老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

桜は生きる

2023-04-11 08:30:40 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1932 桜と生きる






BS1 沁みる夜汽車 、という10分番組がある
「桜と生きる」が放映された
松浦鉄道浦ノ崎駅のプラットホームは桜の名所で知られている
その桜の木々は病気になり枯れてしまい花は咲かなかくなった

井手一雄(69歳)さんは、 49歳のとき胃癌がわかり、胃を全摘出した
別の病気が併発し長年勤務した仕事を辞めざるを得なかった
52歳のとき、妻の実家に移り住んだ
「どう生きていけばいいか、わからなくなってきた」
「何も出来ないもどかしさ」「自分のふがいなさ」に悶々としていた。

ある日、妻は一ボソリと呟いた。
「(浦ノ崎駅の)桜が咲かないと寂しいわね」
何もしなければ枯れていくだけ。
でも、手当てをすれば、きっと花が咲く。
「共に病気をかかっているもの同士」
桜と自分が重なった



桜を見て、今年も桜に出会えた
桜を見て癒されて
長生き出来ているんじゃないかな





井手夫婦は桜のトンネルをくぐり抜ける電車を見送る

春ナノニ雪ガ降ッテイル

2023-04-09 08:31:30 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1931 春ナノニ雪ガ降ッテイル

夜中にwifeが目を覚まし「寒い」と言った
「電気シーツスイッチ入れたら」と寝ぼけ声で話した自分

5時に目を覚まし大きな窓のカーテンを少しあけたら雪景色だった
齢拾になったbeagle元気と寒い空気のなか散歩に出かける



家を出た先の縁石の脇に雪衣をまとった「白い花」(雪が積もり白い花に映った)



南陸奥に住んでいる団地の桜並木は雪化粧
水仙は雪が積もり首を垂れ、話しかけると「雪が冷たく重い」と話しているようだ



いつも通り路の阿武隈川岸辺は雪で覆われ、春だったので碧い草が見え隠れしている



一度は枯れ木になりかけた枝に桜が咲いていた
これから咲く小さな桜の花にも出会えた
元気も桜を眺めている





春ナノニ雪ガ降ル
春カラ冬ヘ季節ハ戻ルコトハナイ


昨日wifeと珈琲を飲みながらくつろいだ
ホッと紅茶を頼んだら
上から下に「落ちる」砂時計を生まれて初めてだった
子ども心に帰り楽しくなり、砂時計をひっくり返し
上に「落ちる」青い砂を楽しんだ

時間も上に「上り」過去に帰れることができたら、と思う





空蝉

2023-04-08 18:29:03 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1930 空蝉



         ほとんど人も車も通らない死んだような路の両脇に桜並木がある 

空蝉

梅雨が明けると
蝉は鳴き始める
地上に生きている時間は儚く短い
それでも蝉は生きていると
力の限り鳴き叫ぶ
蝉を見倣い
私も今日力の限り生きてみようか
蝉の抜け殻のまま
蝉は帰って来ない
私には帰る家がある

空蝉は、蝉の抜け殻を指す言葉だけれども、
自分の心も同様に抜け殻の如くあり、生きる屍の態にある。
暑い夏、木々のなかで、蝉たちは鳴いている。
いままで自分は、蝉の鳴き声は喧騒であり心苛つかせ、余計に暑さを感じていた。

寝たきり拾年と言われ、畳一畳より幾分広い介護用ベッドの上で
寝たきり老人は幾日も昼夜を過ごしてきた。
その老人は自力で寝返りすることもできず、
四肢は拘縮したまま、ジッと天井を見つめたまま、
窓の外にある四季の移ろいさえ感ずることさえなかった。
それでも老人は静かに力の限り生き続けてきた。

空蝉は、脱皮した蝉の抜け殻であり、
これから生きている時間は儚く短いけれども、
「蝉は生きている」、と力の限り泣き叫ぶ。

季節外れのブログになってしまった。
桜の花が散りゆく風景は
無常なのか、それとも来春への希望なのか

最近、人工透析治療を受けている女性に出会った
ことしの春で98の齢を重ねた
腰椎圧迫骨折で半年余り入院され要介護4の認定を受けた
負けじと介護用ベッドから自力で起き上がり、立ち上がり、立ち、歩こうとした
凄いぞ 婆さん



自分は最近左膝 半月板損傷と診断された
保存療法を選択
今日4月8日はお釈迦様の誕生日
我が家の愛犬 beagle元気も同じ4月8日 10の齢を重ねた



義父35日

2023-04-03 05:00:57 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1928 義父35日


過ぎてしまった時間(こと)は早い
今日は義父の35日
腰痛圧迫骨折が引き金となり寝たきりになった
最後は自宅で妻嬢二人に囲まれ
息を引き取る数分まで言葉を交わしていた

居た人が居なくなる
傍にいない
仏壇に置いてある遺影に話しかけることしかない

老いにある自分にとり
喪失は辛くわが身を重ねてしまう

老いの迎え方
老いの感じ方
老いの生き方
死に方
ふと、思ってしまった


寒い朝

2023-01-04 21:23:14 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1924 夜明け前から早朝散歩



道路の右端は阿武隈川が流れている

東北の冬空は日によっては、鉛色のような重たい空が目に映る
そんなときは憂鬱な朝に感じてしまう

雪で覆われた散歩路を歩くのは気持ちがいい
振り返ると酔っ払いが歩いたような蛇行の足跡
人生の足跡も雪路のようにはっきりとしていたらいいのだけれど

白髪一路の如く
一つの路を最後まで貫き通すことは偉大である
自分自身 人生の足跡はあったりなかったりの感じ

最後だけでもしっかりと雪を踏みつけ歩きたい

beagle元気に連れられ、雨の日以外は朝夕 散歩をと決めている
朝夕で8000歩を歩くのは大変
達成したりしなかったりの繰り返し

杖をつきながらでもよいから
一日も長く歩き続けたいものだ

死ぬまで歩く 97才の婆さん [2]

2023-01-03 12:47:46 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1923 半人前。



(2)
幼児のオムツが外れると、幼児の行動が束縛されず自由になる。
それは、同時に母親もオムツの世話がなくなり、自由な時間が増えてくる。
子どもの成長により身体の世話が解放される。

それに対し老人は様々な理由から歩くなくなると、紙オムツになってしまう。
介護のかかわり方、介護の仕方によって、老人のオムツを外す可能性がある。

老人は「オムツをするくらいなら死んだ方がましだ」、という言葉を耳にする。
なかにはオムツにされたことで、生きる意欲をなくし、いつの間にか眼は虚ろになり
ベッド上で死を待つだけの時間になってしまう。

何故、オムツにされた老人は生きる希望をなくすのか。
それは、オムツをしている赤ん坊(幼児)と同じになった自分、
他人の世話を受けなければ、排泄の処理ができなくなった自分は
「半人前」の大人だと思ってしまうのかもしれない。




死ぬまで歩く 97才の婆さん [1]

2023-01-02 11:03:32 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1922 小さな「大人」



(1)
哺乳類動物の大半は前足と後ろ足を使い歩く。
人間は「直立歩行」が出来たことで、「前足」は「手」となり自由になった。
手は石を掴み、石に棒をつけることで、金槌の機能を果たし武器にもなった。
手はさまざまな道具を作りだし、労働を行うことで「ヒト」から「人」へと成長した。

人間にとり「歩く」「歩ける」ことは、大きな自由(解放)をもたらした。
オギャーと産声をあげた赤ん坊は、首が座り、寝返りができるようになると、
頭を上げ、周囲(まわり)を見渡すようになると、赤ん坊にとり世界観は大きく変わる。

目の前にある物に興味を抱き、這い這いを始める。
這い這いは高這いに変わり、高這いから椅子の座面に両手をつき、「立ち上がり」をする。
立ち上がりから「立ち(立位保持)」、自由になった両手で手を叩きながら満面の笑顔になる。
月面に降り立ち上がったアメリカの宇宙飛行士と同じ位、
幼児の立ち上がり立位したことは、その人の人生上における偉大な行動を意味する。

立つ行動を繰り返すなかで、第一歩を踏み出し歩けた時には、両親は大喜び、歓喜の聲に包まれ、
生まれた時と同じく忘れられない記念日となる。
歩けるようになると、行きたいところに行ける。
行動は拡大され、見知らぬ世界に遭遇する。

歩ける、と次にはオムツが外れ、パンツになる。
トイレに向かって歩き、洋式便器でオシッコができるようになる。
まだ、見守りやズボン、パンツの上げ下げに若干手はかかるが、
やがて一人でできるようになり、小さな「大人」になり、
僕は赤ちゃんではない、というプライドが出てくる。









初日の出

2023-01-01 09:24:00 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1921 初日の出



2023,1,1 ;6;55 関東平野から筑波山を眺め初日の出を拝む。

毎日 陽は昇り 陽が沈む。
自分は数え71の齢を迎えた。

加齢性難聴と診断され、
歯が欠けたような感じで
人間の聲を一部聴き取ることが出来なくなった。
補聴器でもつけようかどうか迷ってる。

今年は訪問介護ー通院等乗降介助(介護タクシー)により
透析患者や一人暮らし老人、老老介護家族等の通院支援を始めていく。

自分自身は70の手習いで 国家試験 運行管理者の取得に挑む。

介護タクシーも旅客運送事業のひとつであり
『いのち』を運ぶという大切な使命を持ち
安全運転が求められます。
その自覚を持つために運行管理者として
責務を果たしていければと・・・・

虫食いのような物忘れが出始め
wifeから 惚けてきた 、小言を頂戴する
ボケ防止の目的を兼ね運行管理者の試験に挑むもうひとつの目的である。
ぶ厚い『自動車六法』を開くと
耳慣れない用語に頭の中は大混乱。。

取得するまで何度も何度も何度も受験するしかない。

十指余る疾病はいまは平穏を保っている。
多病息災で残り少ない時間、と思いながらも
いつまでも時間はある、と思ってしまう。
脆弱怠惰の病気が一番厄介である。

今年も途切れ途切れのブログ
よろしくお願いします


今日は講習

2022-11-27 20:25:48 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1920 人間は外に出たい


早朝、晩秋の阿武隈川 縞模様の水面に魅入ってしまった

今日1日自動車学校で運行管理者講習を学習した。
来春から本格的に要介護高齢者等の通院や買い物等
外出(移動)支援サービスを行う。
自分も透析患者の送迎をさせて頂く。

超高齢になると認知症や体力低下等により
自動車普通運転免許証を返納せざるを得なくなる。
田舎は交通手段がかぼそくなる。
陸の孤島になってしまう。
通院と買い物に困まる。

デマンドバスが走るようになったが、
痒いところまで手が届いていない。
行き先は限られ複数の行き先を希望することができない。
買い物時間は1時間だから、たまの外出にコーヒーや外食を
楽しむことは難しい。

認定調査を行うと外出先は
デイサービスと通院のみ。
外出が行われていることになる。
でも、なんだ寂しい感じがしてしまう。

動物は外にでることを欲する。
人間も同じ。
青空を仰ぎ 流れる雲に憧れる
路端に生きる草花や虫たちに言葉をかける
犬は鼻で外の匂いを嗅ぐことに楽しむ。
外に出ると思いがけないことに遭遇する。

予期もしなかった人に出会うと喜びもひとしお。
外に出ることで、気持ちが元気になったり
景色を見て心癒されることもある。

ドラえもんの「どこでもドア」があると最高だ~。
ドア一枚で行きたいところへ行ける。
介護タクシーを始めた。
要介護高齢者、障がい者など
「どこでもドア」のように「行きたいところ」まで移動支援サービスを行う。
通院に限らず、買い物、外食、風景を楽しめる移動支援にしいきたい。

今日の管理者講習で高齢者の運転や事故の特徴を知った。
それについてはブログ1921で掲載していく予定。

明日は自治医科大学付属病院循環器内科の外来受診日である
早朝4時に起き 元気君の散歩を行い
5時半頃 家を出る
自治医大附属病院には7時頃到着する。
30分寒い外で並び、7時半に病院の玄関が開く。







煙草がやめられない

2022-11-24 09:26:19 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1919「自業自得だ~」



もう東北は晩秋
木々たちは数えるほどの枯葉となり
スタットレスタイヤに交換せねばならない

昨日 強いてんかん発作をくり返し
救急搬送された65歳の若い老い人がいた
脳動脈瘤クリッピング術を行い
過去にはくも膜下出血を起こし
手術によりいのちが救われたなのに

喫煙をやめられず
煙草がないと「しけもく」を吸っていた
てんかん発作を止める薬も服用せず過ごしてきた日々

90歳の婆さんから
「まだ、若いのにどうして、我慢が足りないのだろうか」

トイレまで我慢できず 多量の尿便失禁をしてしまう
食事中には噴き出すほどの嘔吐をする
介護員が汚物の処理をするのは「当たり前」、と嘯(そうぶ)

救急に駆けつけてくれた救急隊員は
「(薬も飲まない、煙草を吸っているから)自業自得だよ」と意識消失している彼女に話す

脳外科医は「悪戦苦闘しながら手術を行い助かったいのちなのに」
「自分で病気を治す、いのちを守ろうとしないなら、もう診ることはできない」

救急隊員は「何度も病院へ搬送し助かったいのちなのに、煙草を吸う、薬を飲まない、それは自業自得だ~」と嘆き悲しむ

夫に電話連絡し自分も病院に駆けつける
「頭のなかをもう少しみてみたい」、と脳神経医から話され入院となった。

老いの時代

2022-11-23 10:49:12 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち


  夜明け前、夕暮れ時に「元気」は首にネオンの首飾りをし散歩をする

1918 続)老いの旅人たち

気が付いたら 自分も「老いの時代」に立っていた。
頭髪は薄くなり一部、地肌が目につく。
首、両膝、腰の痛みは時折、自分を悩ます。

最近、福島市では97歳の男性が運転する軽自動車は
歩道を走り、女性を「はね」亡くなる、という痛ましい事故があった。
免許更新では認知機能検査では問題がなかった、と報道されていた。

自分も透析患者を乗せ送迎のためにハンドルを握っている。
「いのちをはこぶ」という重圧を感じながら、安全運転を心がける。

中島みゆきが唄う『時代』は
人生そのものを感じてしまう。

旅を続けてきた老人は
いまなお死に向かって覚束ない足取りで歩き続ける旅人たち。

「まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみを繰り返し」
「別れと出会いをくり返し」
「今日は倒れた老人たちも 生まれ変わって歩きだすよ」


老いの旅人たちは、人それぞれであり
老いてはじめて気がついた人生の大切さ
何が幸せなのか
老いの旅人は 過去を振り返り思い巡らす。

子どもに抜かれ、元気な老人にも抜かれても
右手に杖を持ち左膝の痛みをかばいながらゆっくり歩き続ける。

違うことに気持ちが言ってしまうと、先ほどwifeに頼まれたことを忘れてしまう。
「惚けてきた~」、と隣室からwifeが聞えよがしに話しかける
「惚けてなんかいないよ」、と抗議の言葉で返す。
wifeは続けて「惚けているひとに限って惚けていない、と話す」

惚けたかどうかは別にしても 忘れることが目立ってきた。
老いた旅人の忘れ物が増え、「忘れ物預かり所」が忙しくなる。







倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ

2022-11-22 11:49:14 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち


  犬には犬の悩みや不安はあるのだろう、いまは安心しきって眠りについている

1917 老いの旅人たち



書き終えぬまま「投稿」になってしまいました
うっかりでそのままになっていました。
言い訳ではないが、激しい腰痛で義父が寝たきり状態になり
昨日急遽、130㎞余り車を運転しwifeの実家へ「飛んだ」
救急車を呼び、隣市の整形外科がある病院に入院となった。


老いの旅人は何処で死を迎える

2022-11-21 08:06:41 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち


1916 老人ホームに対する意識は変わった

介護保険により
特別養護老人ホームに対し
地域に住むひとたちの意識は変化した。

姥捨て山ではなくなり
寝たきり老人になると
寝たきりで生きている本人も
老いたつれあいも家族も疲れ果て
老人ホームに入所させることに
「抵抗感」は薄れ、おたがいのためだ、と思い
老人ホームの玄関をくぐる。

いまは、老人ホームで最期のときを迎える。

ふと、思うことがある。

特別養護老人ホームであれ
サービス付き高齢者住宅であれ
老人病院であれ
住み慣れた我が家であれ
本人は最後(最期)におき どのような死に方を臨んでいるか
だれか聴いてくれる人がいるか
そのことが気にかかる。

臨終場面、家族が傍で手を握りながら見守ることは
無理なことであろうか

最後の一夜 自分が住み慣れた家に帰ることはできないのか

最期どこで死ぬか
どのように死ぬのか

最期どのような風景をみるのか
死するとき 自分は何を想うであろうか