古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

日本武尊白鳥陵(葛城・纒向ツアー No.13)

2019年12月26日 | 実地踏査・古代史旅
 陽が沈みかけているので先を急がないと最後の新沢千塚古墳群に着くころには真っ暗になってしまいます。やって来たのは車ですぐの日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)です。

 御所市観光ガイドには「現在、宮内庁が治定している陵墓には根拠の薄弱なものが多いが、この陵もその典型と言える。記紀には戦野に死んで魂のやすまらなかった日本武尊は、白鳥となって三度羽根を休めたといい、そのとどまるところが現在、全て白鳥陵として治定されている」と書かれています。
 これは御所市教育委員会の見解です。たしかに日本武尊の陵墓は全国に3カ所もあるのでとりわけ怪しい。そもそも日本武尊の実在性を疑う考えもあるくらいなのでこの見解には同意ですが、行政が宮内庁の治定をここまで悪く書いて公開しているのは珍しくないですか。

 記紀における日本武尊の薨去の記事は少し違いがあります。古事記では、能褒野(のぼの)から白鳥となって飛び、河内国志幾(しき)に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちにここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したとなっています。つまり古事記における日本武尊(倭建)の陵は能褒野と河内国志幾の2カ所です。
 一方の日本書紀では、白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市(ふるいち)邑に行きとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったと記されます。日本書紀では、能褒野、大和琴弾原、河内国旧市邑の3カ所が「白鳥陵」ということになります。

 ちなみに、「陵」は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓に対して使う言葉なのですが、記紀において皇子の墓を「陵」と記すのは、日本武尊の能褒野陵と2つの白鳥陵だけです。
 宮内庁では次の3つの古墳を日本武尊の陵墓として治定しています。そして今回はこの大和琴弾原の陵にやってきたのです。

●能褒野墓(三重県亀山市田村町)
 遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末 の築造と推定されます。
●白鳥陵(奈良県御所市富田)
 かつては「権現山」・「天王山」とも呼ばれた。幅約28m×約45mの長方丘とされますが一説には円墳とも言われています。
●白鳥陵(大阪府羽曳野市軽里) 
 遺跡名は「軽里大塚古墳」、「前の山古墳」、「白鳥陵古墳」など。墳丘長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されます。


 さて、ここも駐車場がないので近くの道路脇に停めて歩いて向かいました。小さな村の中を通り抜けるとすぐです。





墳丘を囲むように設けられた小道を歩きます。











 墳丘の形は明確ではありません。円形を思わせるところもあるものの円墳とまでは言えない。かといって明確な長方形でもない。変形した前方後円墳と言うにも無理がある。そもそも本当に古墳なのか?とさえ思えてくる。感想としては「不整形墳」ということにしておこう。

白鳥伝説を記した説明板。


「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和し美し」


さあ、いよいよ時間がなくなってきたので先を急ごう。




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