垂仁天皇は日葉酢媛との間に5人の子を設けた。順に、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、大中姫命(おおなかつひめのみこと)、倭姫命、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)である。垂仁30年、天皇は第一子の五十瓊敷入彦命と第二子の大足彦尊に対して「それぞれ欲しいものを言え」と問いかけたところ、五十瓊敷入彦命は「弓矢が欲しい」と応え、大足彦尊は「皇位が欲しい」と応えた。天皇はそれぞれ望みのままに、五十瓊敷入彦命に弓矢を与え、大足彦尊に「皇位を継げ」と言った。そして垂仁37年、天皇は大足彦尊を皇太子とした。一方の五十瓊敷入彦命は垂仁39年に茅渟の菟砥(うと)川上宮で剣一千口を作った。五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのは、軍隊を掌握したい気持ちを言い表したのではないだろうか。
余談になるが大阪湾のことを古来、茅渟の海と呼ぶ。神武東征において、神武の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっている。私は大阪府貝塚市の生まれであるが、大阪府南部、泉州一帯の多くの小学校校歌の歌詞に「茅渟の海」と「葛城の山」が入っている。子供の頃にはそんな由来を知る由もなく校歌を歌っていた。
五十瓊敷入彦命が剣一千口を作った菟砥川上宮は古事記では「鳥取之河上宮」となっており、大阪府阪南市自然田にある玉田山公園あたりとされている。すぐ近くを菟砥川が流れ、自然田の隣は和泉鳥取という村である。なぜここで剣を作ることになったのかはわからないが、剣一千口は石上神宮に納められ、その後すぐに五十瓊敷入彦命は石上神宮の神宝の管理を担うことになった。剣一千口をはじめ石上神宮の神宝を納めている倉を神庫(ほくら)と呼ぶが、これは要するに武器庫である。古事記には、神武東征の際に熊野で神武一行を救った剣、布都御魂が石上神宮にあると記されている。弓矢が欲しいと天皇に望んで手に入れたことも含めて五十瓊敷入彦命は軍事担当の任に就いたのではないだろうか。
垂仁87年、年老いた五十瓊敷入彦命は妹の大中姫命に対して「自分は年を取ったために神宝の管理ができない。これからはお前がやりなさい」と言い、大中姫命は固辞したものの強引にその役割を譲ってしまった。しかし大中姫命はその任を果たすことができず、物部十千根にその役割を授けることにした。物部十千根は前回に登場した五大夫の一人であり、物部氏が石上神宮の神宝を管理することになった最初の人物である。物部氏は五十瓊敷入彦命が担っていた軍事担当を引き継ぐことになったのだ。
ここで気になることがある。物部氏は饒速日命の後裔であり、その饒速日命は神武東征の最終決戦で神武に敗れて神武王朝に仕えることになったはずだ。前回みたように垂仁天皇のときに神武王朝は終焉を迎えたと考えられるが、それにしても敵方の勢力に武器の管理を任せて、さらに軍事担当を任命するとはどういうことだろうか。当ブログ第一部の神武東征の「熊野に上陸」のところで、神武を救った布都御魂はもともと高倉下すなわち尾張氏が管理していたが、その後に何らかの理由でその役割が物部氏に代わった、ということを書いたが、その理由がこの垂仁天皇の時代に求めることができそうだ。物部氏、尾張氏ともに神武王朝を支えた氏族であったが、物部氏は寝返って崇神王朝側についたという可能性を考えたい。物部氏はその後、6世紀における蘇我氏との勢力争いに敗れるまで祭祀担当、軍事担当として大きな勢力を誇る氏族となったのは周知のところである。一方の尾張氏は、崇神王朝においては崇神天皇の妃に尾張大海媛を出したくらいで目立った活躍はない。この違いをどう理解すればいいだろうか。
これまで何度も参照した「先代旧事本紀と勘注系図」を再び見ることにする。まず、勘注系図によると海部氏の始祖である彦火明命の子に天香語山命、さらにその子として高倉下の名がみえる。一方の先代旧事本紀では物部氏の祖である饒速日命の子として天香語山命が登場し、その天香語山命は尾張氏の祖であり、高倉下命と同一人物となっている。あわせて饒速日命の別名は天火明命であるとしている。整理するとこうだ。
また、書紀の本編では火明命は尾張連の始祖であり、一書では天香山(天香語山と同一)が尾張連の遠祖となっている。いずれにしても、これらのことから天香語山命を尾張氏の祖とすることに問題はないと考える。そしてその天香語山命は新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後国一之宮の彌彦神社に主祭神として祀られる。神社の公式サイトにある由緒には「御祭神は天香山命。天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、、、(後略)」と記されている。神武東征の功績とは熊野における布都御魂の一件を指すが、その功績ある天香山命を何故、越の国へ行かせたのか。尾張氏は神武東征後に葛城の高尾張邑に定着したと考えるのであるが、その祖である天香語山命を越の国に行かせたのは神武王朝によるものではなく、神武王朝終焉後の崇神王朝によるものではなかったか。具体的には垂仁天皇の時と考えるが、物部氏を石上神宮の武器庫を任せる重要な役割に登用し、一方の尾張氏を越の国に左遷したのだ。尾張氏は神武王朝において布都御魂を管理する役割を担っていたが、それを物部氏に明け渡すこととなった。物部氏は何らかの手を使って崇神王朝に取り入って生き残りを図ったのだ。この策略が神武王朝の終焉を早めることになったのかもしれない。
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余談になるが大阪湾のことを古来、茅渟の海と呼ぶ。神武東征において、神武の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっている。私は大阪府貝塚市の生まれであるが、大阪府南部、泉州一帯の多くの小学校校歌の歌詞に「茅渟の海」と「葛城の山」が入っている。子供の頃にはそんな由来を知る由もなく校歌を歌っていた。
五十瓊敷入彦命が剣一千口を作った菟砥川上宮は古事記では「鳥取之河上宮」となっており、大阪府阪南市自然田にある玉田山公園あたりとされている。すぐ近くを菟砥川が流れ、自然田の隣は和泉鳥取という村である。なぜここで剣を作ることになったのかはわからないが、剣一千口は石上神宮に納められ、その後すぐに五十瓊敷入彦命は石上神宮の神宝の管理を担うことになった。剣一千口をはじめ石上神宮の神宝を納めている倉を神庫(ほくら)と呼ぶが、これは要するに武器庫である。古事記には、神武東征の際に熊野で神武一行を救った剣、布都御魂が石上神宮にあると記されている。弓矢が欲しいと天皇に望んで手に入れたことも含めて五十瓊敷入彦命は軍事担当の任に就いたのではないだろうか。
垂仁87年、年老いた五十瓊敷入彦命は妹の大中姫命に対して「自分は年を取ったために神宝の管理ができない。これからはお前がやりなさい」と言い、大中姫命は固辞したものの強引にその役割を譲ってしまった。しかし大中姫命はその任を果たすことができず、物部十千根にその役割を授けることにした。物部十千根は前回に登場した五大夫の一人であり、物部氏が石上神宮の神宝を管理することになった最初の人物である。物部氏は五十瓊敷入彦命が担っていた軍事担当を引き継ぐことになったのだ。
ここで気になることがある。物部氏は饒速日命の後裔であり、その饒速日命は神武東征の最終決戦で神武に敗れて神武王朝に仕えることになったはずだ。前回みたように垂仁天皇のときに神武王朝は終焉を迎えたと考えられるが、それにしても敵方の勢力に武器の管理を任せて、さらに軍事担当を任命するとはどういうことだろうか。当ブログ第一部の神武東征の「熊野に上陸」のところで、神武を救った布都御魂はもともと高倉下すなわち尾張氏が管理していたが、その後に何らかの理由でその役割が物部氏に代わった、ということを書いたが、その理由がこの垂仁天皇の時代に求めることができそうだ。物部氏、尾張氏ともに神武王朝を支えた氏族であったが、物部氏は寝返って崇神王朝側についたという可能性を考えたい。物部氏はその後、6世紀における蘇我氏との勢力争いに敗れるまで祭祀担当、軍事担当として大きな勢力を誇る氏族となったのは周知のところである。一方の尾張氏は、崇神王朝においては崇神天皇の妃に尾張大海媛を出したくらいで目立った活躍はない。この違いをどう理解すればいいだろうか。
これまで何度も参照した「先代旧事本紀と勘注系図」を再び見ることにする。まず、勘注系図によると海部氏の始祖である彦火明命の子に天香語山命、さらにその子として高倉下の名がみえる。一方の先代旧事本紀では物部氏の祖である饒速日命の子として天香語山命が登場し、その天香語山命は尾張氏の祖であり、高倉下命と同一人物となっている。あわせて饒速日命の別名は天火明命であるとしている。整理するとこうだ。
また、書紀の本編では火明命は尾張連の始祖であり、一書では天香山(天香語山と同一)が尾張連の遠祖となっている。いずれにしても、これらのことから天香語山命を尾張氏の祖とすることに問題はないと考える。そしてその天香語山命は新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後国一之宮の彌彦神社に主祭神として祀られる。神社の公式サイトにある由緒には「御祭神は天香山命。天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、、、(後略)」と記されている。神武東征の功績とは熊野における布都御魂の一件を指すが、その功績ある天香山命を何故、越の国へ行かせたのか。尾張氏は神武東征後に葛城の高尾張邑に定着したと考えるのであるが、その祖である天香語山命を越の国に行かせたのは神武王朝によるものではなく、神武王朝終焉後の崇神王朝によるものではなかったか。具体的には垂仁天皇の時と考えるが、物部氏を石上神宮の武器庫を任せる重要な役割に登用し、一方の尾張氏を越の国に左遷したのだ。尾張氏は神武王朝において布都御魂を管理する役割を担っていたが、それを物部氏に明け渡すこととなった。物部氏は何らかの手を使って崇神王朝に取り入って生き残りを図ったのだ。この策略が神武王朝の終焉を早めることになったのかもしれない。
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