魏志倭人伝に記される帯方郡からの遣使である張政の来日を素地として書紀に都怒我阿羅斯等が記されることとなった。では一方の天日槍はどうであったのだろうか。天日槍の渡来は垂仁天皇のとき、あるいは崇神天皇にさかのぼるとも考えられ、それは3世紀中頃から後半、すなわち弥生時代後期後半にあたっている。そしてこの時代は邪馬台国の時代である。また、私の考えでは神武が東征したのもこの頃である。日本海側をみると北九州の玄界灘沿岸地域には西から末盧国、伊都国、奴国、不弥国が並び、山陰地方では出雲が勢力を保持し、丹後には饒速日命の後裔一族が王国を築いていた。一方の瀬戸内海には真ん中には吉備が居座って瀬戸内航路を支配していた。天日槍はそういう状況にある日本へやってきたのだが、まずその渡来したルートを確認しようと思う。
古事記に記された渡来ルートを見ると、新羅から帰国した妻を追っていきなり難波にやって来たことになっている。そして難波の手前で渡りの神に遮られたために引き返して但馬に到着、そこに住み着いたとある。難波の手前で遮られたとあるのは、天皇から播磨の宍粟邑か淡路の出浅邑に住むように言われたことを拒否したと書紀にあるのと呼応して、畿内の勢力にとって天日槍が招かれざる客であったことを表している。それにしても新羅からいきなり難波ということはその渡来ルートは瀬戸内海が想定される。そして難波から引き返して但馬へ向かっているのだが、引き返すといっても瀬戸内海を戻って関門海峡を抜けて日本海をぐるりと回って但馬へというルートは想定しがたいので、大阪湾あるいは播磨灘あたりで上陸して陸路で但馬へ向かったのか、それとも加古川もしくは市川を遡って但馬へ向かったのだろうか。
次に播磨国風土記にも天日槍の渡来を読み解く記述があるので見ていく。それによると、天日槍が宇頭川(揖保川)の河口に来て、土着の神である葦原志許乎(あしはらのしこお)に「宿るところはないか」と尋ねたところ、葦原志許乎は海中を指した。すると天日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。天日槍の勢いに危機を感じた葦原志許乎は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため粒丘(いいぼのおか)と呼ばれるようになった。(中略)葦原志許乎と天日槍は山からお互いに3本の葛を投げたところ、葦原志許乎の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。天日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。
ここに登場する葦原志許乎は出雲神話にも登場する大己貴神で播磨国風土記では伊和大神(いわのおおかみ)という地元の神と同一神として描かれている。この話は天日槍と土着の神による国占めの争いと言われており、播磨国風土記にはここに記した話を含めて全部で9ケ所の国占めの話が記載されている。これによると天日槍は揖保川の河口にやってきたものの土着神に受け入れられず、国占めの争いをしながら最後は播磨ではなく但馬の出石に定着したことがわかる。つまり天日槍は揖保川を遡って出石に至るルートを辿ったということになる。
播磨国風土記は、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったにもかかわらず国・郡・里の表記が用いられていることから、霊亀元年前後に成立したものと見られている。つまり712年に成立した古事記よりもあと、ということになるので播磨国風土記は古事記を参照したと考えられるが、古事記にあった難波の話は取り入れられずいきなり揖保川河口に来たことになっている。
最後に書紀の内容を確認する。書紀によると天日槍は新羅を出た後、播磨国宍粟邑、菟道河、近江国吾名邑、若狭国を経て最後に但馬国にたどりついている。
ここでも播磨国宍粟邑へ渡来したとされている。新羅から宍粟邑へ至るルートとしては瀬戸内海を通って揖保川を遡るルートか、日本海側からとすると鳥取県の千代川もしくは兵庫県豊岡市の円山川を遡るルートのいずれかになろう。播磨国風土記によると前者ということになるが、先述した時代背景から考えると瀬戸内海を通るこのルートは考えにくい。というのも、瀬戸内海を通過するにはまず関門海峡を通らなければならない。都怒我阿羅斯等のところで見たように伊都国の勢力が穴門まで及んでいたと考えられるので、この関門海峡通過は困難である。無事に通過できたとしても、そのあとに大三島や吉備という隼人系海洋族が押さえる海域がある。すでに天日槍がこれらの一族と通じていたのであればこのルートは問題なく通過できるであろうが、少なくとも記紀や風土記を読む限りそれを想定させる記述はなく、天日槍は新羅から突然やってきている。関門海峡や群雄割拠する瀬戸内海ルートを無事に通過することはやはり難しいと言わざるをえない。これは古事記や播磨国風土記の記述に対しても言えることだ。
宍粟邑のあと、菟道河(宇治川)を遡って近江国、若狭国を経て但馬国に入った、というのも渡来時のルートとしては考えにくい。宍粟邑も含めてここに記された地域は天日槍あるいはその後裔一族が但馬を拠点として勢力を拡げた範囲を示していると考えられる。近江国の鏡邑に住む陶人(すえひと)は天日槍が連れてきた人々である、と書紀にあるのがその証である。鏡邑は現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村に比定される。また、宇治川を遡って近江国に入った湖南地方、鏡村からさほど遠くない草津市穴村町は吾名邑の比定候補地である。古事記によると天日槍の7世孫に息長帯比売命(神功皇后)がいるが、この息長氏は琵琶湖の東岸、近江国坂田郡を拠点とする氏族で、天日槍後裔がこの息長氏と姻戚関係になったのも、近江国に勢力を拡げていたからにほかならない。そしてこの近江国から若狭国に入ったところが気比神宮のある敦賀である。「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」で書いたように、気比神宮に祀られる伊奢沙別命は応神天皇とつながっており、その応神天皇は天日槍の後裔、神功皇后の子である。
記紀や播磨国風土記が天日槍の渡来ルートとして記した地域はその後裔一族の勢力範囲であり、それは播磨、宇治、近江、若狭、但馬と近畿北部のほぼ全域にわたる。天日槍は但馬を居所と定め、その後裔たちが領域を拡大して近畿北部に一大王国を築いた。書紀では天皇から播磨か淡路に住めと言われたのを拒否し、古事記では渡来時に難波の手前で渡りの神に遮られ、播磨国風土記では土着の神と争った。これらの話は天日槍一族による王国建設の過程を表しているのではないだろうか。
清彦のときに神宝を献上して一度は垂仁天皇に帰属することになったが、後裔の息長帯比売命(神功皇后)は捲土重来、王国の復活を画策して政権を奪取することに成功する。
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古事記に記された渡来ルートを見ると、新羅から帰国した妻を追っていきなり難波にやって来たことになっている。そして難波の手前で渡りの神に遮られたために引き返して但馬に到着、そこに住み着いたとある。難波の手前で遮られたとあるのは、天皇から播磨の宍粟邑か淡路の出浅邑に住むように言われたことを拒否したと書紀にあるのと呼応して、畿内の勢力にとって天日槍が招かれざる客であったことを表している。それにしても新羅からいきなり難波ということはその渡来ルートは瀬戸内海が想定される。そして難波から引き返して但馬へ向かっているのだが、引き返すといっても瀬戸内海を戻って関門海峡を抜けて日本海をぐるりと回って但馬へというルートは想定しがたいので、大阪湾あるいは播磨灘あたりで上陸して陸路で但馬へ向かったのか、それとも加古川もしくは市川を遡って但馬へ向かったのだろうか。
次に播磨国風土記にも天日槍の渡来を読み解く記述があるので見ていく。それによると、天日槍が宇頭川(揖保川)の河口に来て、土着の神である葦原志許乎(あしはらのしこお)に「宿るところはないか」と尋ねたところ、葦原志許乎は海中を指した。すると天日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。天日槍の勢いに危機を感じた葦原志許乎は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため粒丘(いいぼのおか)と呼ばれるようになった。(中略)葦原志許乎と天日槍は山からお互いに3本の葛を投げたところ、葦原志許乎の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。天日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。
ここに登場する葦原志許乎は出雲神話にも登場する大己貴神で播磨国風土記では伊和大神(いわのおおかみ)という地元の神と同一神として描かれている。この話は天日槍と土着の神による国占めの争いと言われており、播磨国風土記にはここに記した話を含めて全部で9ケ所の国占めの話が記載されている。これによると天日槍は揖保川の河口にやってきたものの土着神に受け入れられず、国占めの争いをしながら最後は播磨ではなく但馬の出石に定着したことがわかる。つまり天日槍は揖保川を遡って出石に至るルートを辿ったということになる。
播磨国風土記は、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったにもかかわらず国・郡・里の表記が用いられていることから、霊亀元年前後に成立したものと見られている。つまり712年に成立した古事記よりもあと、ということになるので播磨国風土記は古事記を参照したと考えられるが、古事記にあった難波の話は取り入れられずいきなり揖保川河口に来たことになっている。
最後に書紀の内容を確認する。書紀によると天日槍は新羅を出た後、播磨国宍粟邑、菟道河、近江国吾名邑、若狭国を経て最後に但馬国にたどりついている。
ここでも播磨国宍粟邑へ渡来したとされている。新羅から宍粟邑へ至るルートとしては瀬戸内海を通って揖保川を遡るルートか、日本海側からとすると鳥取県の千代川もしくは兵庫県豊岡市の円山川を遡るルートのいずれかになろう。播磨国風土記によると前者ということになるが、先述した時代背景から考えると瀬戸内海を通るこのルートは考えにくい。というのも、瀬戸内海を通過するにはまず関門海峡を通らなければならない。都怒我阿羅斯等のところで見たように伊都国の勢力が穴門まで及んでいたと考えられるので、この関門海峡通過は困難である。無事に通過できたとしても、そのあとに大三島や吉備という隼人系海洋族が押さえる海域がある。すでに天日槍がこれらの一族と通じていたのであればこのルートは問題なく通過できるであろうが、少なくとも記紀や風土記を読む限りそれを想定させる記述はなく、天日槍は新羅から突然やってきている。関門海峡や群雄割拠する瀬戸内海ルートを無事に通過することはやはり難しいと言わざるをえない。これは古事記や播磨国風土記の記述に対しても言えることだ。
宍粟邑のあと、菟道河(宇治川)を遡って近江国、若狭国を経て但馬国に入った、というのも渡来時のルートとしては考えにくい。宍粟邑も含めてここに記された地域は天日槍あるいはその後裔一族が但馬を拠点として勢力を拡げた範囲を示していると考えられる。近江国の鏡邑に住む陶人(すえひと)は天日槍が連れてきた人々である、と書紀にあるのがその証である。鏡邑は現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村に比定される。また、宇治川を遡って近江国に入った湖南地方、鏡村からさほど遠くない草津市穴村町は吾名邑の比定候補地である。古事記によると天日槍の7世孫に息長帯比売命(神功皇后)がいるが、この息長氏は琵琶湖の東岸、近江国坂田郡を拠点とする氏族で、天日槍後裔がこの息長氏と姻戚関係になったのも、近江国に勢力を拡げていたからにほかならない。そしてこの近江国から若狭国に入ったところが気比神宮のある敦賀である。「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」で書いたように、気比神宮に祀られる伊奢沙別命は応神天皇とつながっており、その応神天皇は天日槍の後裔、神功皇后の子である。
記紀や播磨国風土記が天日槍の渡来ルートとして記した地域はその後裔一族の勢力範囲であり、それは播磨、宇治、近江、若狭、但馬と近畿北部のほぼ全域にわたる。天日槍は但馬を居所と定め、その後裔たちが領域を拡大して近畿北部に一大王国を築いた。書紀では天皇から播磨か淡路に住めと言われたのを拒否し、古事記では渡来時に難波の手前で渡りの神に遮られ、播磨国風土記では土着の神と争った。これらの話は天日槍一族による王国建設の過程を表しているのではないだろうか。
清彦のときに神宝を献上して一度は垂仁天皇に帰属することになったが、後裔の息長帯比売命(神功皇后)は捲土重来、王国の復活を画策して政権を奪取することに成功する。
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