老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

介護とは ➄ {介護サービスは利用者の自立をめざす}

2020-06-13 03:27:08 | 介護の深淵
枯れ枝とドクダミ

1562 介護とは ➄ {介護サービスは利用者の自立をめざす

介護はサービスであるから、
痒い所に手が届くようなサービスや
「やさしく」してあげるような介護を行っていけばよいのであろうか。

脳梗塞後遺症により左半身麻痺があるため、
老人は、ひとりで介護用ベッドに上がることができないでいる。

太郎介護員は、車いすから抱き起し、抱えながら介護ベッドに乗り移した(移乗介助)。
花子介護員は、老人に介護ベッドに取り付けてあった移動バー(介助バー)につかまり、
自分で立ち上がるよう言葉をかけ、立たせた。
老人は軸足を使い、自分の座る位置を目で確認し、ベッドに座った。
老人は自分でも足を上げるよう動作を行い、
花子さんの介助を受けベッドに寝ることができた。

「すべてやってあげる」介護は「やさしい」ように見えるかもしれないが、
それは老人をダメにし、寝たきり老人にさせてしまう。

花子さんは、この利用者は「手すりにつかまれば立てる」
「軸足を使えば立位からベッドに座ることができる」というように、
利用者ができることはやっていただき、
「できない」ところだけ介助(介護サービス)を行うことで、
利用者のできる力を維持させていく。

齢を重ね老人になり、思わぬ転倒や脳卒中に遭遇し、
骨折や麻痺により手足が不自由になると、
他人の手を借りなければ生活していくことができなくなる。

人は、手足は不自由になっても、自分で「用を足したい」「風呂に入りたい」と思う。
その思いを少しでも近づけるためには、
どのような支援(介護サービス)を行っていけばよいのか、
介護員は考えなければならない。

利用者(老人)個々の病状(症状)、心理(気持ち,性格)、
基本動作(寝る、起き上がり、座る、立ち上がり、立つ、歩く)は違い、
「できる」ことと「できない」ことの把握も必要になってくる。

ひとりの利用者は、何が「したい」、何が「できるようになりたい」のか、
介護者はその欲求をつかんでいるのかどうか。
ホテルマンのように痒い所に手が届くようなサービスをしてしまっては、
利用者が欲しているようなことは叶えることは難しくなる。

介護とは、介護者は利用者の自立をめざすサービスが求められ問われてくる。
自立とは何か(それは後日述べていきたい)。


介護とは ④{介護サービスとは}

2020-06-12 17:10:17 | 介護の深淵
1561 介護とは ④ {介護サービスとは

寝たきり老人、認知症老人など介護を必要とする老人が増加し、
社会的な介護が求められ、2000(平成12)年に介護保険制度がスタートした。
介護は社会保険の一つとして位置づけられ、
利用者は介護サービスの種類や介護事業所・介護施設を選び利用できるようになった。

介護保険料を納め、利用するときには介護保険自己負担額(1割から3割)を支払い、
介護サービスを利用する(介護サービスを買う)。
介護サービスの内容が悪く、納得できないときは、
利用者その家族は市町村介護保険担当や管轄の地域包括支援センターに苦情を申し出ることもできる。

ホテルはお客様をおもてなし、このホテルを利用してよかった、
と満足していただくサービスを目指している。
痒い所に手が届くようなサービスを行う。

介護もホテルと同じくサービス業であり、
利用者はお客様として捉えていく。

麻痺や痺れ、筋力の低下等により排せつや入浴のとき
下着・ズボンの上げ下ろしが思うようにできないときなど、
手を差し伸べ介助をさせて頂く気持ちで介護サービスを行う。

「おむつを取り換えてあげる」「お風呂に入れてあげる」といったような「してあげる」といったような介護では、
介護は「サービス」である、という考えは存在しない。

介護に限らず、自分が相手(お客様)に対して行ったサービスが、
相手は満足しているかどうか、
相手の表情や言動から推し量り満足度を評価していくことが大切になってくる。

介護の現場では、
「今日はお風呂20人入れた」
「おむつ交換はいつもより早く終わることができた」などと介護職員の満足した言葉が聞かれる。
利用者は、ゆっくりとお風呂に浸かり満足できただろうか、
と自分の行ったサービスがこれでよかったのかどうか
見つめなおすことが大切。

サービスの主体者は誰なのか、
それはホテルにおいてもデイサービスやショートステイにおいても同じである。
サービスの主体者はお客様(利用者)にある。
介護は「サービスである」という考えを
介護業界のなかに浸透させていくことが求められている。

介護とは ③ サービスとは

2020-06-12 05:09:03 | 介護の深淵
beagle genkiと散歩のとき出あった黄色花

1560 介護とは ③ {サービスとは}

「これサービスしとくよ」「これおまけするよ」と店員さんから言われると、
サービスは「ただ」というイメージがし、何か得をしたような気持ちになる。
お客様が、金を払って商品を買ってくれると、
店員さんは「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。

店員さんは店の片隅からお客様を観察している。
このお客様は靴を買うのか、買わないのか、迷っているのか、
キャッチしながら何気なくお客様に近づき言葉をかける。

この靴ならば身長を高く見せられるし、脚を細く見せることができる。
この靴が「欲しい(ウォンツ、wants)」と思ってはみたが、
自宅の下駄箱には、履ける靴が3足あり、買うかどうか迷っている。

そこへ店員さんが何気なく近づき、
「いま着られている可愛い服によく似合っていますよ」
「どうぞ試し履きをなさってみてください」と言葉をかけられた。
「すごく素敵です」、と褒め言葉が続き、店員さんの言葉に乗せられ
つい「靴」を買ってしまった。

靴は下駄箱に3足もあるのだが、
この靴が「欲しい」という気持ちを、
お客様が財布の紐を緩めるかどうかは、
店員さんの観察力、壺を得た言葉かけが大きい。
 
十年前に読んだ本なので、書名、著者も忘れてしまったが、その本のなかにこんなことが書かれてあった。

夕食時になるとホテルのレストランで食事を摂っている白髪の男性老人がいた。
今夜も食事をされるとき、
ハガキサイズよりやや小さめの額に収められた妻の写真を左手に持ち、呟くような言葉で話しかけていた。
その様子を見ていた若い男性のホテルマンは「よろしければこの立をご利用ください」、と白髪の男性に手渡した。
男性は妻の写真を立てに置いたことで、左手も使えるようになりリラックスした気持ちで食事が摂れ、
ホテルマンのちょっとした気遣い(心配り)に感激、感謝されていた。

このように痒い所に手が届くようなホテルマンのサービスこそがもてなしであり、
お客様にまたこのホテルに泊まりたくなるような気持ちにさせる。




介護とは ② 

2020-06-11 05:21:18 | 介護の深淵
1558 介護とは ②

介護は、介護保険においても
「在宅介護(居宅介護)」と「施設介護」の2つがある。

ここでは、在宅介護を日々行っている家族の介護についてではなく
介護事業者や施設介護に従事されている介護職員や看護職員のケアの実態から
「介護とは何か」を考えていきたい。

在宅介護と介護事業者(デイサービス、ショートステイ、訪問介護等)・施設介護の大きな違いは
介護報酬の有無である。

在宅介護者は、無給・無休であり「家族の絆」の言葉で日々介護がなされている。
介護従事者・施設介護は、労働対価(賃金)が「高い」「安い」は関係なく
安い賃金であっても介護報酬を得ていること自体、介護のプロ(専門職)として見られるのである。
介護1年目の新人であっても、介護10年目のベテランであっても
利用者(要介護老人)に対して、質が確保された同じサービスを提供されなければならない。
しかし、介護福祉士の国家資格を取得されても、社会的評価はまだまだ低い。

介護報酬に見合ったサービス提供がなされているかどうか。

それは、介護のプロとして、質の高いサービスが提供されているかどうか、を意味し
マズローの欲求階層をとおし、「介護とは」、を考えていきたい。





(人間にとり)介護とは ①

2020-06-10 20:44:42 | 介護の深淵
111歳の誕生日を迎え、明治・大正・昭和・平成・令和を生き抜き逝かれた安達サタさん



1557 (人間にとり)介護とは  ①

{介護の深淵}のなかで「生理的欲求と介護」を6回ブログに掲載してきた。
その内容と一部重複するけれども
『人間にとり、介護とは』を
ケアマネジャーの立場からではなく、
人間の視点から捉えなおしていかねば、と思った。

なぜ、そう思ったのか。
最近、あるサービス付き高齢者住宅に
入居を勧めたまでは良かったが、
入居した老人は無残にも変わり果てていった。
生きる屍となり表情が乏しくなってきたことに
心傷め、悶々としている。

初心(原点)に帰り、介護とは何か、を考えていきたい。
介護の本質をどこまで書けるか、不安であるけれども
ブログを訪問して下さる皆様のコメント(ご感想やご意見)などに
教えられながら、一緒に考えていくことができれば、と思っている。

介護とは、「人間回復の営み」である、と思ってきた自分。





1451;親愛なる子どもたちへ

2020-03-13 06:23:17 | 介護の深淵


親愛なる子どもたちへ
手紙 ~親愛なる子供たちへ~ の詩を読み、聴いたとき 亡き母を想い浮かべた。

私もいつの間にか、老いびとになった。
樹木の葉が、枯れ朽ちてゆくように、私も枯れ死んでいく。

この詩は、老親から我が子へあてた”いのちの手紙”でもある。

長生きの時代になった。
齢を嵩ね嵩ね 老いに向き合い、生きて逝く老いびとたち。
いままで「できていた」ことが「できなくなってきた」老親の姿。

大きくなった”子ども”たちから
「どうしたのよ」「こんなこともできないなんて、しっかりしてよ」、
と言われようになった私。
年老いた私が ある日 今までの私と 違っていたとしても
どうかそのままの 私のことを 理解して欲しい

服の上やテーブルの下に食べ物をこぼしても
同じ話を何度も何度も 繰り返しても
思わずオシッコを漏らしても
むせり飲み込むことができなくても
足も衰えひとりで立ち上がることができなくても

何もできなくなった老親の姿をみて、悲嘆しないで欲しい。
記憶も言葉も失い、身体が衰えても
何かが失われたわけではない。
わたしは「私」であることに変わりはない。

目の前にいる老いびと
やすらかに棺のなかで眠る老いびと
人、それぞれに人生があり
その時代を懸命に生きて来られた。

老人と幼子
あなたの人生の始まりに 私がしっかりと 付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

親から子へ
子から老親への
いのちを引き継ぐ
死に向かう親を 少しだけ付き添って欲しい、とささやかな老親の願う”いのちの詩”


手紙 ~親愛なる子供たちへ~
【作詞】不詳
【訳詞】角 智織
【日本語補詞】樋口 了一
【作曲】樋口 了一

年老いた私が ある日 今までの私と 違っていたとしても
どうかそのままの 私のことを 理解して欲しい
私が服の上に 食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを 教えたように 見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も 繰り返しても
その結末を どうかさえぎらずに うなずいて欲しい
あなたにせかまれて 繰り返し読んだ絵本の あたたかな結末は
いつも同じでも 私の心を 平和にしてくれた

悲しいことではないんだ 消えて去って行くように 見える私の心へと
励ましの まなざしを 向けてほしい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを いやがることきには 思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたと お風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ 出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら 出来なくなったなら
あなたが か弱い足で 立ち上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの 手を握らせて欲しい

私の姿を見て 悲しんだり 自分が無力だと 思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力が ないのを知るのは つらい事だけど
私を理解して支えてくれる心だけを 持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで 私には勇気が わいてくるのです
あなたの人生の始まりに 私がしっかりと 付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで 私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変らぬ愛を 持って笑顔で答えたい

私の子供たちへ
愛する子供たちへ

1361;その手を使う

2020-01-17 04:43:06 | 介護の深淵
春を待つ南湖桜

その手を使う

手を使うことで、ヒトは人になった

哺乳類動物のなかで
人間が秀でた理由(わけ)は、
直立歩行をしたことによる。

直立歩行したことで、両手が自由に使うことができ
ものを作りだしてきた。

ひ弱な人間は、
石と棒(木)を拾い、それを紐で縛り
金槌や槍のような物を作り
最初はそのような物を使い狩猟をしてきた。

弓を作ったことで槍の威力は更に増してきた。
また獣を肉を貯蔵保存する一つとして土器も作ってきた。

人間は手を使ってきたことで
脳細胞(頭)の働きもよくなり、賢くなってきた。


麻痺した手の指を動かしてみる

脳卒中により手足が不自由になり
手が思うように動かなくなってきたとき
人は家族や介護者に依存的になってしまいがちになる。

退院のとき左手の指は、グチョキパーの「グ」の状態にあった。
右手の指を使い、左手の指を伸ばしたりして拘縮しないよう自分で指のリハビリができる。
麻痺した指を屈伸することは痛みを伴う。
本人が「痛がる」と、家族、介護者は可哀そうになり、麻痺側の指の運動はやめてしまう。


使いないものはますます退化し縮む

麻痺側の左手の指は、拘縮が増し指は握りしめた状態になる。
使わない手は物に触れないから「きれいな手」だと思ってしまう。
手は使わなくても、拘縮した手指の内側は汗や空気により湿気を伴い汚れている。
そのままにしておくと手指の内側は赤くミミズ腫れとなり、嗅ぐと嫌な臭いがする。
ますます痛くなり、手指を洗うことさえも抵抗し嫌がる。

だからこそ麻痺した手指の何気ない運動(リハビリ)が大切になってくる。

麻痺した手指は細かい動作ができなくても、
麻痺した手指を使い食器を動かないよう抑えることができるようになると
食器は動かなくなり右の手指は、楽に食事をすることができる。

物が動かないように左手指で押さえることができる、と
自分で「できる」ことも増えてくる。

麻痺した手指でも訓練してみる
「その手を使ってみる」



1116;あなたの気持ち

2019-05-20 04:32:27 | 介護の深淵
beagle元気は 風の匂いを嗅ぎながら何を思う

あなたの気持ち

デカルトの有名な言葉に
我思う、故に我在りがある。

人間は考える動物(思考する動物)であり
その思考をしている自分という人間は存在している

自分が死んだら思考も感情も存在しなくなる
だから、生きていること自体
自分がいま、存在している
自分は なぜ、ここに存在しているのか

しかし、その存在は無限ではない

風の匂いを嗅ぐbeagle元気の姿を見て 我思う
beagle元気は何を思っているか
犬が一番思うこと 
人間の玩具として扱われたくない
犬も同じ家族の「ひとり」
犬だって感情も気持ちもある

beagle元気の寝姿を見ていると
安心しきり無防備に寝ている
“悩みがあるのかな”とつい思ってしまう
自分もぐっすりと眠りたいものだ、と

要介護老人の気持ちを
推しはかり どこまでわかっているのか

自分の存在以上に
相手(老人)の存在を思い
様々な感情や思い(想い)を
つまり、老人の気持ちをわかろうとしているのか
介護サービスをプランに乗せるだけがケアマネジャーの仕事ではない

その気持ちを受け留めているのか否か
自分の存在が問われてくる

唯一無二の存在であるだけに
人間は他者に代わることはできない
それだけにあなたの気持ちを理解していくには
何が大切なのか・・・・



 

1112;臨  床

2019-05-17 16:24:37 | 介護の深淵
ブロック塀に這うように咲いた青い花、無知な私は花の名前がわからない 

床に臨む
ブログ36 臨床 (再掲 一部書き直し)

砂時計から落下する砂を見ていると
流れ往く時間に映る。
落ち往く砂は早く
残された砂は少なくなってきた。

老人にとっても 
わたしとっても 
残された星の砂は
大切な時間である。

老人の顔に深く刻みこまれた皺、
節くれだった手指から、
わたしはなにを感じながら 
なにを話すのでしょうか。

病院のなかで“臨床経験”という言葉をよく耳にする。
読んで字の如く「床に臨む」となり
「床」つまりベッドに寝ている人は患者=病人であり
「臨む人」は医師や看護師である。
直訳すると ベッドで痛み苦しみを抱きながら病魔と闘っている患者に対し、向き合っている医師、看護師は 何を為さねばならないのか。

介護の世界においても同じである。

ベッドは畳(たたみ)一畳の限られた時空間のなかで、
寝たきり老人は生活している。
ベッドに臥床(がしょう)している老人と目の前にしたとき、
わたしは、どんな言葉をかけていくのだろうか。

十年間寝たきりのある老人がいた。
長い間家族から離れ そして友人が住む地域から離れ じっと耐え 生きてきた十年間。
明日のことよりも 今日を精一杯生きていくことだけを考え、
今日まで生かされてきた。

残り少なくなってきたあなたの時間
わたしの時間を あなたにプレゼントする思いで
ゆっくりと流れる時間のなかで 
あなたの傍に居たい


1101;歩けなくなっても、まだまだ「できる」ことはある

2019-05-11 04:45:03 | 介護の深淵
 
大きな水鏡に映る森の上のホテル いつか行ってみたい森の上
 

歩けなくなっても、まだまだ「できる」ことはある
          (“続” ~してもらうばかりでは申し訳ない)

脳血管障害後遺症などにより
人間歩けなくなったことはショックであり、絶望に陥ったこともあった。

歩けなくなっても、まだまだ「できる」ことはある。
それは、椅子や介護用ベッドから
「立ち上がる(“つかまり立ち上がる”でもよい)」「立つ(“つかまり立ち”でもよい)」ことができれば、
独りで洋式便器で用足し(排せつ)ができる。
そうなると大きな自信となり、車いす用のトイレがあるところなら外出や外泊も夢ではない。

尿意があってもなくても、洋式便器に「坐ることができれば」、排せつができる。
障がいのない人は、誰もが「坐って排せつをしている」。
障がいのない人にとっては、坐って排せつをする。
それは、当たり前のことであり、それが如何に大切なことであることには気づいていない。

介護というのは、難しい事を支援するのではなく、
当たり前の生活ができるために、どう支援していくか。
支援していくときに、相手(要介護老人や障がい者)がどこまででき、どこができないのか、を知っていくことが
介護の大きなポイントである。

すべてをしてあげることは、優しさでもないし、かえってそれは相手の自立を損なうだけしかない。

最初、手すりにつかまって膝が折れたりしてなかなか立てなかったり、つかまり立ちも2,3秒がやっとの状態だった人が、
1週間、2週間、3週間、4週間・・・・というように時間の経過とともに
介護者の手を借りながらも、自分独りで「できる」ようになる。
90歳を越えた婆さんでも寝たきり(要介護5)から杖歩行ができる(要介護2)までになり、見守りでトイレで用を足せるようになった。

みなさん 日中用足しのためにトイレに何回行かれますか。
個人差はあるが4~6回は少なくとも行かれるでしょう(仮に日中5回としましょう)
1月で5回×30日=150回、つまり150回のつかまり立ちや立つの動作が
洋式便器に坐ったり、立ち上がったりの行為を行う。これほど素晴らしいリハビリはない。

最初、手すりにつかまって膝が折れたりしてなかなか立てなかった。
はじめてトイレにいったとき、介護者は10~9の力で介助(本人は0~1の力)だったけれど
日毎に本人の立ちあがる力、5~6になった。介護者の人は半分の力で介助ですむようになった。
そうなったとき介護者は、相手を誉めることが大切。

「爺さん(婆さん)や、足や手の力がつき、自分でつかまり立ちができるようになったから、
私たちも助かっているよ、介護がしやすくなり助かっているよ。ありがとう」などと話しかけていく。

最後には見守りだけで立ち上がりができるようになっていく。

立つ力も同じ。どの位自分の力で立てるか。
何秒立てるかで、ズボンや紙パンツの上げ下ろしの介助量も違って来る。

やってあげることは簡単だし、時間もかからずにすむ。
介護は子育て(保育)に似ているところがある。
それは相手がしようとしている基本動作を“待つ”ことにある。
待てそうで待てないのが人間の心理

ここで あみんの《まつわ》を 視聴しますか
“待つ”意味が違いますが・・・・“わたし 待つわ いつまでも まつわ”
あなたがやり終えるまで 待つわ



半身麻痺や両手、両足の筋力が低下し、立ち上がりも立つこともできない。
ということで紙おむつを当てられる。
尿意が失われ、紙おむつに垂れ流し(尿失禁)の状態になっていく。
老人の場合はそうされやすいし、病院入院したとき最悪の場合はバルンカテーテル留置されてしまう。
尿意があるのにもかかわらず。


そのようなとりくみができるのは定員10名の小規模デイサービスに多い。

しかし、在宅では老々介護にあるなか
ベッドから車いすに乗せ、トイレまで連れて洋式便器に坐らせるのは大変、
しかも毎日であり、それもいつまで続くことかわからない。
どうしたらよいか悩んでしまう・・・・。




1099;~してもらうばかりでは申し訳ない

2019-05-10 02:15:30 | 介護の深淵
~してもらうばかりでは申し訳ない

お隣さんの家は、あちこち出かけられ、お土産を頂く。
いまは道の駅も増え、その土地の名産品などを増えてきた。
めずらしい物を頂くと、
「ありがとうございます」「いつももらうばかりで悪いですね」、と言葉を返す。

お隣さんからお土産を頂いているばかりいると
流石に気が引けてしまう。
するとお返しという気持ちになり
自分もちょいと旅に出たとき、お隣さんにお土産を買って帰る。

近所や親戚のつきあいは、「頂いたり」「返したり」の関係にある。
どちらかが一方的な関係にはない。
“お互い様”の関係にある。

介護も同じである。

老い齢を重ねていくと
昨日まで「できていた」ことが、今日は「できなくなる」。
そうすると他者の手を借りなければならなくなる。

トイレに行くのもままならず、手引き歩行の世話になる。
申し訳ないからという気持ちから、独り(単独)で行こうとするも、
ふらつき、運不運の差で
運よく転ばなかったり、不運にも転んだりしてしまう。
幸い骨折がないときは、ホッと胸をなでおろす。

転んだらそれこそ大腿骨骨折し寝たきりになり、誰かの手を借りることが増え、
「申し訳ない」の気持ちが増幅してくる。
だからだから、独りでトイレに行かないで、と何度もお願いするのだが、
“~してもらうばかりで申し訳ない”という老人の気持ちが見え隠れする。

介護者は介助を行うとき、
老人の気持ちを推し量ることが大切。
少しでも自分で「できる」ことがあれば、やっていただく。
またやって頂くよう話しかけていく。
そして不十分であっても(完璧でなくても)「できた」(やってもらった)ときは、相手を褒める。


例えば、トイレのなかでの介助のとき、
老人が「できる」こと、「できない」ことを見分ける力と手のかけかた(介助の度合い)について
1101ブログで書いていきたい。

1039 ; 虐待

2019-04-04 08:08:40 | 介護の深淵
2019年4月4日付け読売新聞 介護者が虐待を報道する

虐待

老人虐待
児童虐待

感情がコントロールできず
老人、子どもを虐待する
憤りを感じる

老人や子どもに虐待した行為を
そのまま虐待者に対し
同じ行為を仕返し〝報復〟をしたくなる

介護職が老人虐待するのは
本当に許せない行為

虐待が起きる背景は 諸々ある
介護職員が不足し
介護職のなり手がいない
汚くきつく安い、と言われている
介護福祉専門学校介護福祉科の定員割れもある

同じ人間関係を対象とする
医療職や教育職に比べ
介護職は専門職としての位置付けは低く
給与も低く魅力がない

介護保険制度の枠組みのなかで
介護職員の給与をアップするとなると
介護給付費をアップせねばならない
そうすると
介護保険料にはね返り
被保険者の負担が増大する

国の財政のあり方から
問い直す必要がある
アメリカ🇺🇸から役に立たない兵器を買わされた日本🇯🇵
軍事費は膨れに膨れている

大砲かバターか
いまは国会や新聞などで論議されなくなった

オムツ交換、お風呂入れ、食事介助などの介護は
女性ならば誰でもできるお世話である、と見られている

介護虐待は
老人介護の世界に起きた問題ではない
病んでいる社会から起きている








879;「介護思想」(12) 病院は病気を治すところ?

2018-08-10 17:08:52 | 介護の深淵
病院は病気を治すところ?

介護の世界に身を置いてきて
時々考えさせられることがある。
それは
(要介護)老人が病院に入院し、
完治し退院されるとき
お土産として褥瘡(じょくそう、床ずれ)ができたり
歩けなくなったり
或は全粥、キザミ食であったりなど
入院前の状態よりレベルが低下した状態にある。

病院は「資格」社会
医師や看護師の免許(資格)がないと
医療行為や看護行為ができない。
医療の専門職が集まった病院で、
褥瘡ができてしまう。
「褥瘡は看護の恥」と看護教育で教えられながらも
褥瘡はなくならない。
人手不足から看護が手薄となり褥瘡はできるのか・・・・

小さな「さくらデイサービス(利用定員10名の小規模事業所)」で
働きたがる看護師は少ない
いまは介護職員と生活相談員、非常勤のあん摩マッサージ指圧師の配置で行っている。
病院からみたら素人の集まりにすぎない小さなデイサービスで
病院で作った褥瘡を治す。
要介護5で寝たきりであった老人は、歩けるようになりいまは要介護2のレベルまでになった。
全粥から軟飯、普通食に食内容を変えると、老人は意欲が増し元気になる。

病院は病気を治すことはでき、退院することはできたが、
生きる力が萎えたまま家に帰されること、
当の老人や家族介護者にとって、それは大変な事態になる。



877;「介護思想」(11) 食べられるときに好きな物を食べる

2018-08-10 04:35:46 | 介護の深淵
食べられるときに好きな物を食べる

年齢に関係なく
人間は食べるときというのは
至福の瞬間連続なのだと思う。

いまも元気に生きている109才のお婆ちゃんは、
(介護相談・介護計画作成を担当させて頂いている利用者のなかで最高齢)
「腹八分ではなく、腹七分」
「美味しい物、好きな物だからと言って、腹いっぱい食べない。腹七分」
という。

子どもでも老人でも
年齢に関係なく
食べ物に飢えた状態に置かれると
食を味わうといよりは
貪り食べるといった様になる。
食の飢えは、家族愛の飢えも孕んでいる。

これからお盆を迎える
仏壇やお墓に
故人の好きだった食べ物
お供え物としてあげられる。
故人を偲ぶ意味で
お供え物を上げること、
それはそれでいいのだが、
私ならば
老い病を抱え
余命幾ばくもない、と宣告されたら、
食べられる力があるときに
本人の好きな物を食べさせたり飲ませたりしてあげたい。
死んだらお終い。
何も食べられないし飲むことができない。
最後に
食べたいもの
好きな物を食べて
死ぬ。
人間にとり
最後の晩餐をどう迎えるか
大切なことなのかもしれない。

本人にとり
家族にとり
介護者にとり
お互いに
いまの食事が
最後の晩餐なのだと思い
一緒に食していきたい・・・・。

843;「介護思想」(10)十二単

2018-07-26 03:39:58 | 介護の深淵

十二単

自分は
「普通」あるいは「正常」と思っていると
認知症老人がとる行動は不可解に見える
しかし
認知症であろうがなかろうが
そんなことは関係なく
人間の行動には目的や意味がある
認知症老人の立場で考えると
不可解な行動もわかってくる

79歳の海老澤婆様は
2年前ほどからアルツハイマー型認知症になり
いまは、ご飯を作ることも後片付けも忘れてしまった
この暑い夏にもかかわらず
重ね着をする。
パンツは5枚
パンツを穿くごとに「落とし紙」を入れる
上衣は5、6枚
ズボンも5枚
十二単の如く重ね着をして
デイサービスの車を楽しみに待っている
皮膚が呼吸できないのでは、と思うが
この糞暑いときに
十二単の如く重ね着を行い
平然としていられるのか
その行動の意味がまだ解けていない