平野国美というお医者さんの書いた『看取りの医者』という本を読みました。(2009年/小学館)この本から引用します。
わがクリニックでは、高齢者やガン末期、その他の病気の終末期の患者さんが多い関係で、私は一般の開業医よりも死に立ち会うケースが多い。2002年4月の開業以来、わずか7年間で420例を超える死を看取ってきた。これは異常なほど多い。年平均で60例だから、1週間に1人以上の患者さんの死を看取ってきた計算になる。
「看取りの医者」とは患者の最期を看取る医者という意味だが、それは単に死を看取るということだけでなく、患者さんの人生最後の日々を充実させる手助けをすることも意味している。 …… 死に立ち会うことが重要なのではない。そこに至るまでの「生きた日々」が大切なのだ。だから、痛みのコントロールなどの緩和ケアを重視している。
「あなたは自宅で死にたいですか。病院で死にたいですか」ときかれたら、「自宅で死にたい」人が6割。と平野医師は書いています。でも実際に自宅で死ぬ人は1割だそうです。
かつて死を身近に経験し、死を具体的に感じることによって培(つちか)われてきた “人生の終焉に対する覚悟” や “潔さ” や “諦観” といった価値観が、この数十年間で日本人から徐々に失われてきたのではないか。 …… 肉体の長寿だけを願う “健康志向” や極度にセンチメンタルな “生命至上主義” が日本人を支配するようになった …… 。
…… 死は本来、誰にも等しく訪れる自然現象である。日本人はかつて、それを“自然”としておおらかに受け入れる価値観を培ってきた。その文化的態度は日本人の心の奥深くに眠っている。死が近づくにつれて、ひとは悠久の昔から培われてきた価値観に目覚め、自然な死を迎えたいと願う。共同体の中で家族に囲まれながら、自分自身が “先祖” へと遷移することを願う。それが「最後の療養生活は自宅で送りたい」と希望する6割の人々の心底に横たわる伝統的な心性であろう。
ところが、その周囲の家族は、死からの逃避という心理傾向に支配されている。本人と周囲のそのギャップが、とりもなおさず在宅死の希望(6割)と現実(1割)との落差になっているに違いない。
米寿を祝った父は1997年3ヵ月余り入院して病院で亡くなりました。母の90歳代の弟は今年病院で亡くなりました。「身近な人の死」を思い出してみると自宅で死んだ人はほとんどいません。 (明日もこの項はつづく)
わがクリニックでは、高齢者やガン末期、その他の病気の終末期の患者さんが多い関係で、私は一般の開業医よりも死に立ち会うケースが多い。2002年4月の開業以来、わずか7年間で420例を超える死を看取ってきた。これは異常なほど多い。年平均で60例だから、1週間に1人以上の患者さんの死を看取ってきた計算になる。
「看取りの医者」とは患者の最期を看取る医者という意味だが、それは単に死を看取るということだけでなく、患者さんの人生最後の日々を充実させる手助けをすることも意味している。 …… 死に立ち会うことが重要なのではない。そこに至るまでの「生きた日々」が大切なのだ。だから、痛みのコントロールなどの緩和ケアを重視している。
「あなたは自宅で死にたいですか。病院で死にたいですか」ときかれたら、「自宅で死にたい」人が6割。と平野医師は書いています。でも実際に自宅で死ぬ人は1割だそうです。
かつて死を身近に経験し、死を具体的に感じることによって培(つちか)われてきた “人生の終焉に対する覚悟” や “潔さ” や “諦観” といった価値観が、この数十年間で日本人から徐々に失われてきたのではないか。 …… 肉体の長寿だけを願う “健康志向” や極度にセンチメンタルな “生命至上主義” が日本人を支配するようになった …… 。
…… 死は本来、誰にも等しく訪れる自然現象である。日本人はかつて、それを“自然”としておおらかに受け入れる価値観を培ってきた。その文化的態度は日本人の心の奥深くに眠っている。死が近づくにつれて、ひとは悠久の昔から培われてきた価値観に目覚め、自然な死を迎えたいと願う。共同体の中で家族に囲まれながら、自分自身が “先祖” へと遷移することを願う。それが「最後の療養生活は自宅で送りたい」と希望する6割の人々の心底に横たわる伝統的な心性であろう。
ところが、その周囲の家族は、死からの逃避という心理傾向に支配されている。本人と周囲のそのギャップが、とりもなおさず在宅死の希望(6割)と現実(1割)との落差になっているに違いない。
米寿を祝った父は1997年3ヵ月余り入院して病院で亡くなりました。母の90歳代の弟は今年病院で亡くなりました。「身近な人の死」を思い出してみると自宅で死んだ人はほとんどいません。 (明日もこの項はつづく)