垂仁90年、天皇は田道間守(たじまもり)を常世国へ遣わして非時香果(ときじくのかぐのみ)を持って帰るように命じた。非時香果とは橘のことだと言う。10年後、田道間守はようやく非時香果を見つけて持って帰ってきたが、残念ながらその前年に天皇は崩御していた。田道間守は嘆き悲しんで天皇の陵で亡くなった。
これとほぼ同じ話が古事記の垂仁天皇の段にも記載される。したがって、田道間守が垂仁天皇の時代の人物であることは確実であろう。そしてこの田道間守は書紀では天日槍の神宝を献上した清彦の子で、天日槍の四世孫にあたる。書紀では天日槍の渡来も垂仁天皇のときとされているが、天皇一代の間に天日槍の後裔が4世代も経るのはおかしいので、天日槍の来日は少なくとも崇神天皇以前であったか、もしくは4世代というのが創作であるのかもしれない。書紀での系譜は「天日槍→諸助→日楢杵→清彦→田道間守」となっていて、このうち諸助と日楢杵については具体的な記述がないので実在していないと考えることができる。そうすると「天日槍→清彦→田道間守」となって、天日槍の渡来を崇神天皇の時代におけば問題がなくなる。この系譜は古事記では「天之日矛→母呂須玖→斐泥→比那良岐→毛理・比多訶・清日子の3人兄弟」となっていて書紀よりも一世代増えているが、こちらも母呂須玖、斐泥、比那良岐の3人については記述がなく書紀同様に実在が怪しまれるので同じ結論になる。ちなみに古事記では応神天皇の段に天日槍の渡来の話が記載され、その渡来を「また昔」として時期を特定していない。
さて話を田道間守に戻そう。「垂仁天皇(その8 天日槍の神宝①)」で書いたように、清彦が神宝を献上したことは大和の天皇家が但馬を支配したことを意味するのだが、逆に言えば天日槍の後裔一族が天皇家に恭順したということである。そして天皇は清彦の子である田道間守に対して自ら命を下して常世国へ派遣させていることから考えると、田道間守はどうやら大和に赴いて天皇に仕えるようになっていたようだ。天皇の命に従って常世国へ行き、10年の歳月を経て戻った時に天皇の崩御を知って自ら命を絶ったという話は、天日槍後裔一族の政権への忠誠心を表していると言えるだろう。天日槍が来日した際、天皇から播磨国の宍粟邑と淡路の出浅邑に住むように言われたにも関わらず、自分の住みたいところは自分で探すと言って反抗の意を表し、天皇もそれを許さざるを得なかった状況と比較すると、まったくもって主客逆転である。
同じように神宝を奪われた出雲は神話において大きく取り上げられ、そのことが出雲勢力の大きさを物語っているのだが、この天日槍は垂仁紀に記載された数々の説話のひとつとして語られる程度であるにも関わらず、ただ者ではない空気が漂う。天日槍についてもう少しだけ考えてみたい。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
これとほぼ同じ話が古事記の垂仁天皇の段にも記載される。したがって、田道間守が垂仁天皇の時代の人物であることは確実であろう。そしてこの田道間守は書紀では天日槍の神宝を献上した清彦の子で、天日槍の四世孫にあたる。書紀では天日槍の渡来も垂仁天皇のときとされているが、天皇一代の間に天日槍の後裔が4世代も経るのはおかしいので、天日槍の来日は少なくとも崇神天皇以前であったか、もしくは4世代というのが創作であるのかもしれない。書紀での系譜は「天日槍→諸助→日楢杵→清彦→田道間守」となっていて、このうち諸助と日楢杵については具体的な記述がないので実在していないと考えることができる。そうすると「天日槍→清彦→田道間守」となって、天日槍の渡来を崇神天皇の時代におけば問題がなくなる。この系譜は古事記では「天之日矛→母呂須玖→斐泥→比那良岐→毛理・比多訶・清日子の3人兄弟」となっていて書紀よりも一世代増えているが、こちらも母呂須玖、斐泥、比那良岐の3人については記述がなく書紀同様に実在が怪しまれるので同じ結論になる。ちなみに古事記では応神天皇の段に天日槍の渡来の話が記載され、その渡来を「また昔」として時期を特定していない。
さて話を田道間守に戻そう。「垂仁天皇(その8 天日槍の神宝①)」で書いたように、清彦が神宝を献上したことは大和の天皇家が但馬を支配したことを意味するのだが、逆に言えば天日槍の後裔一族が天皇家に恭順したということである。そして天皇は清彦の子である田道間守に対して自ら命を下して常世国へ派遣させていることから考えると、田道間守はどうやら大和に赴いて天皇に仕えるようになっていたようだ。天皇の命に従って常世国へ行き、10年の歳月を経て戻った時に天皇の崩御を知って自ら命を絶ったという話は、天日槍後裔一族の政権への忠誠心を表していると言えるだろう。天日槍が来日した際、天皇から播磨国の宍粟邑と淡路の出浅邑に住むように言われたにも関わらず、自分の住みたいところは自分で探すと言って反抗の意を表し、天皇もそれを許さざるを得なかった状況と比較すると、まったくもって主客逆転である。
同じように神宝を奪われた出雲は神話において大きく取り上げられ、そのことが出雲勢力の大きさを物語っているのだが、この天日槍は垂仁紀に記載された数々の説話のひとつとして語られる程度であるにも関わらず、ただ者ではない空気が漂う。天日槍についてもう少しだけ考えてみたい。
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