垂仁88年、天皇が群卿(まえつきみ)に対して「新羅の王子、天日槍が初めて来日したときに持ってきた宝物は但馬にある。但馬国の人に尊ばれて但馬の神宝となっているが、その宝物を見たい」と言った。その日のうちに使いを派遣して天日槍の曾孫である清彦に宝を献上するように伝えたところ、清彦は羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具を神宝として献上した。
清彦は出石の小刀だけは奉るまいと思って衣の中に隠していた。ところが天皇によるねぎらいの酒席で小刀が衣から出てしまった。天皇から問われて隠すことができないと思い、宝であると答えて献上した。神宝はすべて神府(みくら)に収められたが、後日に神府を開けてみたところ、小刀がなくなっていた。再び天皇に問われた清彦はとっさに「小刀はひとりでに自分の家に戻ってきたが今朝はもうなかった」と答えた。天皇はそれ以上追及することをやめた。小刀はひとりでに淡路島に行き、島の人は小刀を神だと思って祠を立てて祀っているという。
崇神天皇(その7)で見たように、崇神紀にこれとよく似た話が出てくる。天皇は出雲大社に収められた神宝を見たいと言って武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させたという話だ。大和の支配者である崇神王朝が出雲大社に祀られる神宝を取り上げたことは、崇神王朝が出雲の地を支配したことを意味すると考えられる。それと同様に、但馬の神宝を献上させたことは、垂仁天皇が但馬を支配することになったと考えられる。
ここで但馬の神宝について考えてみたい。すでに天日槍のところで見たが、記紀に記される神宝を今一度確認しておく。まず古事記では「珠二貫、浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種は伊豆志神社の八座の大神である」となっている。次に書紀の本編には「羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具の7種を但馬国に献上した」とある。最後に書紀の別伝には「葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狭淺大刀の8種を奉った」とある。
これらをみて思い出すのが先代旧事本紀に記された天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)で、饒速日命が降臨時に天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた、いわゆる十種神宝(とくさのかんだから)である。その内容は「息都鏡ひとつ、辺都鏡ひとつ、八握剣ひとつ、生玉ひとつ、死反(まかるかえし)の玉ひとつ、足玉(たるたま) ひとつ、道反(ちかえし)の玉ひとつ、蛇比礼ひとつ、蜂比礼ひとつ、品物(くさぐさのもの)比礼ひとつ」となっており、特に古事記にある神宝に何となく似ている。これらは石上神宮に収められたとされている。
旧事本紀によると「饒速日命の子である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)はこの瑞宝を神武天皇と皇后のために奉り、鎮魂(たまふり)の祭祀を行った」とあり、これが宮中で行われる鎮魂祭の始まりとされている。そして、石上神宮では現在でも宮中と同じ日に鎮魂祭を行っている。神社公式サイトによると「饒速日命の子の宇摩志麻治命が天璽瑞宝十種で、瀛津鏡・邊津鏡・八握剣・生玉・足玉・死人玉・道反玉・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮と鎮魂(たまふり)の神業とをもって、神武天皇と皇后の長久長寿を祈ったことに始まると伝えられています。鎮魂の呪法には、猿女系・阿曇系・物部系などあり、当神宮は『先代旧事本紀』に記された物部氏伝来の鎮魂呪法で、宮廷の鎮魂祭にも取り入れられています」とあり、旧事本紀の内容が現代まで伝承されてきたことがわかる。そしてこの十種神宝は布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)として石上神宮に祀られているのだが、崇神天皇7年に宮中から石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)すなわち石上神宮に遷された。
記紀および旧事本紀に記された神宝を一覧で確認した上で、次回で順に考えてみる。
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清彦は出石の小刀だけは奉るまいと思って衣の中に隠していた。ところが天皇によるねぎらいの酒席で小刀が衣から出てしまった。天皇から問われて隠すことができないと思い、宝であると答えて献上した。神宝はすべて神府(みくら)に収められたが、後日に神府を開けてみたところ、小刀がなくなっていた。再び天皇に問われた清彦はとっさに「小刀はひとりでに自分の家に戻ってきたが今朝はもうなかった」と答えた。天皇はそれ以上追及することをやめた。小刀はひとりでに淡路島に行き、島の人は小刀を神だと思って祠を立てて祀っているという。
崇神天皇(その7)で見たように、崇神紀にこれとよく似た話が出てくる。天皇は出雲大社に収められた神宝を見たいと言って武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させたという話だ。大和の支配者である崇神王朝が出雲大社に祀られる神宝を取り上げたことは、崇神王朝が出雲の地を支配したことを意味すると考えられる。それと同様に、但馬の神宝を献上させたことは、垂仁天皇が但馬を支配することになったと考えられる。
ここで但馬の神宝について考えてみたい。すでに天日槍のところで見たが、記紀に記される神宝を今一度確認しておく。まず古事記では「珠二貫、浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種は伊豆志神社の八座の大神である」となっている。次に書紀の本編には「羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具の7種を但馬国に献上した」とある。最後に書紀の別伝には「葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狭淺大刀の8種を奉った」とある。
これらをみて思い出すのが先代旧事本紀に記された天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)で、饒速日命が降臨時に天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた、いわゆる十種神宝(とくさのかんだから)である。その内容は「息都鏡ひとつ、辺都鏡ひとつ、八握剣ひとつ、生玉ひとつ、死反(まかるかえし)の玉ひとつ、足玉(たるたま) ひとつ、道反(ちかえし)の玉ひとつ、蛇比礼ひとつ、蜂比礼ひとつ、品物(くさぐさのもの)比礼ひとつ」となっており、特に古事記にある神宝に何となく似ている。これらは石上神宮に収められたとされている。
旧事本紀によると「饒速日命の子である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)はこの瑞宝を神武天皇と皇后のために奉り、鎮魂(たまふり)の祭祀を行った」とあり、これが宮中で行われる鎮魂祭の始まりとされている。そして、石上神宮では現在でも宮中と同じ日に鎮魂祭を行っている。神社公式サイトによると「饒速日命の子の宇摩志麻治命が天璽瑞宝十種で、瀛津鏡・邊津鏡・八握剣・生玉・足玉・死人玉・道反玉・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮と鎮魂(たまふり)の神業とをもって、神武天皇と皇后の長久長寿を祈ったことに始まると伝えられています。鎮魂の呪法には、猿女系・阿曇系・物部系などあり、当神宮は『先代旧事本紀』に記された物部氏伝来の鎮魂呪法で、宮廷の鎮魂祭にも取り入れられています」とあり、旧事本紀の内容が現代まで伝承されてきたことがわかる。そしてこの十種神宝は布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)として石上神宮に祀られているのだが、崇神天皇7年に宮中から石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)すなわち石上神宮に遷された。
記紀および旧事本紀に記された神宝を一覧で確認した上で、次回で順に考えてみる。
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