古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

鴨神遺跡(葛城・纒向ツアー No.9)

2019年12月16日 | 実地踏査・古代史旅
 高鴨神社の参拝を終えたところで葛城山から金剛山にいたる山麓の標高の高いところの踏査は終了です。このあとは山麓を一気に下って奈良盆地の最深部ともいえる南西部を踏査します。まずは鴨神遺跡です。

 鴨神遺跡は南郷遺跡群同様に山麓の圃場整備に伴って大規模な調査が行われた遺跡ですが、なかでも調査地の東端に出た古墳時代の道路遺構が最も注目されます。5世紀後半から6世紀の頃、当時の大和政権あるいは葛城氏が大和と紀伊を結ぶために整備した官道とも考えられる道路で、奈良盆地の最南部、奈良県御所市から五条市へと抜ける風の森峠の上に位置しています。現在は国道24号線が西に出っ張った尾根を切り通して南北に直線的に通じていますが、古代においてはこの尾根を避けて山裾に沿って道路が敷設されていたようです。まさに、東西の交通の要衝である葛城を象徴する遺跡であると言えます。

道路遺構が出たところ。

右手に見える道路は山裾に沿って敷かれた現在の道路で、古代道路はその左側、まさにこの道に沿うように田んぼの下から見つかりました。国道24号線はさらに右手を走っています。

Googleの航空写真に少し手を加えました。

赤い線が推定される古代道路で、黄色の部分が上の写真の場所です。
 
 この道路は単に大和と紀伊を結ぶだけではなく、大和から紀伊へ入って紀ノ川を下り、大阪湾から瀬戸内海を通って対馬海峡へ抜けると朝鮮半島や中国大陸へ通じています。記紀において葛城襲津彦が外交を掌握する様子が描かれていますが、葛城氏が外交を掌握できたのはまさにこの道路を押えていたからである、と言っても過言ではないでしょう。

 ただ、この遺跡も南郷遺跡群と同様に現在は田畑の下に埋もれてしまっており、あたりはのどかな田園風景が一面に広がるばかりです。

金剛山地を見上げる風景。


 発掘された道路遺構は2.5m~3.3m で全長約130m にも及びます。固い地盤の部分は叩き締めた砂利敷きの上の黄褐色の粘質土を路面にしてあったり、軟弱な粘土の地盤部分では道路に沿って溝状に掘り下げ、砂を入れて路盤改良工事がおこなわれ、固い粘土の地盤部分では浅く掘り下げて砂をいれたり、部分的に砂利敷きにして路盤を作っていたそうです。これらのことから、地盤に応じた路盤工事を施すことによって道路を維持していることがわかります。

 なお、ネットに公開されている鴨神遺跡発掘時の写真があまりなく、あったとしても著作権者の承諾を得る必要があり、面倒なのでここでは私の撮った写真のみの掲載とさせてください。

 実は南の五条市から大和の中心地に向かうルートはこの風の森峠を越えるルートと、その東側、現在のJR和歌山線が走る巨勢谷を通る巨勢路ルートがありますが、古墳時代中期以前はこちらの風の森ルートが主要ルートであったとされています。そして古墳時代後期以降、葛城氏の没落後に巨勢氏が台頭して東側の巨勢路が主要ルートになっていったと想定されています。この想定はアザレアホールで学んだ條ウル神古墳と巨勢氏を考える理屈とまったく同じだと思いました。巨勢氏は葛城氏没落の機を逃さずに自身の勢力拡大に努めたのです。
 ひとつの道路遺構から葛城氏の盛衰、巨勢氏の台頭といった古代豪族の勢力争いを想像するのはなかなか楽しいですね。

 古代道路が通っていた峠、その峠に茂る木々、その木々を揺らして峠を抜けていく風、風の森峠とはよく言ったものです。



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小嶋浩毅
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