遠くへ行きたい
1982 なぜ自分が生まれてきたのか、何のために生きているのか、そしてなぜ死ぬのか
40代始めの頃 老人病院にいた。
バンドが自由に伸び縮みのする古腕時計を見たら、
短針と長針が重なり、後2分少しで退勤時間の午後5時30分になるところだった。
93歳になる老女の手を軽く握り、
「また、明日もよろしくね」と言って
ベッドの傍から立ち去ろうとしたとき、
彼女は何を思ったのか、
ポッソと「日本の老人は寂しい。施設に居ようが、病院に居ようが、家に居ようが、老人は寂しい」と呟いた。
「日本の老人は寂しい」という呟きが、いまも私の心を疼かせている。
60代 那須連山を眺めながら要介護老人が棲む家を訪れ介護相談を再び始めた。
20年まえの風景と変わらず
家があり 家族が住んでいても 家の中に住む老人は孤独
伴侶を亡くし 独りになっても
自由気儘に暮らす孤独の方いい。
在宅訪問で そう感じてしまう。
幸せかどうかは、ひとり一人違う。
自分の目に「幸せでない」、と映っても
当の老人は「これでいいのだ。家族とこうして暮らすことができ幸せ」
自分の最期(死)は
子が決めるものでもなく
他人から言われることでもない
そう胸深く思いながらも
子に従う老親(老いては子に従え)
でもやはり最後の死に際は自分で決めたい
何処で死にたいか
かっては多くの柿を熟した枝
老木となり朽ちた葉は無数の枯葉の上に落ちた
水が飲めなくなり尿もでなくると枯木のようににんげんも朽ちて逝く
しかし、冬には枯れ落ちた枯葉は
春には新たな命の営みが始まる。
作レオ・バスカーリア』
『葉っぱのフレディー』の絵本の物語を思い浮かぶ。
人工透析の治療を開始したときにこの絵本を手にした
なぜ自分が生まれてきたのか、何のために生きているのか、そしてなぜ死ぬのか
誰もが抱く疑問を葉っぱのフレディーは語りかけてくれた
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