室宮山古墳は葛木御歳神社から車で数分のところにあります。ここは駐車場がないので路上駐車を余儀なくされます。3年前の訪問時と同様に後円部の先端、墳丘の裾部にある八幡神社の入口付近に車を停めました。この八幡神社の存在から宮山古墳と呼ばれるようになったらしいです。
室宮山古墳の全景。
右が前方部、左が後円部。倍塚のネコ塚古墳から撮りました。
八幡神社。
八幡神社というからには祭神は応神天皇ということになりますが、なぜここに応神天皇を祀る神社ができたのかは定かではありません。
ここは第6代孝安天皇の室秋津島宮趾ともされています。
神武天皇遥拝所の碑も立っていました。
八幡神社の拝殿
左側の鳥居をくぐって階段を上ると後円部の頂上へ通じています。
室宮山古墳は全長238メートルの前方後円墳で古墳時代中期前葉の5世紀初頭の築造と考えられています。金剛山と葛城山の間を縫って河内へ抜ける水越街道と大和から紀伊へ抜ける葛城古道の交わるところに葛城最大規模、築造当時としては大和最大級、全国でも第18位の規模の前方後円墳が5世紀初めに突如として築造されることになった理由はいかに。
畿内の古墳群の隆盛は、まず3世紀中頃から4世紀、すなわち古墳出現期から古墳時代前期においては、纏向遺跡周辺に広がる纏向古墳群や山麓に沿って北側に展開される柳本古墳群、大和古墳群が栄えた後、古墳時代前期後葉から中期にかけて奈良盆地を北上した地に佐紀盾列古墳群が築かれました。その後、5世紀から6世紀、古墳時代中期から後期にかけては大和を出て河内に大規模な古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群)が築かれるようになりました。
佐紀盾列古墳群から古市古墳群や百舌鳥古墳群に勢力が移行する過渡期に、ちょうどその道中にあたる葛城の地に大規模な前方後円墳が築かれたことになります。この古墳の被葬者が河内の勢力と何らかの関係があるとする考え方があるようです。
また、先に訪ねた鴨都波遺跡から出た4世紀中頃築造の鴨都波1号墳はその豊富な副葬品から当時のこの地の王であった鴨氏の首長墓と考えられること、その後に築かれた室宮山古墳は鴨氏から分かれた葛城氏の首長、すなわち葛城襲津彦の墓の可能性が高いこと、は「鴨都波神社(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.4)」で書いた通りです。
葛城襲津彦あるいは葛城氏が河内の勢力とどんな関係があったのか、あるいは河内勢力に劣らぬ規模の首長墓を築くだけの影響力を持っていたのか。これらの問いに対してはある程度の答えが出ているように思います。
葛城氏は、襲津彦の娘である磐之媛を仁徳天皇の皇后として入内させて以降、4代にわたる葛城一族の娘たちを8人もの天皇の后妃や母親とすることで天皇家を上回るほどの権勢をふるいましたが、これらの8人の天皇の宮や陵墓は河内や北葛城を中心に設けられています。
また先に見た通り、葛城の地から西に水越峠を越えれば南河内へ、北へ向かって大和川を下れば中河内から河内湖へ、南へ向かって風の森峠を越えて紀ノ川に出れば大阪湾へ、と葛城氏は背後から河内を囲むように朝鮮半島や大陸へつづく水運を掌握していました。
以上のことから、室宮山古墳は葛城氏と河内勢力(河内王朝)との関係で考えることができそうです。とすると、被葬者はやはりその端緒を開いた葛城襲津彦と考えるのが妥当ではないでしょうか。
その後、葛城氏はその勢力を北の大和川あたりまで拡大して奈良盆地の西側に広がる馬見丘陵一帯に4世紀から6世紀、つまり古墳時代を通じた大古墳群である馬見古墳群を形成するに至ります。
墳丘上への階段。かなり急な斜面です。
墳丘上はそれほど広くありません。
北側(向こう側)と南側(手前側)の2か所に埋葬施設があります。北側は石室の蓋石が見えるだけですが、南側の石室には石棺が収められた状態のまま保存されていて、その中を見ることができます。
北側の石室の蓋石。
南側の石室には石棺が収められています。
石室手前の小さなスペースに降りると石棺の中を見ることができます。岡田さんと佐々木さんが一緒に入りました。降りるのは簡単ですが、お腹が出てきた佐々木さんはここから抜け出すのに苦労したようです。
石室の左上の角。
上部が石室の天井(蓋)で左側が壁、右下に見えるのが石棺の蓋。ピッタリ収まっていますが、もう少し余裕をもって石室を造れなかったのでしょうか。
石棺は長持形石棺で半分が埋まっています。
石棺の内部。
ここに葛城襲津彦の遺骸が収められていたのでしょうか。
墳丘上に並べられていた形象埴輪(靫型埴輪)のレプリカ。
このほかにも盾型や甲冑型、家型などの形象埴輪が石室を取り囲むように並べられていたことがわかっています。
奈良県教育委員会による説明板。
さて、このあとは車をそのままにしておいて宮山古墳の陪塚であるネコ塚古墳を見に行きました。
ゴメンなさい。少し私有地に入らせていただきました。墳丘上は畑になっていて柿の木やミカンの木が植えられています。
一辺が約70メートル、高さが約10メートルの方墳で、刀剣や鉄鏃に加えて短甲・頸甲などが検出されました。甲冑類が多いことから被葬者は武器庫の管理者と推定する説があるそうです。
墳丘からは葛城山や金剛山が奇麗に見えます。
山並を断ち切るように谷になっているところが水越峠(国道309号線)です。山の向こうの河内から峠を越えてまっすぐに東進するとこの古墳に至ります。
さて、ここまで葛城氏や鴨氏ゆかりのスポットを見てきました。鴨都波遺跡は鴨氏が暮らした農耕集落で鴨都波1号墳は鴨氏の首長墓、鴨三社や葛城一言主神社は葛城氏・鴨氏の祖先神を祀る両氏の拠点、南郷遺跡群は要塞都市、政治都市、工業都市の要素を持った葛城氏が築いた先進都市、鴨神遺跡は葛城氏が押えた紀伊と大和を結ぶ要衝の地、室宮山古墳は河内王朝への影響力を持った葛城氏の首長墓。
ここまでの踏査で古代において絶大な力を誇った葛城氏を十二分に感じることができました。ちなみに、時代が下った7世紀、時の権力者であった蘇我馬子はこの葛城の地を手に入れようと推古天皇に直訴したことが日本書紀に記されます。
その蘇我氏の時代に至る前、葛城氏の勢力が衰え始めたときに台頭してきたのがご近所の巨勢谷を拠点とする巨勢氏でした。次に向かう條ウル神古墳や條池古墳群ではそれを確認したいと思います。
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室宮山古墳の全景。
右が前方部、左が後円部。倍塚のネコ塚古墳から撮りました。
八幡神社。
八幡神社というからには祭神は応神天皇ということになりますが、なぜここに応神天皇を祀る神社ができたのかは定かではありません。
ここは第6代孝安天皇の室秋津島宮趾ともされています。
神武天皇遥拝所の碑も立っていました。
八幡神社の拝殿
左側の鳥居をくぐって階段を上ると後円部の頂上へ通じています。
室宮山古墳は全長238メートルの前方後円墳で古墳時代中期前葉の5世紀初頭の築造と考えられています。金剛山と葛城山の間を縫って河内へ抜ける水越街道と大和から紀伊へ抜ける葛城古道の交わるところに葛城最大規模、築造当時としては大和最大級、全国でも第18位の規模の前方後円墳が5世紀初めに突如として築造されることになった理由はいかに。
畿内の古墳群の隆盛は、まず3世紀中頃から4世紀、すなわち古墳出現期から古墳時代前期においては、纏向遺跡周辺に広がる纏向古墳群や山麓に沿って北側に展開される柳本古墳群、大和古墳群が栄えた後、古墳時代前期後葉から中期にかけて奈良盆地を北上した地に佐紀盾列古墳群が築かれました。その後、5世紀から6世紀、古墳時代中期から後期にかけては大和を出て河内に大規模な古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群)が築かれるようになりました。
佐紀盾列古墳群から古市古墳群や百舌鳥古墳群に勢力が移行する過渡期に、ちょうどその道中にあたる葛城の地に大規模な前方後円墳が築かれたことになります。この古墳の被葬者が河内の勢力と何らかの関係があるとする考え方があるようです。
また、先に訪ねた鴨都波遺跡から出た4世紀中頃築造の鴨都波1号墳はその豊富な副葬品から当時のこの地の王であった鴨氏の首長墓と考えられること、その後に築かれた室宮山古墳は鴨氏から分かれた葛城氏の首長、すなわち葛城襲津彦の墓の可能性が高いこと、は「鴨都波神社(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.4)」で書いた通りです。
葛城襲津彦あるいは葛城氏が河内の勢力とどんな関係があったのか、あるいは河内勢力に劣らぬ規模の首長墓を築くだけの影響力を持っていたのか。これらの問いに対してはある程度の答えが出ているように思います。
葛城氏は、襲津彦の娘である磐之媛を仁徳天皇の皇后として入内させて以降、4代にわたる葛城一族の娘たちを8人もの天皇の后妃や母親とすることで天皇家を上回るほどの権勢をふるいましたが、これらの8人の天皇の宮や陵墓は河内や北葛城を中心に設けられています。
また先に見た通り、葛城の地から西に水越峠を越えれば南河内へ、北へ向かって大和川を下れば中河内から河内湖へ、南へ向かって風の森峠を越えて紀ノ川に出れば大阪湾へ、と葛城氏は背後から河内を囲むように朝鮮半島や大陸へつづく水運を掌握していました。
以上のことから、室宮山古墳は葛城氏と河内勢力(河内王朝)との関係で考えることができそうです。とすると、被葬者はやはりその端緒を開いた葛城襲津彦と考えるのが妥当ではないでしょうか。
その後、葛城氏はその勢力を北の大和川あたりまで拡大して奈良盆地の西側に広がる馬見丘陵一帯に4世紀から6世紀、つまり古墳時代を通じた大古墳群である馬見古墳群を形成するに至ります。
墳丘上への階段。かなり急な斜面です。
墳丘上はそれほど広くありません。
北側(向こう側)と南側(手前側)の2か所に埋葬施設があります。北側は石室の蓋石が見えるだけですが、南側の石室には石棺が収められた状態のまま保存されていて、その中を見ることができます。
北側の石室の蓋石。
南側の石室には石棺が収められています。
石室手前の小さなスペースに降りると石棺の中を見ることができます。岡田さんと佐々木さんが一緒に入りました。降りるのは簡単ですが、お腹が出てきた佐々木さんはここから抜け出すのに苦労したようです。
石室の左上の角。
上部が石室の天井(蓋)で左側が壁、右下に見えるのが石棺の蓋。ピッタリ収まっていますが、もう少し余裕をもって石室を造れなかったのでしょうか。
石棺は長持形石棺で半分が埋まっています。
石棺の内部。
ここに葛城襲津彦の遺骸が収められていたのでしょうか。
墳丘上に並べられていた形象埴輪(靫型埴輪)のレプリカ。
このほかにも盾型や甲冑型、家型などの形象埴輪が石室を取り囲むように並べられていたことがわかっています。
奈良県教育委員会による説明板。
さて、このあとは車をそのままにしておいて宮山古墳の陪塚であるネコ塚古墳を見に行きました。
ゴメンなさい。少し私有地に入らせていただきました。墳丘上は畑になっていて柿の木やミカンの木が植えられています。
一辺が約70メートル、高さが約10メートルの方墳で、刀剣や鉄鏃に加えて短甲・頸甲などが検出されました。甲冑類が多いことから被葬者は武器庫の管理者と推定する説があるそうです。
墳丘からは葛城山や金剛山が奇麗に見えます。
山並を断ち切るように谷になっているところが水越峠(国道309号線)です。山の向こうの河内から峠を越えてまっすぐに東進するとこの古墳に至ります。
さて、ここまで葛城氏や鴨氏ゆかりのスポットを見てきました。鴨都波遺跡は鴨氏が暮らした農耕集落で鴨都波1号墳は鴨氏の首長墓、鴨三社や葛城一言主神社は葛城氏・鴨氏の祖先神を祀る両氏の拠点、南郷遺跡群は要塞都市、政治都市、工業都市の要素を持った葛城氏が築いた先進都市、鴨神遺跡は葛城氏が押えた紀伊と大和を結ぶ要衝の地、室宮山古墳は河内王朝への影響力を持った葛城氏の首長墓。
ここまでの踏査で古代において絶大な力を誇った葛城氏を十二分に感じることができました。ちなみに、時代が下った7世紀、時の権力者であった蘇我馬子はこの葛城の地を手に入れようと推古天皇に直訴したことが日本書紀に記されます。
その蘇我氏の時代に至る前、葛城氏の勢力が衰え始めたときに台頭してきたのがご近所の巨勢谷を拠点とする巨勢氏でした。次に向かう條ウル神古墳や條池古墳群ではそれを確認したいと思います。
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |