったか。
11月24日、ペリリューからの最後の電文では戦える兵士は50人で「遊撃隊となって戦う」とありました。