古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

〈軍隊の上層部〉〈政治の重臣たち〉のレベルの低さ

2022年03月03日 02時39分19秒 | 古希からの田舎暮らし
 昭和19年になると日本軍は負け戦がつづき、「この戦争はもう駄目だ」とささやかれるようになりました。その頃の東条英機や近衛文麿たちを、『小説 東条英機とy内光政』では次のように書いています。

(※ 昭和19年のはじめ頃)
 最近、近衛文麿、木戸幸一、松平康昌ら宮中グループが戦争終結の相談をはじめた。
 東条内閣はやがて総辞職に追いこまれるだおろう。  (中略)  和平を申しいれたら連合国はきびしい条件を突きつけてくるだろう。譲歩するのは辛い。だが、もう戦争の帰着するところは見えた。このままでは日本は立ちなおれなくなる。
 宮中グループの以上のような相談内容は、憲兵隊によっていちいち東条にもたらされる。(※ 東条は、首相/陸軍/憲兵/をにぎっていました)近衛らは反内閣の運動こそはじめていないが、その自壊を待っていた。
「東条には有能な人材を活用する度量がない。身辺には茶坊主のみおいて、見識ある人物の意見に耳を貸さない。あまりに独善的だ。このままでは戦局は悪化の一途をたどり、国内は混乱し、国体が危くなる」
 近衛はそう東条を批判しているらしい。
「あのお公家(※ 近衛文麿のこと)は反戦主義者だ。いつかかならず思い知らせてやるからな」
 側近に東条はそううちあけていた。
 (中略)  戦争に異をとなえたり、妨害したり、厭戦気分をあおったりする者は断固として排除する。不動の信念で東条は憲兵政治をおしすすめてきた。これだけ強権をふるった内閣は初めてだと批判されたが、すべて勝利のためだった。

 ※ この文の数十ページあとにはこう書かれています。

 東京では近衛、岡田らによる東条追放の密議はくり返されていた。
 このころ近衛は東久邇宮と会い、このまま東条内閣を存続させようなどと急に変節したような意見をのべている。
「内閣を替えても戦局が好転する見込みがないなら、せっかく東条がヒトラーとともに世界の憎まれ役になっているのだ、全責任を負わせるべきではないか」
 アメリカは陛下の責任を問うかもしれないが、東条に全責任を押しつければ、多少とも皇室への影響を緩和できるはずだ。いまから終戦まで首相が2,3人交替すると、だれが責任者かわからなくなる。
 近衛は本気で力説した。支那事変を拡大させ、三国同盟をむずび、軍に南仏印進駐をゆるした自分の(※ 近衛文麿の)責任もすべて東条におっかぶせる気でいた。宮中で鍛えた処世術というものだろう。当の東条は律気にひたすら努力をつづけ、焦燥のあまり判断力に狂いの出かかった状態にある。 


 国民は、衣食を切り詰め、憲兵におびえ、働き手を軍隊にとられ、戦地で戦っているのに、こんな暗闘をしているのか。
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