老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

痛みは目に見えない

2022-03-12 07:44:41 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

光と影。大きな捨石の傍に福寿草が咲いている。

1841妻は夫に従い・・・

糖尿病があるも、まだまだ血気盛んな夫。
妻である私は、十年前から病魔に襲われ躰のあちこちは痛みだらけ。
大腸癌(ステージⅢ)を患い、手術施行し症状が落ち着き、わが家に帰ることができた。

嬉しさもつかの間、老夫は「昼飯をつくってくれないか」、と話しかけてきた。
覚束ない足で台所に立つと、泪がでてきた。
退院したとは言え、まだ半病人の私
スーパーの弁当や出前を食べ、横になりたかった。

仕方ない。
夫は頑固で何でも自分の思い通りにしてきた。
妻は夫に従うもの。
だから、妻が病み痛くても気づかない。

用事で出かけたとき
彼女は胸の内を話してくれた。

風呂場やトイレに手すりをつけたがらない。
見映えが悪いから、家に傷をつけたくない

玄関上がり框のところに
突っ張りの手すり(ネットで検索お願いします)を設置した。
介護予防福祉用具貸与のサービスです(月額300円から400円、自己負担1割の場合。彼女は要支援2)

ひとつでもサービスをプランにし
彼女とのつながりを持つためにも
夫に何度も話を行い、設置にこぎつけた。

早速、手すりにつかまり玄関上がり框を上がる。
「凄く楽に上がれる」、と老妻は笑顔で話す。






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主体者は誰か

2022-03-11 07:28:58 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


早朝風景

1840 手につかまり歩く

老いて足元がふらつき転倒してしまうのではないかと
娘は老母の手首をつかみ足速に歩く

母親に比べ歩幅の小さい幼児は
歩幅が合わず走り歩きのようになり
阿吽の呼吸がとれず 躓き転んでしまい
路端にしゃがみ込み泣いてしまう

老母も同じく娘の足に追いついていけない
幼児と同じく「ゆっくり歩いて」、と訴えることもできない
手首をつかまれた人に合わせて歩かねばならない

老母が娘の手を握る
娘の足が速くなり、自分の足が追いついていかなくなり
転びそうになる前に、老母は娘の手を離す

歩行介助の主体者(主役)は誰か
(介護の主体者は誰か。利用者(老人)であると介護のテキストに書いてある)
老母や幼児が主体者
歩行の場合、手を握るのは老母である

介護者に手をつかまれ、転びそうになり「危ない」、と思っても
自分の身体を守ることができない
娘(介護者)先に歩いているので、後ろの状況がわからない
転ぶ音がしてはじめて振り向く

手を引かれるときは、相手に命を預けるのではなく
自ら相手の手を握り歩行の助けを願う

些細なことのように見えるが
実は大切なことなのかもしれない

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死に方

2022-03-10 04:34:29 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1839 孤独死

老人(高齢者)には、民間アパート入居お断りが多い。
とくにひとり者の老人の場合、孤独死を想像してしまうからであろう。

自分の家(自己所有)であっても、孤独死をすると「不幸」な死として見られてしまう。

果たしてそうであろうか。

長年住んできた家の中には
思い出の写真や旅行のお土産(飾り物、郷土土産など)があったり
柱には子どもがつけた傷痕
仏壇や遺影がかざられている。

古くなり傷んだ我家ではあるが
一番心が落ち着く
そこでひとりで死を迎えたしても寂しくはない。

雛は育ち巣から飛び立ったように
子どもたちも巣立ち、家に残ったのは老親だけ
家を守る老親
疲れた鳥がいつ帰巣してもいいように

ひとり暮らし老人になっても
最後まで我家で暮らし
我家で死にたい
不幸な死、寂しい死だと決めつけて欲しくない
我家で死ねたこと、本人にとり幸せな死であったかもしれない

老親が永遠の眠りについても
枕元で大人になった「子ども」たち(遺族)が遺産相続でもめている
その方が「孤独死」であるような気がする

老い逝き その先はあの世行きの片道切符を手にする
何処で死に
どのような死に方をするか
否、どのような死に方をするかではなく
残された老いの刻(時間)のなかで
老いをどう生きていくかで
死に方が定まるような気がする

しかし、誰人も
いつ人生の幕が降りるかは知る由もない
そう思うと遣る瀬なくなるから
いま(今日)を一生懸命生きることかもしれない
簡単なようで難しい

今日は親父の月命日





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死を悼む

2022-03-08 10:52:07 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1837 死を悼む

連日、ウクライナの人々のことを思うと、居ても立っても居られない
家族を殺され、親をなくし、子をなくし、家をなくし、仕事をなくし、街が壊され
逃げ惑う弱い人たちを容赦なく殺すプーチン

新聞の写真には老人が杖をつき避難する姿
ぬいぐるみに拠り所を求め、ぬいぐるみを抱いている子ども
ウクライナは寒く、食べ物もなく飢え、彷徨い歩く

亡くなった父や母、わが子、祖父母の亡骸を埋葬することもできず
いたたまれない気持ちで祖国を去る


ひとりの「死」は、
「亡くなる」ことを意味し、その人がもうこの世に「居なくなる」ことである。
「亡くなる」ことは「居なくなる」ことであり、
この世にその人の存在が「無い」ことに列なる。
息をひきとる瞬間まで、この世に存在していたかけがえのない人が、
「死」によって、もうこの世には存在してない。
会いたくても言葉をかけたくても、もう傍に「居ない」。
大切な人が、親しかった人が、居なくなる=亡くなる、
そのことほど悲しく辛いものはない。

人間死ぬと時間が経つにつれ、その人のことを忘れてしまう。
自分が忘れてしまうことほど寂しいものはない。
いつまでもその人の死(喪失)から立ち上がれずにいると、
心の病を患ってしまいかねない。
ふと、何かあったとき、亡くなったその人が心に浮かび、
その人に心で語りかけることで、その人は心の世界で生き還ってくる。
人間死を怖れている、それは自分がこの世から居なくなることで、
生きていたという自分を忘れ去られてしまう、
そのことを怖れているのではないかと思う。
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「できる」「できない」を考える (7)

2022-03-06 16:04:22 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

那須連山

1836 手を使う

老い往くにつれ、体力、筋力が衰えたとき
寝床から起き上がる。
(ベッドマットは硬いものがよい)

仰向けから右側に向く(右が麻痺しているときは左側に向く)前に、
頭から肩下位まで幾分左側にずらす
足、脚は右側(ベッドの端)の方にずらし、首から足先まで真っ直ぐになる。
(本人ができないときは、介護者が頭、肩を左側にずらし、ついで足、脚をずらす)

躰を右側に向く
右腕は、躰に対して45度から60度程度の角度で腕を置く。
右肘を支点にして、右手背(右手甲)に左手を乗せ、
左手は右手をおさえ、右腕に加重をかけ押し上げながら躰を起こす(片ひじで立ち上がる)
(本人が左手が使えないときは、介護者は本人の手の上に手を乗せおさえる)
本人は首を前にだすような感じで起き上がる

(起き上がりが容易でないとき、本人は左手を介護者の首に回す。介護者は本人の首下に手を回す)
(本人は腕に力をいれ片ひじで立ち上がる、肘は支点の働きをする)
(片ひじで立ち上がりの力に応じて、介護者は右手は肩を軽くつかみ躰を起こす)
(普段、自分は仰向けから横に向きなり起き上がる動作を ゆっくりやってみてください)

躰が起き上がると同時に、両足をベッドに垂らす
足を垂らすと、躰は自然に起き上がってきます
(左脚が麻痺のときは、左足を右足の上に乗せ、右脚を動かしベッド下に垂らす。
本人が「できない」ときは、介護者の右手を本人の膝下に手をかけ、ベッド下に移動する。
(脚を移動するとき、お尻を支点にするような感じ)

次にとっても大切なことは、本人の足裏がペッタと床に着いていることです。
膝の角度が90度(大腿部が水平になる)になり、足裏が床に着く
ベッドが高すぎて、両足がブラブラすると
座位保持が出来ず、前に転倒する恐れがあり、立ち上がりげできない
(床に足が着かずに立ち上がることはできない)
ベッドの高さは個人差がありますが、目安は38〜40センチ程度になりますが
電動べっどは高さが調整できるので、足裏が床に着き、大腿部が水平になっていることです。

要介護老人が「できる」「できない」は、介護者の「てのかけ方」に左右される。

まずは、自分で起きてみる
または他人がどのように起き上がりをしているか、観察してみる。







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骨折予防習慣

2022-03-06 10:39:48 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1835 片足を上げる



一昨日、整形外科を受診した。
中待合室の壁に「1日3回 骨折予防習慣」のポスターが目に止まった。
何が書いてあるのか、と気になり近づいた。

齢(とし)を嵩ねていくと、躰を支える骨と筋肉が衰え
転んだとき骨折してしまいがちになる。

他人(ひと)事ではなく、我身も同様に衰え
頚椎ヘルニアと腰椎圧迫骨折の憂き目に有り、痛みほ癒えぬ。

寝たきりにならないよう
1日3回 開眼片脚立ちを行うことで
骨折の予防になる。

早速、今日から骨折予防習慣を取り組んでいくとしようか。

生活のなかでも片脚を上げる行為(動作)はある。
ズボンや靴を穿くとき、浴槽をまたぐとき
階段の昇り降りもそうである。

片脚を上げる動作は安定したバランスが 求められる。
脚の筋力が衰えてくると、手すりなどにつかまり片脚を上げる。

歩く、左右の脚を交互に上げ連続していく動作に他ならない。
歩行バランスを崩し、転倒してしまい
圧迫骨折や骨が欠けたりして、保存療法になる。

痛みを堪えながら何とか歩けるのに、
「動いてはダメ」「歩かないで」「立たないで」などと行動を制止してしまう。

歩くとき、介護者が傍らで見守りをする
「アブナイ」、と思ったとき、手を出したりすればよい。

介護施設や定員20名を超えるデイの事業所の職員は
「転んだら大変だから、安全のためにも施設のなかでは、車いすを使わせていただきます」、と
利用者の安全を優先するという言葉に、家族は同意してしまう。

安全を優先する、ということで、日中車いすに座り、車いすでトイレや浴室に移動する。
ひと月もしないうちに、歩けていた老人は歩けなくなった。

人間の躰、手足は使わない、と体力、筋力が衰え機能が低下していく。
使わないものはダメになる。

介護保険(介護サービス)は、要介護老人の自立を支援することにある
転んだら大変だから、それは利用者よりも事業所の責任逃れに過ぎない。
転ばないよう、どのような手立て(支援、介助方法、福祉用具の活用などなど)をとれば
転倒を防ぐ歩行ができるのか
それを模索し、支援を行うかである。

居宅サービス計画書(ケアプラン)のサービス内容の欄には
「事業所内の移動は、車いすを使用しない(体調不良などの時を除き)」
「日常生活行為を通し、歩く機会を作る」
と記載します。


老人は、声を出したり、手足を動かしたり、歩いたりすることで
元気になる。

転ぶから、といって
車いすで移動する先は
寝たきりになり
死期をはやめることに連なる。

時間がかかり、動作がゆっくりであっても
大地に足を着き歩く
それは人間の歩みでもあった。





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「徘徊」老人の思い

2022-03-05 08:37:57 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

春陽

1834 戻ることができない

人間は外に出たがる生き物
コロナウイルス禍は老人にも大きな影を映し出している
家族から「外に出てはいけない」、と話され
「閉じこもり」の状態が続いている。

そのせいか、言葉を忘れ、足の筋力は衰え
うつ的傾向や認知症の症状が出てきている

人混みのなかでなければ、外へ出よう
春の風が吹き始め
福寿草が咲き始めた。

認知症老人も外にでたがる。
出たがるときは、一緒に外へ出て春の風を感じてみようか。

認知症老人は「徘徊」する、と言われる。
「徘徊」という言葉は、自分は好まない。
徘徊の意味は、目的もなく歩く。
目的のない歩きはない。

認知症老人は路に迷って、家に帰れなくなり
予想もつかない処で発見されたりする。

認知症老人は、路を真っ直ぐ進むか、左右に曲がり歩き進むが、
戻る、引き返すことができない。

時間も人生も戻ることができない。

路に迷い、歩けども歩けども家につかないとき
不安が募り、どうしていいのかわからなくなってしまう。
発見され、見覚えのある家(施設)に帰ってきたときは、ホッとするのもつかの間
家族や施設職員から「心配したよ。何処歩いていたの」、と叱られてしまう。

認知症老人はこころのなかでは、申し訳ない、と思っている。
冬ならば、「寒かっただろう、お茶でも飲みな」、とお茶を差し出すだけでいい
夏のときは、暑さで喉が乾いている。「冷たい水」を出す。
それだけで、認知症老人の気持ちは落ち着く。



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冬から春へ

2022-03-02 08:48:41 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1830 ジッと生きる

去年の今頃
95歳だった彼女は、「もう体力の限界かな」と感じ、
「桜の花が観れたらいいのに」
そう思っていた。

ベッドに臥すまでは、麻痺と筋力の衰えた足で
ピックアップウォーカーを使いこなし
30㎝ものある段差を乗り越え、歩いていた。

二度目の「東京オリンピックを観るまでは死ねない」
そう話していた彼女。
「冬季北京オリンピック」閉会式も終えた。
いまは、歩くことも起き上がることもできなくなった。

介護し続けてきた長男嫁は60半ばになり、介護歴十三年を数え
長男嫁は膵臓の持病を抱え 左脇腹などの痛みを堪え、姑の介護を続けてきた。

ちりめんじゃこや青物野菜が入ったお粥と一日500ccの水分を摂り
おむつにオシッコをされ、朝夕2回おむつを取り替える。

十分な栄養と水分には満ち足りてはいないけれど
床ずれ一つ作らず、きれいな肌で生きている。
長男嫁は「ここまで介護をしてきたから、いまさら特別養護老人ホームには入れたくない。最後まで看たい」、と夫に話す。

一月に2泊3日のショートステイを使い、介護休息をとって頂くことにした。

ジッと凍える土の中で春を待ちわびている虫や草花たち
満開の桜を観せてやりたい、と誰もが思う。
 
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「できる」「できない」を考える (6)

2022-02-28 05:04:09 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1827 手を当てる

ベッド上で寝ている要介護老人を手を使わないで起こして下さい

「質問の意味がわからない」、と戸惑った人もおられるのではないか。

簡単なことです。
老人に近づき「起きれますか」、と言葉をかける。
老人は「起きれる」「手を貸してもらえば起きれる」「起きれない」など、いろんな言葉が返ってくる。

介護に慣れてくると、言葉をかけずに起こしてしまう介護員がいる。
介護は言葉かけから始まる。
ベッドに寝ている老人、と思い込み、すぐ手を出してしまったり、
早く「介護」を終えよう)時間がない)、ということから言葉もかけずに介助してしまう。

要介護老人の場合、「起き上がり」の介助を行うとき
「座位」がとれるよう連続して介助していく。

元気な人(体力がある人)は、両足を伸ばした状態で起き上がりを行う。
筋力の衰えた老人は自力で起き上がるのは容易ではない。

介護者は老人の背に手を当て、力を入れ起こす。
最初は起こすとき、介護者は十の力で起こす。つまり、全介助で起こす。
介護者がいつも十の力で起こすと、老人は「起こしくれる」と思ってしまい、いつまでたっても起きれない。
ここからが大切。

起こすとき介護者は、背中に手を当てた力を少しづつ抜いていく。
最初に起こしたときよりも、介護者 の手の力が半分くらいで起きれたとき、
「凄いね、だんだん自分の力で起き上がりが出来ているよ。自分で起きるよう頑張っているから助かるよ」、と褒めると
「そうか」
老人の表情は違ってくる。

全介助で起こすより、半介助で起きれるようになると、、老人も介護者も「楽」になる。

半分くらい力で起きあがれるようになると、
端座位(ベッドの端に座ること)、「座る」の基本動作へ繋げて、介助ができるようになる。

「起き上がり」ながら、連続して「座る」といった動作に結びつける。

そのことは次回に記していきたい。

わかりにくい文章ですいません。ハッキリしないところは、コメント頂ければ助かります
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熱が出たとき・・・・

2022-02-27 15:01:42 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
f

1826 手当て

頭や身体が熱い感じがし、身体がだるい、と感じても
乳幼児や認知症老人は、訴えることができない。
身体の異変を感じても、言葉を使い話せない。

母親や介護者は、「なんだか、目の淵など顔が薄ピンク色に見えたりして、熱があるのかな」、と思い
額に手のひら(掌)をあててみる。
額から掌に熱さが伝わり「なんだか、熱がありそうだね。大丈夫!」
「いま、体温計を持ってくるからね」、と言葉をかける。

観察していて、熱がありそうだ、と思い、急いで体温計を取りに行き、
体温計で測る。それは、間違いではない。

昔、子ども心に、母親が額に手のひらを当て、「熱があるね」、と
手のひらで感じ、心配してくれたことが嬉しかった。

要介護老人も同じくである。
手を握られ、握り返したり、背中をさすったり、軽くたたいたりするだけで
ひとは励まされたり癒されたりする。
手の温もり、言葉はなくても思いは伝わる。
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「できる」「できない」を考える (5)

2022-02-27 06:21:44 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


完熟 いちご🍓

1825 起き上がりが「できない」

人間は、ジッとしていられない生き物である。
寝たきり老人になっても 介護用ベッドの上でゴソゴソと躰を動かしたほうがいい。
躰も手足も動かさずに、天井を見ながらジッと寝ていたのでは、良くないことが起こる。
床ずれ(褥瘡、じょくそう)ができ、手足は拘縮したりして躰が硬くなる。

要介護の認定を受けると、基本動作の大切さを改めて感じる。

人間の基本動作(介護事業所で働く介護員は要必読)は
「寝返り」「起き上がり」「座位保持」「立ち上がり」「立つ」「歩く」の6過程がある。
(上記の基本動作は介護用ベッドで行なう)

「寝返り」
寝返りが自力で、できなくなると、要介護5の目安になる。
天井を見るだけの世界になり、エアマット(床ずれ防止用具貸与)が必要になる。
気配りの介護が一層求められる。

左右に寝返りができると精神的に大きく違う。
枕元を上げ右を向くと、外の景色が目に映り、季節の風を感じる。
歩くことができない人にとって、風景を見ると様々なことを思い浮かぶ。

「起き上がり」
基本動作のなかで容易にできないのが、「起き上がり」である。
脳血管障害後遺症により、手足に麻痺があるとさらに起き上がりが大変になる。

若いひとならば、仰向けの状態から、布団のうえでヒョイと起き上がれる。
老いを嵩ねてくると、横に向き布団に手をつき、加重をかけながら、起き上がりを行なう。

ここで、質問!
ベッド上で寝ている要介護老人を手を使わないで起こしてください。







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「できる」「できない」 を考える (4)

2022-02-26 04:11:31 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1823 胎内から歩くまでのプロセス





にんげんは、この地上に二本足で立ち、歩きそして手を使うことで
大きな自由を獲得した。

若い親やジイババになった祖父母は
赤ん坊が「仰向け」から「寝返り」ができると歓喜の声を上げる。
「寝返り」ができるようになると
小さな人間(赤ん坊)は、顎あげ、次に胸をあげ辺りを見まわす。

入院し大きな手術施行し寝返りもできずにいる患者、自力で寝返りができない要介護5の老人は、
目に映るものは天井だけ。
それが、寝返りができ、胸をあげ、首を回し部屋の風景を眺め見る。
物を立体的な関係で捉えるようになる。

寝返りができた力は、うつ伏せから手、腕そして足を使い「四つ這い」をすると、
小さな人間はの行動(世界)は大きく広がる。
興味津々な物が目に映り、「あれは、何だろう」、と早くそこへ行きたくて
「高這い」になる。

図「運動発達の順序」を見ると
小さな人間は、目安として9ヵ月になると家具(椅子)につかまっていられる(つかまり立ち)ができる。
10ヵ月には「這い這い」ができる、と説明している。
しかし、なかには「這い這い」ができ、次に這い這いから椅子の座面に手をつき「立ち上がり」の動作を行うこともあり、
発達の順序が逆になることもある。

老いてくると体力や筋力が落ち、床(畳)から容易に立ちあがれなくなる。
床から立ち上がらせるとき、介護者は決して老人の両手を握り引っ張り上げてはならない。
老人の全体重を持ち上げることになり、肩が外れてしまう恐れがある。
介護者も引っ張りあげるのは大変。
介護は力ずくで行うものではない。

小さな人間が行ったように
這い這いから椅子の座面に手を乗せ、加重し手を押し上げ、立ち上がり、立つ。

床よりも椅子(介護用ベッド)に座り、介助バー(移動バー或いは支援バー、とも呼ばれている。介護保険、福祉貸与サービス)につかまると更に容易に立ち上がりができ、安定した立位保持ができる。

担当させて頂いている85才のババ様(要介護5)は、
両足の筋力は萎え立つことも歩くことができない。
「歩けない」から車イスに乗せて移動する、という考えになりやすい。
青空の家デイサービスは、ホールからトイレや洗面所までの移動は四つ這いにより行わせている。
(四つ這いを終えた後は、手指を拭き、消毒液により消毒している)

自宅では一人暮らし生活をしている。
毎日朝夕ヘルパーが支援に訪れる。
自宅のなかは四つ這いで移動している。
自宅で四つ這いで移動しているのに、デイサービスで車イスを使用すると
四つ這いの機会を減らすことで
彼女の両手両足の筋力は落ちてしまい
寝たきりの誘因、要因の引きがねとなってしまう。

いま老人が持っている力を使うあるいは引き出すことにより
生活のなかで「できる」ことを行なわせていくことが、生きる力につながっていく。














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「できる」「できない」を考える (3)

2022-02-25 05:12:52 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


昔開拓部落だった家をほうもんしたとき軒下の氷柱を発見。

1821 白と黒の中間

「できた」「できない」
「できない」よりは「できた」方がいい。

「できる」ことに拘り過ぎると
「できなくなった」ときの落差は大きい。

老人はチョットしたことで
それが引きがねとなり「寝込み」
歩けなくなり、生きることに諦めてしまいがちになる。

人間は「できる」「できない」の二つに結論づけようとする。

話は横道に逸れるが
昔の映画は白黒だった。
画面を見ると色は白色と黒色だけではない。
灰色があった。
灰色の存在により
光や影の風景が作られることで
立体感を醸し出していた。

カラー映画よりも
時には白黒映画の方が味があり
昔の風景を懐かしく思うことがある。

物事には白か、黒かの二色だけでなく
色の組み合わせにより
見方を変えることができる。

大正、昭和(戦前、戦後)生まれの男のなかには
令和の時代になっても
妻は夫に従うもの、という考えから抜けきれずにいる。

老いた夫が床に伏せたとき
老いた妻は子育てのように
かいがいしく世話(面倒、介護)をしてしまう。

本人が「できる」ことまで世話を焼き
いつのまにか「出来ていた(できる)ことが「できなく」なってしまう。
夫は自分でやれば「できる」のに
俺はもうだめだ、と思い込み甘え、老いた妻にもたれかかる。
威張っていた前の姿は何処にきえたのか。

ケアマネジャーや介護事業所の介護員(介護福祉士)は
要介護老人が「できていない」ことの実相を見極めていくことが必要になってくる。

介護従事者のなかでも手を出し過ぎて、要介護老人の自立を阻んでいることを「わかっていない」人がいる。
時間がかかる、待つことができないために、つい手を出してしまう。
それが「できなく」させていく。

また「できる」「できない」の見方だけに捉われると、そこで行き詰まってしまう。
ここの部分を手をかせば(ここのところを支援すれば)、「できなかった」ことが「できる」ようになる。
自分で「できる」能力をもっているのに「やってもらっている」ことを、自分で「やってもらう」

そうすれば「できる」ことが増え
介護者(老妻)の負担も減ってくる。

今日の話は抽象的でわかりにくいかもしれない。

次回、事例を通して今日の話を実体験により深めていきたい。



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「できる」「できない」を考える (2)

2022-02-24 04:59:58 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


冬の青空

1820 待つ

幼児、老人の動作を「待つ」 それは忍耐がいる。

幼稚園(保育園)バスがまもなく到着する。
自分で靴を履こうとしているのに
母親は「何グズグズしているの、バスが来るでょう」、と
小言を言いながら、靴を履かせてしまう。

いつの間にか子ども(幼な子)は、靴はお母さんに履かせてもらうものだと
子どもは思い込み(学習してしまう)、依存的になってしまう。

それは、小学校に入ってもランドセルの中を準備するのは母親。

子どもだけでなく老人も同じ光景が映る。
デイサービスの車が迎えに来る。
認知症を抱えた夫
老いた妻は、「(夫は)何もできなくなった」、と思い込み
靴を履かせてしまう。
(夫はまだ靴を履く力を持っている)

時間をかければ、なんとか自分で着れるのに
動作の遅さに待ちきれず
若い母親、老いた妻は手を出し着せてしまう。

認知症になっても老人は学習する。
椅子(または介護ベッド)に座り、手や足を差し出し;
やってくれるのを待つようになる。

子どもも老人も同じ。
やってあげることは簡単だし、早く終わる。

子ども(老人)が最後まで自分で行うのを見届ける
つまり、待つことの方が難しい。
つい手をだしたくなるのをこらえる。
それは、「待つ」とは、「間」をとるという事を意味する。

「間」をとった育児や介護が大切。
それには、時間や心の余裕が求められてくる。

お母様の介護をされている或る娘さんは
コメントの中で「ゆっくりゆっくり寄り添って歩んでいきたい」、と述べられていた。
「待つ」とは、寄り添いの育児や介護であることにも気づかされました。











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「できる」「できない」を考える (1)

2022-02-23 07:43:39 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」



1818 報われない努力

羽生結弦選手の「報われない努力」もある、という言葉に衝撃を受けた。
よく人は努力をすれば報われる(結果がついてくる)
羽生選手の言葉は
前人未踏の4回転半アクセルがオリンピックの大舞台で成功するために
言葉に尽くせぬほど努力に努力を重ね、チャレンジした。
4回転半アクセルは公認されたけど
心のなかは跳び着地が成功することを目指していた。

自分は長く生きてきたが
死にものぐるいになって努力をしてきたことはなかった。
だからやり切った(達成感や成就感)という喜びがない、悲しい人間である。
だから、老いてからの後悔の念はことさら「きつい」
人生は一度限り、もうここまで老いては「やり直しがきかない」

死が刻々と近づいても何かやれることはあるのだろうか、と。
いまさら後悔しても始まらない
老いてから伊能忠敬のように足で歩き
日本地図を完成させた
凄いことだと思う。

しかし、いまの自分に「できる」ことはなにか、考えてみた
転倒骨折や脳卒中後遺症(脳血管障害後遺症)、認知症などの疾患により
いままで「できていた」ことが「できなくなった」、と諦め
家族も介護者も「優しさ」からつい手を出してしまいがちになる。
「できる」ことまで、「できなくさせて」しまう。

「できる」「できない」「手をかせばできる」の見分けを
要介護老人とそのご家族と一緒になって考え
少しでも「できる」喜びを感じていきたい。

「勉強ができる」「できない」
「できる」と「わかる」の違いは何か
「子どもができる(生まれる)」「子どもができない(生まれない)」
子どもが欲しいと切に願ってもできない
どうして、子どもを虐待し殺してしまうのか

老い齢を嵩ねるにつれ「できない」ことが増えてくる。
福祉用具や介護用品などを使うことで「できる」ようになる。

幼児や老人にとり
母親や介護者が口や手を出さず
「待つ」だけで「できる」のである。
そのことは、次回(1820)で述べていきたい。

コメント (2)
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