アザレアホールを出て次の目的地、鴨都波神社に向かいました。地図を頭に入れていたのでナビを設定せずに走り出したのですが、少し走るといきなり進入禁止の標識。迂回しようと左折すると道が細く入り組んでいる。ここは安全策をとっていったんアザレアホールまで戻ってナビに従うことに。5分ほど走ると突然に見覚えのある石の鳥居が現れました。
鴨都波神社の一之鳥居です。
境内の手前にある駐車場に車を停めて徒歩で参拝です。
以下、神社公式サイトからの転載です。
鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。
また、一般的には「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。
そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。
当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。
彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。
おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。
また、一般的には「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。
そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。
当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。
彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。
このあと行くことになっている高鴨神社が上鴨社、葛木御歳神社が中鴨社、そしてこの鴨都波神社が下鴨社とされ、三社合わせて鴨三社と呼ばれています。鴨都波神社が祀る事代主神はもともと鴨族が信仰していた神であることから、当社が事代主神の信仰の本源であるとされています。そして神社の下に広がる鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落で、弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれ、多数の土器や農具が出土しています。このことから、古くからこの地に鴨族が住みついて農耕をしていたと考えられています。
鴨都波遺跡は葛城山麓から東に延びる低い丘陵の東端に立地しています。高床式建物と見られる柱列、矢板を打ち込んだ柵列、竪穴式住居、大溝、木器貯蔵穴などが検出されたほか、木器、土器、石器などがたくさん出土しており、弥生時代中期に入ると和歌山県でよく見られる「紀伊型甕」がこの鴨都波遺跡でも見かけられるようになります。南に向かって風森峠を越えるとすぐに紀伊国。その紀伊国との近しい関係がうかがえます。
また、神社のすぐ西側を南北に走る国道を隔てた反対側では古墳が発見されました。20m×16mの方墳で4世紀中頃の築造と推定されています。鴨都波1号墳と名付けられた古墳には高野槙で作られた木棺が納められ、三角縁神獣鏡4面をはじめとして多くの副葬品が出土しました。その後5世紀前半になると、2キロほど南へ行った室の地に全長が200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現します。4世紀中頃の鴨都波1号墳と5世紀前半の室宮山古墳。わずか数十年しか隔たっていないこの両古墳の被葬者は関係があると考えられます。
鴨都波1号墳の被葬者はその副葬品から考えると鴨氏の首長とするのが妥当でしょう。一方の室宮山古墳は葛城氏の首長である葛城襲津彦の墓とするのが有力な考えです。私は鴨氏から葛城氏が枝分かれしたと考えています。少なくとも両氏族は大変近しい関係にあると思います。
鴨氏が奉祀するこの鴨都波神社の祭神は事代主神であることから、事代主神は鴨氏の祖先神と考えられます。一方で、このあと訪ねる葛城一言主神社の祭神である一言主神にまつわる説話が記紀に次のように記されます。第24代雄略天皇が葛城山中で狩りをしていたときに天皇と同じ姿をしたものが現れました。天皇が名を問うと自分は一言主神であると名乗り、それを聞いた天皇は大刀・弓矢・衣服などを献じて拝礼して(このくだりは日本書紀にはない)一緒に狩りを続けました。この説話から、天皇と対等な関係、あるいは天皇が一目置く関係をもつ一言主神が葛城氏であると考えられるのです。
葛城氏は襲津彦のときに娘の磐之媛が仁徳天皇の皇后になって履中天皇・反正天皇・允恭天皇を生み、襲津彦の子である葦田宿禰の娘の黒媛が履中天皇の妃となりました。さらにその葦田宿禰の孫である荑媛は顕宗天皇・仁賢天皇を生んでいます。また、襲津彦の孫である円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として清寧天皇を生んでいます。結局、仁徳から仁賢に至る9人の天皇のうち安康天皇を除いた8人の天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになります。このように葛城氏は5世紀において天皇家に匹敵する、あるいは外戚として天皇家以上の権力を持っていたと考えられ、このことが背景となって前述の説話が生まれたと考えられるのです。
以上のことから、鴨氏=事代主神=一言主神=葛城氏ということになってくるのですが、まあ、このあたりはいろんな考え方があるでしょうから、本当のところはよくわかりません。
平日ということもあって境内には私たち3人だけです。すぐ隣にある国道をたくさんの車が走っているというのに木々に囲まれた境内は静かなものです。私たちが単なる参拝者であるなら、この境内の下に大きな遺跡が眠っていることなど想像だにできないでしょう。
さて、鴨都波1号墳が出た場所には現在、済生会御所病院が建っています。この病院の増築工事の際に古墳が出たということで、病院内に出土品のレプリカが展示されています。時間の余裕があれば見学しようと考えていたのですが、あとの行程を考えればここで時間を食うのは得策ではありません。少しだけ後ろ髪を引かれながら次の目的地である葛城一言主神社へ向かいました。
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