古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)

2017年07月10日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 古事記、書紀、旧事本紀の3つの史書がこの順で編纂されたことを念頭に、順に神宝を考えてみたい。最初に編纂された古事記によると、天日槍は8種の宝物を持って渡来し、伊豆志(出石)神社に収めた。この8種の神宝は伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)と呼ばれて出石神社の祭神となっている。古事記の次に編纂された書紀は古事記を参照した上で、以下の編集を加えたと考える。

 まず古事記の珠二貫は、書紀の羽太玉(別伝では葉細玉)と足高玉に相当する。羽太玉と葉細玉が同じものと考えると、片方の端が太くてもう一方の端が細くなっている玉ということになろうか。足高玉は玉に足がついていたのか、あるいは足のような台に乗っていたのか、いずれにしてもその形状を表しているのであろうか。岡山県倉敷市にある足高神社と関係づける考えもあるようだが、よくわからない。石上神宮のサイトを見ると、禁足地から出土した社宝として琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)が掲載されている。琴の弦を調節する琴柱(ことじ)に形状が似ていることからついた名称で、濃緑の極めて良質な碧玉で作られているとのこと。石製品であるが良質な碧玉製であることと、その形状をみると足がついていること、そして何と言っても石上神宮の禁足地に埋納されていたことから、私はこれを足高玉と考えることはできないかと密かに思っている。
 そして書紀で加えられた鵜鹿々赤石玉であるが、これは古事記において天日槍が妻とした阿加流比売神に変身した赤玉を指しているのだろう。天日槍渡来の直接的な原因となった妻の元の姿である重要な玉を神宝に加えた。
 次に出石小刀と出石桙であるが、古事記の8種神宝に珠(玉)と鏡があり、ここに太刀あるいは剣を加えることで三種の神器の構成になることから出石小刀と出石桙を加えた。小刀、桙ともに太刀あるいは剣とみなすことに問題はないと考える。また、珠が二貫、鏡が二面であったので、小刀と桙の二本ということにしたのだろう。正史である書紀だからこそ、天皇家が手に入れようとする神宝が三種の神器であることを装おうとしたのだ。しかし、神宝の献上を求められた清彦は出石小刀だけは奉るまいと考えて隠そうとした。結局は露見してしまうのだが、最終的に出石小刀はひとりでに淡路島に行ってしまったという。出石桙については、そもそも献上した神宝には記されていない。これは書き漏らしたのではなく、意図的に書かなかったのだ。これによって存在しなかった小刀と桙を存在するように見せかけたものの、結局は神府(みくら)に存在しない言い訳とすることができる。
 そして鏡であるが、古事記では奥津鏡と辺津鏡であるが、これも書紀が正史であることを考えると、天照大神を祀る鏡を意味する日鏡に置き換えたのではないだろうか。
 最後に、古事記に4種類あった比礼が書紀には全く入っていない。その代わりに熊神籬が加えられている。そもそも熊神籬とは何であろうか。神籬とは神を迎えるための依り代となるものである。そして「熊」は古語で「神」の意味があり、また朝鮮語では「神聖な」という意味があるという。これらのことから熊神籬は「神聖な神の依り代」とでも考えられるだろうか。ここでは具体的に、古事記にあった比礼4種をまとめて収納した小箱のようなものを想定できないだろうか。古事記に記された比礼は、波を起こしたり止めたり、風を起こしたり止めたり、と波や風を操る力を持ったもので、まさに神の力が宿るものであるので、それを収納したものを神籬と呼ぶことに大きな違和感はないと思う。

 かくして古事記の8種神宝と書紀の神宝を対応させることができた。続いて、書紀の別伝にある「膽狭浅太刀」についても少し考えてみたい。膽狭浅は「いささ」と読むことから、福井県敦賀市にある越前国一之宮の気比神宮に祀られる伊奢沙別命(いざさわけのみこと。書紀では「去来紗別神」、古事記では「伊奢沙和気大神」)との関係が説かれている。書紀の応神紀のある説によると、応神天皇が皇太子になったとき、越国へ行って敦賀の笥飯大神(気比大神)を参った際に大神と名前を入れ替え、誉田別尊(ほむたわけのみこと)と呼ばれるようになったという。古事記にも同様の話が記載されている。建内宿祢が越前の敦賀に仮宮を造って皇太子を迎えたとき、伊奢沙和気大神が太子の夢に現れて名前を取り換えてほしいと依頼したところ、太子はそれを承知したという。膽狭浅太刀は天日槍と応神天皇のつながりを想起させてくれる。さらにこの二人が敦賀の地でつながっていることを考えると、否が応でもここに都怒我阿羅斯等との関係をも考慮したくなる。
 岡谷公二氏はその著「神社の起源と古代朝鮮」で谷川健一氏が、敦賀の気比神宮のみならず、但馬の出石の近く、円山川の川口周辺に気比村、気比の浜、イザサワケを祀る気比神社があり、その西方余部(あまるべ)村の伊佐佐岬のふもとにも同じ大神を祀る伊佐(伎)佐神社、楽々(ささ)浦があることを指摘していることを引用して、膽狭浅の太刀は出石の太刀と同意になると説いている。膽狭浅(いささ)と出石(いずし)の音の類似から膽狭浅太刀を出石太刀と解することに大きな違和感はないが、谷川氏の論は少々強引な気がする。伊佐(伎)佐神社は伊伎佐(いきさ)神社であり、しかも祭神は伊弉諾尊である。それでも書紀の別伝にわざわざ膽狭浅太刀を出したのは、膽狭浅→出石、あるいは、膽狭浅→伊奢沙別命という連想から、天日槍と応神天皇のつながりを暗示したのではないだろうか。このあたりは機会をあらためて考えてみたい。

 さて、最後に先代旧事本紀に記される十種神宝についても触れておきたい。先代旧事本紀は物部氏が自らの由緒や伝承を世に知らしめるために書かれた史書であると言われている。物部氏はその祖を饒速日命とし、さらに饒速日命を瓊瓊杵尊の子、あるいは兄とされる火明命と同一としている。すなわち、物部氏が天孫族であることを主張しているのだ。この旧事本紀が編纂されたのは記紀が編纂されて以降のことであるので、記紀のいいとこ取りをしていると考えられ、それがこの十種神宝にも現れているはずだ。古事記の神宝は「珠、鏡、比礼」である。この古事記の構成に「剣」が加われば三種の神器が揃う。三種の神器は天孫族の象徴であるから、これは欠かせない。書紀の神宝の構成も三種の神器を考慮していた。このような考え方で十種神宝の構成が「玉、剣、鏡、比礼」に決まったのではないだろうか。
 十種神宝のうち、息都鏡・辺都鏡は古事記が記す神宝に入っていたが、この二面の鏡は京都府宮津市の籠神社に伝わる二面の鏡、息津鏡・辺津鏡と同じ名前だ。籠神社の社家である海部氏は、物部氏の先代旧事本紀と同様に、その系譜や事績などを「籠名神社祝部氏係図(本系図)」および「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記(勘注系図)」に表して代々受け継いでこられた。この勘注系図には海部氏の始祖が天火明命であることが記され、しかもその天火明命は饒速日命と同一人物であるとしており、まさに旧事本紀と同じことが書き残されているのだ。そうすると、籠神社に伝わる息津鏡・辺津鏡は旧事本紀にある十種神宝の二面の鏡であることの蓋然性が非常に高いと言えるが、真偽のほどは定かではない。仮に同じものとすれば、天日槍が新羅から持ってきた鏡がなぜ丹後の籠神社に残されているのだろうか。旧事本紀の巻十「国造本紀」によれば、成務天皇の時代に尾張連同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたとある。この大倉岐命は海部氏系図に16代目としてその名が記されている。海部氏は代々、丹波国造として出石を含む丹波地方を治めていたのであるが、その関係で出石神社に収められた二面の鏡を召し上げたのかもしれない。
 鏡の次は剣であるが、十種神宝にあるのは八握剣である。記紀には十握剣(十拳剣)がよく登場するが、これは握り拳10個分(十握り分)の長さを持つ剣という意味で、以下のようなシーンに見られる。伊弉冉尊が火の神である軻遇突智(かぐつち)を生んだために亡くなったときに伊弉諾尊は十握剣で軻遇突智を斬った場面、天照大神と素戔嗚尊による誓約で素戔嗚尊の十握剣を三段に折って天真名井ですすいで噛み砕いて吐いた息から宗像三女神が生まれる場面、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治しようと十握剣で切り裂いたところ大蛇の尾から草薙剣が出てきた場面、経津主神と武甕槌神が出雲の五十田狭之小汀で十握剣を逆さまに突き刺して大己貴神に国譲りを迫る場面などなど、剣が登場する場合はほとんどが十握剣になっているのだが、十種神宝ではなぜか八握剣。三種の神器である草薙剣が十握剣かどうかは定かではないのだが、もしかすると八握剣だったのかもしれない。鏡が咫鏡、玉が尺瓊勾玉とくれば、剣は握剣か。
 4つの玉については正直なところ、よくわからない。「珠」は「玉」と同じ意味で使われていると思うが、古代には「魂」や「霊」などの字も使われた。呪力や霊力が宿るもの、あるいは体内に宿る霊力や呪力を発揮するときの媒体となるもの、ということになろうか。4つの玉の効用は諸説あるが、玉の名前から考えると次のようになろうか。生玉は生命を維持し活力を与える玉、死返玉は生命を蘇らせる玉、足玉は心身の満足を与える玉、道返玉は邪心を正しい道に導く玉。
 最後に比礼。蛇比礼と蜂比礼は古事記にも出てくる。大穴牟遅神(大国主神)が須佐之男命(素戔嗚尊)の娘の須勢理毘売(すせりひめ)と結婚しようとしたとき、父の須佐之男命は大穴牟遅神を蛇の部屋に閉じ込めた。妻の須勢理毘売命が夫に蛇の比礼を授けて「この比礼を三回挙げて打ち振って払いなさい」と言い、その通りにすると蛇が鎮まって無事に蛇の部屋を出ることができた。次に呉公(むかで)と蜂の部屋に入れられたときも同様に呉公と蜂の比礼を使って何事もなかったかのように出てくることができた。いずれも夫婦二人で試練を乗り越えさせるための結婚の儀式であろうが、まさに蛇比礼と蜂比礼が使われている。ここから考えると、これらの比礼は邪悪なものを遠ざける力を持っていると考えられる。そこから類推すると最後の品物比礼は全ての邪悪なものから守ってくれる比礼とでも言えようか。

 天日槍が持参した神宝は但馬では神として祀られ、また時の天皇が手に入れたいと望んで神庫に収められ、そのことが8世紀の古事記、日本書紀に記された。また、天孫族を自称する物部氏の神宝の原型となって物部氏の史書にも書き残された。天日槍は単なる渡来人ではなく、当事の政権およびその後の政権に大きな影響を与えた人物であったといえよう。

 
神社の起源と古代朝鮮 (平凡社新書)
岡谷 公二
平凡社



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