今回、綏靖天皇の葛城高丘宮址へ行くのに少しだけ葛城古道を歩いたのですが、葛城山麓を山沿いに縦断するこの古道はなかなか風情があってよかったです。いつかこの葛城古道をスタートからゴールまで歩いてみたいという気持ちになりました。
さて、葛城高丘宮址から車に戻って次の目的地である名柄銅鐸出土地へ向かいました。ここは事前に場所を特定するのに難儀したところです。その説明はあとにするとして、まずはここから出土した銅鐸と鏡について、御所市の広報紙や国立博物館による文化財紹介サイト「e国宝」を参考に紹介します。
名柄銅鐸出土地としていますが、実は銅鐸とともに鏡(多紐細文鏡)も一緒に出ています。銅鐸と鏡が共伴(一緒に出土)することは全国的にも極めて稀(おそらくここだけ)であり、しかもいずれもが大変珍しいものであることがわかっており、ともに国の重要文化財に指定されて東京国立博物館にて所蔵されています。
銅鐸は高さが25センチと比較的小型のもので身の主文様が片方の面には流水文が、反対の面には袈裟襷文が施されるというきわめて稀な文様構成をもつものです。銅鐸の変遷過程では4段階のうちの第2段階目(外縁付鈕式)に位置づけられ、製作時期は紀元前2世紀ころとされています。銅鐸の変遷過程の4段階とは、銅鐸を吊り下げるための紐(鐸身の上についている半円状の部分)という部分に着目して、その形状の変遷をみるもので、第1段階が菱環鈕式、第2段階が外縁付鈕式、第3段階が扁平鈕式、第4段階が突線鈕式といった変遷を辿ります。第1段階が古くて第4段階が新しいということになります。
一方の銅鏡は、中国系の漢式鏡とは違って鈕が2か所についています(多紐)。鏡背にはきわめて緻密な幾何学文が鋳出され、繊細かつ幾何学美にあふれています(細文鏡)。この種の鏡は朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心に数多く発見されていますが、日本ではこれまでに数百面の鏡が出土していますが、この多紐細文鏡は11面の出土例しかないそうです。
これらの銅鐸と鏡は大正7年(1918)の溜池工事の際に偶然発見されたものです。今回この地を訪ねるにあたって事前にその場所を特定するためにネットで調べまくりました。ほぼこのあたり、というところまでわかるのですが、発見当時にあった溜池は埋められて現在は老人ホームが建っていて、出土地に立っているはずの石碑と説明板を見つけることができないのです。
だいたいこのあたり。左が1976年、右が現在の航空写真。
溜池がなくなってあたらしい施設が建っているのがわかります。
Googleストリートビューでこの一帯を何周も回りましたがわかりません。結局あきらめて行程からはずそうと思ってガイドブックにも書きませんでした。そしてツアーの前週、仕事で使っているiPhoneが機種変更で新しくなったので設定作業や確認作業をしながら改めてGoogleストリートビューを見ていると、なんと老人ホームの横にそれらしきものが見えるではありませんか。
拡大してみるとまさに石碑と説明板です。
これまで見落としていたのか、それとも機種変更で解像度が上がって認識できるようになったのか、いずれかは定かではありませんが、これで場所が特定できました。これだけ苦労したのだからどうしても行かねばなりません。
そして撮影したのが次の4枚。
これを見るため、これを写真に収めるためにどれだけ時間を費やしたことか。だから、ここに立った時には密かに感動していました。
この半年ほど、私は銅鐸あるいは青銅器のことを考え続けています。銅鐸は何のために製作されてどのように使われたのか、大きさ・形状・文様などが変遷してきた意味は何だろうか、銅鐸を製作して使用した集団は大和政権成立の過程にどんな関与があったのだろうか。まだ確たる自分の考えを持てていないのです。佐々木さんも銅鐸がキーになると考えているようです。葛城から出た銅鐸がこの1個だけ、というのを聞いて少しがっかりしていたのが印象的でした。
さて、岡田さんの一服タイムも終わって、次はいよいよ南郷遺跡群です。葛城あるいは葛城氏を考えるとき、絶対にはずせない遺跡です。