老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

395;認知症老人と存在論 ④

2017-09-17 11:53:08 | 老いの光影
 認知症老人と存在論 ④
~ハイデガーの哲学から考える~


(3)「存在の意味」と認知症老人 {続き}

偉大な哲学者ハイデガーは強調する。
「存在の意味は自分の問題だ」と言う前に、「自分」がいる、自分の存在がある。
そして、「存在の意味」ということばがある(25頁)。
人生の深刻な問題や認知症老人のケアに関わり、思い悩み戸惑うとき、生きていくことや老いていくことの意味を考えさせられる。

四肢が拘縮し寝返りもできず、重度の認知症になり「生きる屍」のような状態に置かれた介護施設の風景を眼にしたとき、何を思い、何を感じるか。

死を目前にした老人の「存在とはなにか」、介護している側に身をおいて置いている「自分とはなにか」、生きること、老いることの「意味とはなにか」をもっともっと知る必要がある。

現実にある具体的な介護の実態や老人の声無き姿を通し、「存在」「自分」「意味」ということを哲学的に抽象的に思索してみることも大切だ。

自分自身との内なる対話をもつ訓練を積み重ねることにより、あること(認知症老人)がわかってくるのである。

ハイデガーは、「意味の問題は、ことばの問題であり、生活体験である」と指摘している(26~27頁)。
意味がわかるというのは、「ああ、そうであったのか」という納得の体験であり、この体験をもとに生きていけるということである(26頁)。
言葉の意味がわかるということは、言葉を使ってコミュニケーションができることである(26頁)。

「ことばの意味をわかるとは、それを生活のなかで体験すること」であり、「意味の体験が深まり拡がる」。
最初は意味不明、意味難解であった認知症老人のことばは、介護実践のなかでともに生活を体験し、ひとりの老人の生きて来た生活史を把握、理解を深めていくことにより、ことばの意味がわかるのである。

認知症老人の呟き、行動から不安や葛藤、苦悩、痛みなどをについて、知ろうという「自分の存在の在り様」が問われてくる。


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