関東平野とは違い私が棲む東北の農村は山に囲まれている。山の向うは栃木県になる。
1563 介護とは ⑥{要介護老人を疎んじる介護 ~誰のための介護か~}
いまは、介護の仕事を希望する人はなく、介護事業所や介護施設は慢性的な人で不足に悩まされている。
数多の仕事があるなかで、あなたはどうして介護の仕事を選んだのか、と尋ねたくなるときがある。
介護保険制度が導入され、民間企業も介護業界に参入し、各地に高齢者施設がつくられてきた。
自分が寝たきり状態や認知症になったとき、「入りたい」と思うような施設は少ない。
94歳の絹婆さんは、サービス付き高齢者住宅に入居されてから、
精彩を欠き人間らしさが失われ、責任を感じている自分。
いまから家に戻ることもできず、
他の介護施設に転居させることもままならない。
サービス付き高齢者住宅から桜デイサービスに週3回通う絹婆さんを訪れ言葉をかけてきた。
介護は、(好きな言葉ではないが)介護される側の考え方ひとつで、
天国か地獄かのどちらかに分かれてしまう。
介護は育児(保育)と同じように“待つ” “見守る”といった姿勢が求められる。
それは、根気や時間、手間がかかる。
時間に追われる介護は、要介護老人の動作を待つのは容易ではない。
杖をつきながら小刻みに歩く絹婆さんに付き添っている時間はない。
手っ取り早く車いすに乗せ、彼女の居室から食堂まで連れて行く。
食堂に着けばいい、という考えだけで、
朝昼夕の3回、歩く機会を奪い車いすに乗せていく。
彼女の足は「虫歯」のようになり立つことや立ち上がることもできなくなってしまうことは、考えてはいない。
車いすの移動の方が介護者にとり、効率的で「楽」である。ただ、それだけの理由である。
歩けるのに、なぜ車いすですか、と尋ねると、転倒し寝たきりになったら・・・、と言い訳の言葉が返ってくる。
絹婆さんは、トイレに行くことも面倒くさがるようになってきた。
高齢者住宅では、ヘルパーは紙パンツの中に尿取りパッドを2枚入れ、
オシッコが滲み込んだ尿取りパッドの抜き取りを行っている。
2枚のパッドを抜き取ったあとは、紙パンツだけになる。
ヘルパーは翌朝、紙パンツ尿失禁で濡れても交換するわけでもなく、
その上に尿取りパッドを乗せ、デイサービスの送り出しをする。
利尿剤を服用されているのに、1日の水分は600ccしか飲んでいない。
水分が過度に不足したままデイサービスに来るので、
体も頭も働きが悪く、ぼ~とした表情で反応も動作も鈍い。
サービス付き高齢者住宅の管理者に電話を入れ、水分はどのくらい摂られているのか尋ねると、
「600ccは飲んでいますよ」と何の疑問を持たずに答える管理者。
「利尿剤も服用されており、少なくとも1,000cc~1,500ccは摂取されないと、
脱水症状になり救急搬送するようなことにもなりますよ」、と電話をとおし、十分な水分をお願いした。
介護を受ける側にある要介護老人は弱い立場にあり、
認知症老人は「嫌だ」と反発することもできない。
介護は手間がかかるサービスなのです。
排せつの介助も手間がかかる。
それを介護者が「面倒くさがり」「嫌がり」、
抜き取りパッドや汚れた紙パンツの上にパッドを乗せるような「介護」は許せるものではない。
誰のための介護をしているのか、と思うと、自分までが情けなくなってしまう。
心無い「介護」は、老人の生きる力(人間性)を奪い、死を早めていく。
そして、介護者は、自分の心が痩せ荒んでいくことさえも気がつかぬままにいるのも、
また心傷む。