老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

介護とは ⑳{申し訳ない}

2020-07-05 10:31:55 | 介護の深淵
1588 介護とは ⑳{申し訳ない}

あと少しで透析を終えようとしたとき
血圧が急激に下がり90/40の数値になり
胸がしめつけられ、嘔吐しそうで、便意をもよおしてきた

看護師を呼んだが間に合わず「便失禁をしてしまった」。
我慢をしたのだが、我慢しきれず肛門括約筋は、私の言うことを聞かずに緩め解放してしまった。
大人になってから初めての便失禁
あともう少しで透析を終えるところだったのに・・・、と思っても
あとの祭りであった。

ナースコールを押し「便失禁した」ことを看護師に伝えた。
肛門から臀部にかけ便がまとわりつき気持ちが悪かった。
透析をしながらの状態で、男性看護師は便を拭き取り紙おむつをつけた。
もう生きた心地がしなく、「申し訳ない」「すいません」の言葉を繰り返し話していた。



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介護とは ⑲{日常生活行為に勝るリハビリなし}

2020-07-01 04:37:11 | 介護の深淵


1584 介護とは ⑲{日常生活行為に勝るリハビリなし}

介護保険サービスがスタートしたことで、
介護施設やデイサービスなどの介護サービスの質はアップした。

自分は、平成元年の年に老人介護の世界に足を踏み入れた。
当時、おむつをしている老人は、誰もがベッドの上で交換をしていた。
歩けない老人をベッドから起こし、車いすに乗せ、トイレまで移動介助し洋式便器に移乗させ、排せつケアを行うことを提案したら
介護員から猛烈な反対(ブーイング)が起きた。

介護保険サービスが始まり
良心的な介護施設やデイサービスやショートステイの事業所では、トイレで排せつケアを行うようになってきた。

老人の基本動作
❶仰向け、寝返り 👉 ❷起き上がり 👉 ❸座位保持 👉 ❹立ち上がり 
👉 ❺立つ(つかまり立ち) 👉 ➏歩行


ベッドからトイレまで、杖や歩行器を使って歩ける人は、歩いてトイレに行く。
ふらつき転びやすい人は、車いすではなく歩行介助により、歩いてトイレに行く。

歩けず、車いすにより洋式便器まで移動する人(車いすを操作できる人は自分でトイレまで行く)。

車いすの人が洋式便器の前に着いた、としましょう。
①車いすから、「立ち上がる」👉②手すりにつかまり「立つ」{(何秒=どの位)つかまり立ちができるか}
👉③軸足を回転させ「屈み」、洋式便器に「座る」 👉④「座位保持」(座位保持が不安定な人は、介護者はからだを支える)
👉 ➄ 排せつし、お尻を拭く 👉⑥ 「立ち上がる」 👉 ⑦手すりにつかまり「立つ」 👉⑧ 軸足を回転させ車いすに「座る」

一連の排せつ行為は①から⑧まで行われる
この①から⑧までの各動作①②③④➄⑥⑦⑧において
老人によって、自分で「できる」、介護者の「手助けによりできる」、「できない」の段階がある

自分「できる」「手助けによりできる」のに
介護者の時間的都合や過剰介護により、介護者が全介助によりやってしまっては
「できた」動作も、「できなくなり」老人も依存的になってしまう。


身体が不自由になり、筋力や体力も低下してくると
老人の動作は鈍く時間がかかってしまう。

そんな老人の遅い動作を「待つ」ことができない介護者は
介護者がやってあげた方が「早い」(効率的な介護)からやってしまう

老人介護も子育ても 本人の行動を見守り(時には手を添えるような介助)しながら「待つ」。
「待つ」ことが肝心

日中、トイレに行く回数を4回とすると
一月で120回
一年で1,440回にもなる。

介護者からすべてやってもらった排せつ行為は、手足の筋力維持どころか、筋力の低下を招く。
一方、手助けを得ながらも「自分でできる」よう一部介助されている老人は、
一月の「立ち上がり」は、1回の排せつにつき2回(①、⑥)あり、月に240回(120回×2回)にもなる。

全介助の老人の立ち上がりは、0回
一部介助の老人の立ち上がりは240回
日々の介護の積み重ねは大きい。
介護は手間がかかるけれども、得る果実がある。

病院の機能訓練室で歩行訓練や手すりにつかまり、立ち上がりの訓練はなされ
脳卒中患者の機能回復には欠かせない。

機能訓練室で為されたリハビリを日常生活行為に結びつけることが大切になってくる
機能訓練室で行った「立ち上がり」を
トイレでの「立ち上がり」につなげていくことである。


手助けによりできた立ち上がりは
一月に240回の立ち上がり動作を続けていくと
手助けなしで立ち上がりが「できる」ようになる
排せつは毎日必ずある
排せつ行為(日常生活行為)に勝るリハビリなし

くどい説明になったような感じがしますが
元気な人は、考えることも悩むこともなく、当たり前のように排せつ行為ができる。
手足や体が思うように動かない老人にとって、排せつのときほど
「人様の世話を受けるくらいなら死んだ方がいい」、と思ってしまう。




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介護とは ⑱{基本動作を把握することが凄くすごく大切}

2020-06-29 05:04:03 | 介護の深淵
1582 介護とは ⑱{基本動作を把握することが凄くすごく大切}



赤ちゃんが「おぎゃあ」と産声を上げ
最初は「仰向け」で寝ている

次は、仰向けから「寝返り」を行い、うつ伏せになる。

うつ伏せから「ずり這い」をする(最初は前ではなく後ろにずり這いをする)

ずり這いから「這い這い」が力強くできるようになる。

這い這いから「高這い」になる。

高這いから「立ち上がり」をする。

立ち上がりから「つかまり立ち」をする。

つかまり立ちから「歩く」。

これが仰向けから歩くまでの人間の基本動作の過程を、もういちどまとめてみた。

仰向け 👉 寝返り 👉 うつ伏せ 👉 這い這い 👉 高這い 👉 立ち上がり 👉 つかまり立ち 👉 立つ 👉 歩く

赤ん坊、幼児の動作と介護用ベッドを使用している老人の動作と、大まかにみると同じ過程をたどる

老人の場合(要介護認定調査の項目にもある)
❶寝返り 👉 ❷起き上がり 👉 ❸座位保持 👉 ❹立ち上がり 👉 ❺立つ(つかまり立ち) 👉 ➏歩行

ケアマネジャーや介護職員は、老人は❶から❻までの動作のなかで、
老人が自分で「できる」動作と、手助けをすれば「できる」動作、「できない」動作を見極めることで
介護の仕方(介護のかかわり方)が変わってくる。


自分で「たちが上がり」ができるのに、介護者が立たせてしまったら、老人は自分で「立ち上がろう」とはしなくなる。
自分で立ち上がらなければ、「立つ」という行為へつながっていかなくなる。

❶から❺までの基本動作のなかで
要介護老人ができにくい動作は、❷起き上がり である。
❸や❹、❺はできても❷は容易にできない老人が多い

❶は、ベッド柵(サイドレール)につかまれば「できる」
❷「ひとりで起き上がりができるかできないか」、まず老人に尋ねることである。
「できない」と返答されたとき、介護者は老人の背中に手を当てながら、起き上がりの介助を行う。
その際、老人はどのくらいの腹筋力(起き上がる力)があるのか、
介護者は背中に当てた手で感じ取ることが大切。

介護者は10の力(全介助)で起き上がりをし続けると、
老人はいつまでたっても起き上がりはできない。
介護者は10の力を抜きながら8,6,4というように
老人が少しでも自分の力で起き上がりができるよう支援していく(介護者の力を抜いていく)ことである。

「ひとりでできる」「できない」だけの視点だけでなく
「手助けすればできる」という把握(観察眼)が求められる(介護職員、ケアマネジャー)。
「手助けすればできる」は、この先「ひとりでできる」よう支援していくことにある。


一連の排せつ行為の場合 ❸❹❺の基本動作が関わってくる 👉 「 介護とは ⑲」で書いていきたい







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介護とは ⑰{尿意があれば、紙パンツ(紙おむつ)はやめる}

2020-06-28 05:37:57 | 介護の深淵
1580 介護とは ⑰{尿意があれば、紙パンツ(紙おむつ)はやめる}



トイレに歩いて行くことができなくなった老人は
紙おむつ(或いは紙パンツ)を穿かせられる。

「オシッコがでる」のがわかるのに
紙おむつ(紙パンツ)を使用すると
括約筋と脳細胞の間で交わされる信号の働きが低下(退化)し
緊張感もなくなり、生きる意欲も失せてくる。

紙おむつがオシッコで濡れ
最初は不快感を抱きながらも
そのうち紙おむつのなかが多量のオシッコで濡れても
なんとも思わなくなり皮膚感覚も退化していく。
認知症が進行していく引き金にもなっていく。

紙おむつ(紙パンツ)を使用することで
紙おむつの交換も人まかせになる。

「オシッコがでる」、とわかる老人は
いまから、今日からでも紙おむつ、紙パンツを外し
普通のパンツに穿きかえる(心配ならば尿取りパットを使用)。


では、ひとりで歩いてトイレに行けない老人はどうするのか?
介護の登場になる。
杖や歩行器を利用することで、ひとりでトイレに行ける老人は、歩行補助具の活用と歩行時の見守りが大切になる。
ひとりで歩いて行けない老人は、車いすに乗せ、トイレまで移動介助を行う。

洋式便器に座れば、老人は「排せつはできる」。
洋式便器までの移動と、用足しを終えてから元の場所に移動する。
介護により移動介助を行う。

排せつにおける一連の動作行為は、生活リハビリの要素がいっぱい詰まっている。

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介護とは ⑯{オシッコは頭でする?}

2020-06-27 08:13:56 | 介護の深淵
1579 介護とは ⑯{オシッコは頭でする?}

食卓の椅子に座って食べる
排せつは、行きたい、と思ったときに行く。

当たり前のこととして、普段行っている。

脳卒中や認知症などの疾病や転倒骨折などの理由で
手足や体が不自由になり
当たり前のことが「ひとり」で行うことが「できなくなる」

そうなったとき、介護は当たり前の生活(普通の生活)ができるよう手助けを行う。

齢を重ねた老人
歩けなくなったとき
または、ひとりで歩いても転びやすく骨折の恐れがあるとき

歩いてトイレに行けない老人は 紙おむつ(あるいは紙パンツ)のお世話になる。
人間にとり、歩けなくなるということは
その人の人生史において大きなショック(衝撃)に遭遇する。
行きたい処へ自由に移動ができなくなる。

しかも赤ん坊と同じく紙おむつ(紙パンツ)をする惨めな自分になる。

人間、膀胱にオシッコが溜まると
「膀胱にオシッコが溜まったよ」、と頭(脳細胞)に信号が送られる。
信号が届いた頭は、「いま講演(音楽)を聴いている。あと、15分位で休憩になるだろうから
それまで我慢しなさい」、と尿道括約筋に信号を送り返す。
命令を受けた尿道括約筋は尿が漏れないないよう括約筋を締める。

休憩時間になり、急いでトイレに駆けつけ用を足す。

頭(脳細胞)と括約筋(尿道括約筋、肛門括約筋)の間は、緊張感が生まれる。
頭の命令(頭の働き)により、オシッコやウンチの排せつ行為がなされる。
或る意味、人間は頭でオシッコをしている{ウンチも同じ}。
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介護とは ⑮{トイレは行きたいときに行く}

2020-06-25 05:02:27 | 介護の深淵
歩いてトイレに向かう109歳の老女

1577 介護とは ⑮{トイレは行きたいときに行く}

今回から生理的欲求である「排せつ」について、書いていきたい。

飲まず食わずの「空腹」でいることは、辛く、何事にも手がつかず、
お腹が空きすぎると、眠ることもできない。

食べたり飲んだりすると、人間は「オシッコ」「ウンチ」が出る。
出ないと大変なことになる。

健康な人や元気な人は、排せつのことで悩みもしないし
当たり前にトイレに行っていることの大切さも気づかない。

人間、いつトイレに行くか。
「オシッコがしたい」「ウンチがしたい」、と思ったとき
足はトイレに向かい、トイレで「用を足す」。

排せつ(オシッコ、ウンチ)は生理的に我慢ができない。
とくに下痢や軟便をもよおしたとき、近くにトイレがなく
知っているトイレは、まだ先にある。
そのうち顔に青筋が立ち、冷や汗が流れだしてくる。

目的のトイレに着いたとき「使用中」のときは最悪。
使用中の赤マークが消え、トイレに入ったときは極限状態のマックス。
下衣を降ろすやいなや、解放感の境地。
(23歳のとき上高地で体験した。野糞もできたのだが、伴侶者がいたのでできなかった)

繰り返しになるが、オシッコやウンチは、行きたいときにトイレに行く。
当たり前の排せつ行為である。

自分は便秘気味になると
書店に行き、目当ての本を探したり、本を読んでいると
便意をもよおし、トイレに向かう。
最近は甘酒を飲むと、腸のはたらきがよくなり快便この上ない。
適度な運動と水分を摂ると便秘にならない。


脳血管障害後遺症(脳卒中)や認知症を患うと
自由にトイレに行くことに支障(不自由さ)が出てくる。
誰かの手を借りなければならなくなってくる。

(付け足し的な小話)
トイレに行くことは、その人にとって大切な行為である。
トイレに行くことを昔の人(老人)は「用を足してくる」、という言葉を耳にする。

「用を足してくる」
昔は、役場等に行き書類を出してくる、相談しに行ってくる、といったように
大切な用事を済ませて来る、という意味があった。
それと同じく、オシッコやウンチがしたくなった、という生理的欲求は
その人にとっては、いま一番大切なことであり
その大切なことを済まさなければ、生理的に苦しくなり大変なことになってしまう。
「用を足してくる」、と席を立ちトイレに向かうのである。





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介護とは ⑭{ヒトから人へ「自立」}

2020-06-23 13:32:53 | 介護の深淵


1575 介護とは ⑭{ヒトから人へ「自立」}

人間最初の自立は、「ひとり歩き」ができ、行きたいところへ行ける。
ひとり歩きができるようになると、親は「あひるのおまる」を部屋に置く。



もじもじしたり、「そろそろオシッコの時間かな」、と思うとき
紙パンツを抜かせ、あひるのおまるに股がせる。
あひるが珍しく、オシッコをするのも忘れ、あひるに夢中
オシッコがうまくできたときには、うんとほめてあげ、失敗したときは怒らない。

あひるのおまるでオシッコ・うんちができたら、次は洋式便器(トイレ)に挑戦だ~。
おむつが外れる時期は2歳半から3歳頃(個人差がある)。

子どもにとり「おむつが外れる」ことは、第2の自立つながり、
不快さ・不自由さから解放され、行動空間が拡がっていく。

お出かけするのにも、親は紙おむつなどを持たなくてもよい 
👍 おむつ代がかからない 
👍 洗濯代もかからない

おむつが外れた幼児が、駄々をこねていたので
「赤ちゃんだね」、と言葉をかけた
幼児は「赤ちゃんじゃない。お兄ちゃん(お姉ちゃん)だもん」と反撃をする。

おむつをしているのは赤ちゃん。
僕は(私は)おむつをしていない。トイレでオシッコ・うんちをしているもん。
お父さん、お母さんと同じく「ひとりでトイレでしている」僕(私)。

おむつを外れた子どもは、排せつでは「一人前」に自立したこと意味する。

👇
齢を嵩ね 老人となった。
病気や転倒骨折などにより手足が不自由になり
一人でトイレに行くことができなくなった老人。
他人の手を借りなければ、トイレにも行けない。
まだトイレで、用足しをできるうちはいい。

「紙おむつをするようになったらお終いだ」
「紙おむつをするようになったら死んだほうがいい」(死んだ老人はいない)
なぜ「お終いだ」「死んだほうがいい」、と老人は呟くのか。

それは、おむつをつけている子どもは親の世話をうけ「半人前」として(自立していない)、大人は見ている。
老人は過去に(子どものときに)おむつが外れ
そして学校を卒業し、社会に出て定年まで働いてきた。
一人前の大人として働き、家族を養ってきた。
それが、いまこうしておむつをつけるようになった自分は、赤ちゃんに後退し「半人前」の人間になったことが情けない、
と思ってしまう。

👍 おむつが外れることは 子どもにとり大きな自信にもなり、笑顔にもなる。
   老人も同じ。老人もおむつが外れると、元気になり、生活に意欲がでてくる。

  おむつが外れた老人の変化については、後日書いていきたい


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介護とは⑬{ヒトから人へ「自立」}

2020-06-22 06:21:58 | 介護の深淵


1574 介護とは⑬{ヒトから人へ「自立」}

上の図 運動発達の順序 を見ると
赤ちゃんが「おぎゃあ」と産声をあげ
1年後には、「立ち」「歩く」というように
生まれてから1年間の人間の発達は
新幹線以上に速いスピードに驚く。

赤ちゃんの運動発達の順序を逆に進んでいくのが
老人である。
すべての老人がそうなるわけではないが、ひとりで歩けなくなる。
杖や人の手を借り、心もとなく歩く。
テーブルに手を乗せ立ち上がりを行うようになると、老いの始まり。

老人は死に向かい 衰えていく。
老いを嵩ねても 人間はなかなか「老い」て往く自分を受け入れがたい存在。
典型的な言葉は、「人間、おむつをするようになったらお終いだ」、という言葉をとく耳にする。
それは、おむつになったら自分は一人前の人間ではなくなる。

その言葉の意味は、ヒトから人になった「赤ちゃん」のことと関係してくる。

赤ちゃんが産まれたときは
なにもできない無能の状態にあり
雛鳥とまったく同じである。
母親(親鳥)が母乳またはミルク(餌ー虫)をあげなければ
赤ちゃん(雛鳥)は生きていくことができない。

這えば立て 立てば歩めの親心

赤ちゃんがはいはいするようになったら
今度は立ってくれ

立つようになったら
今度は歩いてくれ

「初めてうちの子、立った」
「今日二本の足で歩いたの」
と、大騒ぎをしたのは、昨日のように思い出す。


我が身に積もる老いも忘れて
孫の成長を喜ぶ。

赤ちゃんから幼児前期になったとき
わが子が「ひとり立ち」できたとき
そして数歩ではあっても「ひとり歩き」できたとき
満面の笑顔は自信に溢れ、ヒトから人へになった「自立」の第一歩である。

宇宙飛行士のニール・アームストロングは月面に降り立った時
「これは人間にとっては小さな一歩だが, 人類にとっては大きな飛躍である」
という素晴しい言葉を発した。


ニール・アームストロングの月での第一歩とわが子の第一歩は
同じくらい偉大な出来事なのである。

学校では学んだ 人間が他の哺乳類動物と違うのは直立歩行ができたこと
学校では直立歩行ができたことの偉大な意味を掘り下げては教えてはくれなかった。
ここはたっぷり時間をかけ教えてもらいたかった。

直立歩行ができたことで、両手が自由に使え、もの(道具)を作りだしてきたこと。

高齢者施設や介護サービス事業所(デイサービスやショートステイ)などで
老人がふらふらして歩いていると
転倒しては困る、と気持ちが先に行き、車いすに乗せ移動をさせてしまう。
ふらふらしながらも歩いていたのに、安全名のもとに「歩けなくなった」老人。
他人の手を借りなければ移動ができなくなった。

ふらつきながら歩いている
確かに危ないが
どうしたら危なく歩けるか
杖や歩行器の使用やリハビリによる基本動作訓練(両下肢や臀部などの筋力アップ訓練)を行うことで
歩行が維持できる。
人間が長い歴史の過程のなかで獲得してきた自立歩行を
簡単にあきらめてはいけないのに・・・・。

ひとりで歩けることは、自由に好きなところへ行ける 誰の手も借りないで
そのことをプロである介護員 看護師は忘れてはならない。

興味のある方
エンゲルス『猿から人間になるにつれての労働の役割』国民文庫、大月文庫
ポルトマン『人間はどこまで動物か』岩波新書

上記の2冊は介護や保育を学ぶ人にとり、大きな衝撃を受ける











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介護とは ⑫{食べることの意味}

2020-06-21 04:10:03 | 介護の深淵
1573 介護とは ⑫{食べることの意味}

          (1)
人間だけでなく、犬も猫も豚も食べなければ飢え死にしてしまう。
食べる物が何も無いと、心はさもしく躰は寒く、頭もボォ~としてくる。

長男夫婦はどちらも教師でありながら
要介護3の老母の介護を怠り、放任行為を亡くなるまで続いた。

老母は食べる物がなく、ふらつき歩き冷蔵庫の前に立つ。
冷蔵庫のドアを開け、冷凍の松坂牛を手にとり食べる。
食べる物が何も無いときは、猫キャットフード(猫缶)やチャオ ちゅ~るを食べていた。

老母も定年まで教師を勤めたので
共済年金額は十分にあっても
長男が管理されているため老母は無一文にあった。

食事に飢えていた老母は
デイサービスの昼食のとき
口のなかにご飯やおかずがまだ口のなかにあるのに
おかずを掻き込み入れるため
咳込みゲホゲホし、口から吐き出してしまう。

この老母に限らず、自宅で十分な食事が摂れていない老人は
慢性的に飢え、目の前に食べ物があると
食べ物を自分の前に寄せ、貪るように食べる。
食べ物に飢えている老人や子どもは、
家族の愛情にも飢えている。


           (2)
老いてくるほど いちにちのなかで
食べることが唯一の楽しみとなってくる。
好きな食べ物、お袋の味、旬の物など
美味しい物を味わっているときは
ほんとうに幸せ気持ちになる。

美味しい物は、ひとりで食べたのでは美味しくなく
みんな(家族や気心知れた人)と食べるから美味しい。
「美味しかった」「また食べたい」、とそう言葉を交わしながら
明日も頑張ろう、と生きる力がでてくる。

末期癌や老衰が進み、治療よりも在宅生活ということで退院されるとき
医師から「好きな物を食べさせてください」、と言われる。
もうそのときは、そんなに好きな物を食べることができなくなる。

老いを嵩ねてゆくけれども 元気なときにこそ
美味しい物や好きな物を食べ歩いたり、また作ったりして
楽しむことである。


仏となり、仏壇に好きな物や旬の物を
お供えとしてあげて頂くのは嬉しいのだが
口にすることはできない。

生きているうちに食べさせることが
親孝行なのかもしれない。
自分は親不孝の類で、生きているうちに
もっと外へ連れ出したり好きな物をを食べさせたかった、と
後悔と反省をしている。

         (3)
食べることは生きること
食べることは呼吸をすること

老人は食べないと
老人は栄養不足すると
人間らしい顔の表情はなく 肌つやも悪い
足どりも悪く、最悪の場合はひとりで歩けなくなり、動作も鈍い
言葉も失せ、反応も鈍い
坂道を転げるように認知症も進む
当然、水分も不足しており、夜間せん妄になることもある

ひとにより食べるのが遅く、60分もかかる
老人は食べることが「仕事」のひとつだと思い、60分かかっても食べることが大切。

ベッドから車いす、車いすを食卓まで移動し、車いすから食卓の椅子へ移乗させる。
老老介護介護の場合、食卓まで連れていきさらに椅子に乗り移すことなんてできない。
本当にそう思う。

そのときはヘルパーやデイサービスを利用し、椅子で食べるようにする。

介護サービスに使えるお金は、いくらまで可能なのか。
そのことをケアマネジャーに伝えることにより、ケアプランを作成していくときに助かる。

要介護5であっても車いすに座ることができれば
食卓の椅子で食事を摂ることができる。
ベッドでひとりで食べるよりは
家族がいる食卓で食べる方が、楽しいし、美味しく感じるし、食欲もでる。
1日1食(昼食か夕食)でもいいから、椅子に座って食べる。


デイサービスでは移動介助のプロがいるのだから
車いすではなく椅子に座らせ食事を摂っていただくのが、介護サービスである。

口も手も足も使わなければ機能低下し、動かなくなってしまう(廃用症候群)。
老人が最後に残る機能は、自分の口で食べる。あるいは自分の手を使い自分の口で食べる。

自分の力で食べるのと介護員から介助により食べるのとでは
味わいや美味しさが違う。

寝たきりになっても、自分の口で食べ味わいたいものである。

食べることは生きること
食べることは呼吸をすること


















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介護とは⑪{生きるために食べる}

2020-06-20 04:38:17 | 介護の深淵
1572 介護とは⑪{生きるために食べる}

生理的欲求には「食べる」「排せつ」「眠る」の3つがあり
3つのなかで、人間にとり「食べる」欲求が一番強いのかな、と思う。
ブログを見ると、美味しい食べ物の画像(写真)が多く掲載されている。

自分の場合、40台に入り、慢性腎不全症という病に遭遇し
死ななければ治らないやっかいな病。
タンパク質、カリウム、塩分などの制限があり
食べてはだめと言われると、余計に欲しくなり食べたくなる

人工透析導入前のクレアチニンの数値が高い状態にあり
食事や水分の制限が厳しく、貧血の数値も最悪

人工透析になった方が、食事制限は緩やかになった
透析3時間前に スイカやメロンをたくさん食べ
透析室に向かったこともあった。

人間だけでなく、どの生き物も「食べる」ことは大きく
生命を維持していくことであり生存競争は熾烈である。

口から食べれなくなり
水も飲むことができなくなると
人間は自然のままに死んでゆく
それが普通だった。

鼻腔や胃瘻による管栄養で延命を望むか望まないか
いまは、医師から尋ねられる

胃瘻により生きらえることはできる
胃瘻になっても長生きをして欲しい、と欲する家族もおられる

当の本人は延命処置を欲するか否か
意識があるうちに延命処置についてどうするか
家族に自分の意思表示をしておく必要がある

口から食べる
それは食を味わうことであり
味は食文化でもある。

人間にとって「食べることの意味」を
次回、述べていきたい。










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介護とは ⑩{好きな物を食べたい}

2020-06-17 10:40:56 | 介護の深淵
1568 介護とは ⑩{好きな物を食べたい}

私が初めて角川博志さん(79歳)に会ったのはS病院病室で、そのときの彼はとても痩せておられました。
咳や痰が多くあらわれたことから受診した結果、誤嚥性肺炎であることがわかり、
その年の夏が過ぎた頃に入院となったのです。

彼はそれ以外にも、左腎臓癌のため摘出(片腎)・腎不全・高血圧・C型肝炎・甲状腺機能亢進症・前立腺肥大・脳出血後遺症・胃癌(胃2/3摘出)・逆流性食道炎といったように多くの疾病を抱えていたのです。
全身にわたり筋力低下がみられるため、立つことすら困難な状態にありました。
両手指が反り返り、指の関節は曲がらないため物を持つのにも支障が出ていますが、
右手の親指と人差し指が向かい合い簡単なものをつまむことはでき、
スプーン、フォークを使うことができました。

霜月10日、博志さんは50日余りの入院生活にピリオドを打ち退院となったのでした。
家に帰るに当たり彼の望みは二つあり、
一つは「排泄はトイレでしたい」、他の一つは「飲込みが悪く、むせてしまうので“いま一番食べることが悩み」です。

言語療法士からは、「水分は誤嚥しやすいのでトロミをつけるとよいですよ。美味しいトロミをみつけること、トロミを入れ過ぎないこと、液状のトロミもあり、それならば舌にざらざら感を与えないと思う」
「カロリーメイトやウィンダーゼリーのような補助栄養食品の摂取も大切です」、と助言を頂きました。

しかし、彼は頭のなかでは、トロミをつけることの理由はわかっているのだが、
トロミに抵抗があり最後まで使用しなかった。

博志さんは長女夫婦と同居し、食事は長女が作ってくれていました。
食事制限もあり、その上食べやすい献立となると悩んでしまいます。
或る日の朝食の献立は、「豆腐半丁、スクランブルエッグ、バナナ(1/3)、ロールパン、生ハム、牛乳」が食卓に並べられていました。
その中で“生ハム”に目がいき、飲込みやすい食べ物なのかな、と疑問を抱きましたが
生ハムは彼の大好物の一つであり、好きな食べ物だからこそ、彼はむせながらも食べたのでした。

博志さんは、長年S市で土地家屋調査士として従事してきました。
自分が培ってきた実績や業界人、関連業種などの人の繋がり(つながり)を娘婿に伝えていくことを最後の仕事として決めていました。

むせても「食べる」ことで体力を取り戻し、一日も早く仕事に就かなければと思っていました。
しかし、「痰がからみ、喉がつまっている感じで食物が通らない。
それを水で押し流そうとする、そうすると余計にむせてしまう」のです。
痰がからみゲホゲホし苦しい表情をされ、傍で見ていてもこちらも辛くなりました。
それでも彼は、トロミをつけないで、食感や味覚にこだわり続けることを選んだのでした。

80歳の誕生を迎えた翌日、師走5日の朝、博志さんは39.0℃の高熱、倦怠感、呂律が回らないなどの症状が出はじめ救急車で搬送されS病院再入院となった。
医師より「誤嚥性肺炎、また敗血症もあり重症である。
後は本人の生命力にまかせるしかない」と告げられたのです。


彼はむせながらも好きな生ハムを食べ、1歳にならぬ男孫を膝に抱き、最後の幸せな時間を過ごした。
長女夫婦に見守られるなか静かに眠りにつかれたのでした。


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介護とは ⑨{臥床状態になると、“食べる”ことが楽しみ(その2)}

2020-06-16 07:15:00 | 介護の深淵


1566 介護とは ⑨{臥床状態になると、“食べる”ことが楽しみ(その2)}

~ベッドの背にもたれかかり食べるのではなく、座って食べることにより食欲がでる~

ベッドに仰向けの姿勢で寝ていると、天井と壁の世界しか眼に映らない。
仰向けから「起き上がり」、ベッド柵につかまりながらベッドの端に腰けるような状態で「座る」。
このとき踵は床に着くことで、座位姿勢は容易にとれるようになる(「端座位」という)。
本人の前にテーブルを置くと楽な姿勢で食事が摂れる。



これだけでも、ベッドの背に寄り掛かって食べるよりは、ずっと食べやすくなる。


(生活リハビリテーブルの利用)

人間、誰しも前屈み前屈みの姿勢で食べている。
前屈みの姿勢で食べることで、気道は塞がれ誤嚥性肺炎の予防ができる。



また、座ることで、首を左右に動かすことができ、眼に映る空間は180度拡がり、
外の景色や相手の顔も同じ目線で見える。
テーブルの上に置かれたお膳の料理も見下ろせ、眼で食を楽しむこともできる。
 
端座位による食事が慣れると、次はベッドから車いすに移乗させ、皆が居る食堂まで移動する。
車いすに座ったまま食卓(テーブル)に向かうのではなく、
車いすから両肘付きの椅子に移乗させ、食事をさせることが大切。

ベッドから起こし、両肘椅子に移乗させるまで、余分な手間がかかり面倒である。
時間もかかる、と介護員から不満の声がでてくる。
本来、介護というのは手間がかかるものであり、手間をかけた分、利用者は元気になる。

ベッドから「立ち上がる」「立つ」「屈み座る」の基本動作が繰り返し行われ、
知らず知らずのうちに生活リハビリがなされ、上下肢の筋力が維持また向上にもつながる。

三食とまでいかずとも、せめて昼食、夕食の2回だけでも、両肘付きの椅子に座って食事ができると、
その老人のにとり食欲も湧き、
皆と食事を摂ることで楽しくなり、美味しさも違ってくる。

ベッドから起こし、車いすに乗せ、両肘付きの椅子に再び移乗させる、
といったようにこうした一連の介護を在宅介護に求めるのは、
在宅介護者にとり容易ではないし、続けることはできない。

ケアプランのなかでヘルパー(訪問介護員)が食事介助に入っているのであれば、
最低ベッドから起こし、端座位の姿勢にさせ(踵は床に着く)テーブルを用意することにより、
前屈みの姿勢で食べることができる(前掲の図 生活リハビリテーブル参照)。

デイサービスとヘルパーの支援を上手に組み合わせ1日1回(昼食)、座る機会をつくることができる。
在宅介護者には負担をかけないケアプラン。

人間の行動には目的がある。
ただ、車いすに座らせ,置いておかれるほど退屈で辛いものはない。
食べる、他者と談笑するという目的があるから座る。

※生活リハビリテーブルの画像、カット(図)は、いずれもyahoo画像より引用しました
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介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

2020-06-15 03:29:46 | 介護の深淵
トトロの風景


1565 介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

~人間、最後まで残っている食べる力~

人間は、老いると殊更「食べる」ことが“楽しみ”であり、美味しいな~、と思うとき至福を味わう。

「今日が、あなたの最後の晩餐です」、と告げられたとき、最後にあなたは何を食べたいですか・・・。

小説『レ・ミゼラブル』の主人公 ジャン・バルジャンは、
飢えて死にそうだった妹の子供のためにパンを盗んだ。
その罪のための禁固は5年、そして何度も脱獄を繰り返したためその分追加禁固刑となり、合計19年の囚人生活を送った。
生きるためのパンであった。

介護施設で暮らしている老人やデイサービスに通っている老人は、食べることを楽しみにしている。
人間だけでなく犬や猫も同様、「食事」は楽しみのひと時である。

私たちは、食べる、排せつ、着脱、入浴、歩行などの日常生活行為は、
当たり前にできており、そのことで悩んだりするようなことはない。


脳卒中(脳血管障害後遺症)などを患い手足が思うように動かすことができなくなったとき、
いままで「できていた」日常生活行為が「できなくなり」、
他者(家族)の世話を受けなければならなくなる。

要介護5になると寝返りも困難になり、起き上がりも介助を要し、
日常生活行為も全般にわたり「全介助」の状態だと思い込んでしまう。

要介護5であっても「座ること」ができれば、
世界は大きく変わる
(なぜ世界が大きく変わるのかは、後日書いていきたい)。

要介護5は何もできない寝たきりの人と思い込んでしまう。
排せつも着替えも入浴も移動も全介助にあっても
多くの老人は、「自分の口で食べる」力(能力)を持っている。
老衰が進み、体力、筋力が落ち、ベッドに寄り掛かることもできない状態になったときは、食事は全介助になってしまう。

介護用品の食器や箸、スプーン・フォーク、滑り止めマットなどを使うことで、
不自由な手であっても、自分の手を動かし食べることができる。
その老人にとって、自分で食べれるようになると、食事は楽しみになり生きがいにもつながっていく。

人間、寝たきりになっても自分で口を動かすことができれば、
自分の意思で、自分の口で、食べることができる。
その人にとり最後に残された唯一の生きる力(能力、機能)である。


それを介護者が食事全介助されてしまうと、
その老人は本当に「何にもできない」人になってしまう。
食事は最後の残された「できる」能力であり、その能力を活かしてもらいたい。

日に3回の食事。月にすると90回、1年間では10,950回にもなり、
全介助で食べさせてもらった要介護老人と自分の力で食べた要介護老人とでは
意欲、眼の輝きが違ってくる。

食べさせてもらうのと自分で食べるのとでは食の味や楽しみも格段に違う。
どちらが食べた気がするか、一度誰かに食べさせてもらうとその違いが実感できる。

ひとり要介護老人は、何ができ、何ができない のかを見極め、
過剰な介護は行わず、「できる」ことはやっていただく(特に介護従事者に求められる)。
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介護とは ⑦{人間、生命を維持するための不可欠な欲求とは ~生きるための欲求の出発点~}

2020-06-14 14:17:20 | 介護の深淵
6月の雨 偶然田圃のなかを泳ぐカルガモ親子


1564 介護とは ⑦{人間、生命を維持するための不可欠な欲求とは ~生きるための欲求の出発点~}

介護福祉士実務者研修や介護福祉士養成の専門学校で用いる介護テキストに、
マズローの欲求階層について記述されている。
その欲求階層の最下位層にある生理的欲求は、
欲求のピラミッドにおける土台であり、
いち生物である人間が最初に抱く欲求の出発点である。

具体的には「食欲」「排せつ」「睡眠」の3つの欲求(生理的欲求)は、
生命を維持していくために不可欠な必要最低限の欲求を指す。

この介護施設なら、このサービス付き高齢者住宅なら「入りたい」「入りたくない」という分岐点は、
必要最低限の生理的欲求が満たされているか、いないか にかかっている。
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介護とは ⑥{要介護老人を疎んじる介護 ~誰のための介護か~}

2020-06-14 04:08:57 | 介護の深淵
関東平野とは違い私が棲む東北の農村は山に囲まれている。山の向うは栃木県になる。

1563 介護とは ⑥{要介護老人を疎んじる介護 ~誰のための介護か~

いまは、介護の仕事を希望する人はなく、介護事業所や介護施設は慢性的な人で不足に悩まされている。
数多の仕事があるなかで、あなたはどうして介護の仕事を選んだのか、と尋ねたくなるときがある。

介護保険制度が導入され、民間企業も介護業界に参入し、各地に高齢者施設がつくられてきた。
自分が寝たきり状態や認知症になったとき、「入りたい」と思うような施設は少ない。

94歳の絹婆さんは、サービス付き高齢者住宅に入居されてから、
精彩を欠き人間らしさが失われ、責任を感じている自分。
いまから家に戻ることもできず、
他の介護施設に転居させることもままならない。

サービス付き高齢者住宅から桜デイサービスに週3回通う絹婆さんを訪れ言葉をかけてきた。
介護は、(好きな言葉ではないが)介護される側の考え方ひとつで、
天国か地獄かのどちらかに分かれてしまう。

介護は育児(保育)と同じように“待つ” “見守る”といった姿勢が求められる。
それは、根気や時間、手間がかかる。
時間に追われる介護は、要介護老人の動作を待つのは容易ではない。

杖をつきながら小刻みに歩く絹婆さんに付き添っている時間はない。
手っ取り早く車いすに乗せ、彼女の居室から食堂まで連れて行く。
食堂に着けばいい、という考えだけで、
朝昼夕の3回、歩く機会を奪い車いすに乗せていく。

彼女の足は「虫歯」のようになり立つことや立ち上がることもできなくなってしまうことは、考えてはいない。
車いすの移動の方が介護者にとり、効率的で「楽」である。ただ、それだけの理由である。
歩けるのに、なぜ車いすですか、と尋ねると、転倒し寝たきりになったら・・・、と言い訳の言葉が返ってくる。


絹婆さんは、トイレに行くことも面倒くさがるようになってきた。
高齢者住宅では、ヘルパーは紙パンツの中に尿取りパッドを2枚入れ、
オシッコが滲み込んだ尿取りパッドの抜き取りを行っている。
2枚のパッドを抜き取ったあとは、紙パンツだけになる。

ヘルパーは翌朝、紙パンツ尿失禁で濡れても交換するわけでもなく、
その上に尿取りパッドを乗せ、デイサービスの送り出しをする。


利尿剤を服用されているのに、1日の水分は600ccしか飲んでいない。
水分が過度に不足したままデイサービスに来るので、
体も頭も働きが悪く、ぼ~とした表情で反応も動作も鈍い。

サービス付き高齢者住宅の管理者に電話を入れ、水分はどのくらい摂られているのか尋ねると、
「600ccは飲んでいますよ」と何の疑問を持たずに答える管理者。

「利尿剤も服用されており、少なくとも1,000cc~1,500ccは摂取されないと、
脱水症状になり救急搬送するようなことにもなりますよ」、と電話をとおし、十分な水分をお願いした。


介護を受ける側にある要介護老人は弱い立場にあり、
認知症老人は「嫌だ」と反発することもできない。

介護は手間がかかるサービスなのです。
排せつの介助も手間がかかる。
それを介護者が「面倒くさがり」「嫌がり」、
抜き取りパッドや汚れた紙パンツの上にパッドを乗せるような「介護」は許せるものではない。

誰のための介護をしているのか、と思うと、自分までが情けなくなってしまう。
心無い「介護」は、老人の生きる力(人間性)を奪い、死を早めていく。
そして、介護者は、自分の心が痩せ荒んでいくことさえも気がつかぬままにいるのも、
また心傷む。
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