「前の畑」の向こうは、笹が伸びてジャングルになっていました。また畑の斜面は3メートル以上に伸びた笹がおおいかぶさり、斜面の草も伸びて「笹ジャングル・草むら」になろうとしていました。我が家の「ウッドデッキからの眺め」はわるくなるし、畑も笹や草に攻められる、
「なんとかしないと手がつけられなくなる」と思って、2月~3月に石垣下の笹を刈りました。石垣上の斜面は防草シートで2019年におおいましたが〈植物のはびこりる力〉はすごい。これをなんとかしないと「手がつけられない草むら」になる。
今日は脚立を石垣に立てかけて移動しながら、草を刈りました。
草を刈ったあと、水道のホースで洗い流した写真です。
この「前の畑」を何歳までつくれるか。わかりません。
下の広い畑(一反三畝の田んぼ)は内心「85歳までつくれるか」と思っていたことを白状します。だからホンダFF耕運機の「鉄の爪」を交換してもらいました。しかし現実には2018年がギリギリでした。そのあと、母が亡くなり、膝の手術をしました。前の畑は、いまはまだつくれます。でも畑の斜面と向こうの笹薮は「今年なんとかしないと」手がつけられなくなります。鬱陶しい〈笹薮・草むら〉になります。
いま「なんとかしよう」と思い立ったのが〈ラスト・チャンス〉です。大豆を植える前に、なんとかします。
赤松の苗です。裏山に登る途中に生えてきました。大きくなるかどうかわかりません。村の人にきいたのでは、この裏山は竹藪でなく、赤松の生える山でした。80年くらい前、日本が戦争に負けた頃、裏山は竹藪でなく、赤松山でした。村の人たちは、マツタケをとって籠に入れ、自転車で三木の町に売りに行ったそうです。
あの敗戦の年は、全国でマツタケがいっぱい採れました。ぼくの小学校2年生の頃です。「まさの」おばあちゃんに「習字を練習した半紙を持ってこい」と言われました。おばあちゃんは山から採ってきたマツタケを濡らした半紙でつつみ、五右衛門風呂のたき口で蒸し焼きにしました。夕食にはマツタケを割いて、醤油をつけて〈おかず〉にしました。
あの年くらいにマツタケが採れることは、もうないでしょうね。
「なんとかしないと手がつけられなくなる」と思って、2月~3月に石垣下の笹を刈りました。石垣上の斜面は防草シートで2019年におおいましたが〈植物のはびこりる力〉はすごい。これをなんとかしないと「手がつけられない草むら」になる。
今日は脚立を石垣に立てかけて移動しながら、草を刈りました。
草を刈ったあと、水道のホースで洗い流した写真です。
この「前の畑」を何歳までつくれるか。わかりません。
下の広い畑(一反三畝の田んぼ)は内心「85歳までつくれるか」と思っていたことを白状します。だからホンダFF耕運機の「鉄の爪」を交換してもらいました。しかし現実には2018年がギリギリでした。そのあと、母が亡くなり、膝の手術をしました。前の畑は、いまはまだつくれます。でも畑の斜面と向こうの笹薮は「今年なんとかしないと」手がつけられなくなります。鬱陶しい〈笹薮・草むら〉になります。
いま「なんとかしよう」と思い立ったのが〈ラスト・チャンス〉です。大豆を植える前に、なんとかします。
赤松の苗です。裏山に登る途中に生えてきました。大きくなるかどうかわかりません。村の人にきいたのでは、この裏山は竹藪でなく、赤松の生える山でした。80年くらい前、日本が戦争に負けた頃、裏山は竹藪でなく、赤松山でした。村の人たちは、マツタケをとって籠に入れ、自転車で三木の町に売りに行ったそうです。
あの敗戦の年は、全国でマツタケがいっぱい採れました。ぼくの小学校2年生の頃です。「まさの」おばあちゃんに「習字を練習した半紙を持ってこい」と言われました。おばあちゃんは山から採ってきたマツタケを濡らした半紙でつつみ、五右衛門風呂のたき口で蒸し焼きにしました。夕食にはマツタケを割いて、醤油をつけて〈おかず〉にしました。
あの年くらいにマツタケが採れることは、もうないでしょうね。