古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天照大神と伊勢神宮(第1部・6章)

2022年06月11日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立①



私の手元にある本は1991年に出版された藤谷俊雄氏との共著による『伊勢神宮』の新版です。この本の旧版が出版された1960年から30年以上の歳月を経たのちの新版ですが、内容については「誤植を正し、一、二の加筆をするのにとどめてほぼもとの形のまま刊行する」とあとがきに記されています。この直木説は伊勢神宮成立に関する代表的な論考のひとつと言えるでしょう。さっそく著書から引用しながら見ていきます。

直木氏は伊勢神宮の起源を考えるにあたって2つの手がかりをあげます。第1の手がかりは「伊勢神宮の所在地が、伊勢湾をへだてて尾張・三河に対する交通上の要点で、大和政権の東方発展と関係があると思われること」、そして第2には「斎宮に関する記紀の記録」の2点です。それぞれ見ていきます。

まず第1の手がかりについて。天皇家の氏神である天照大神が故なく大和を離れて伊勢に遷されたとは考えられないので、伊勢の地が大和政権の勢力下に入って、なおかつ天皇家に重要視される時代にならなければ伊勢遷祭は起こりえない。著者はその時期を以下のような理由から5世紀中葉以降だとします。

まず、崇神・垂仁朝に相当する3世紀後半から4世紀初めの頃は、天皇家を中心とする大和の諸豪族の連合政権が成立してまのない時代であり、伊勢以東には勢力が伸びていなかったと考えられ、天照大神の社を伊勢に設けるほど、伊勢を重要視、神聖視したとは思えない。

古墳の分布は4世紀後半から5世紀にかけて、大和の勢力が伊勢湾の線をこえて東国地方へのびていっており、それに応じて伊勢地方の重要性も高まったであろうが、4世紀末から5世紀前半の天皇家の主たる関心は西方の朝鮮にあり、都も大和から難波に遷す状態であった。

允恭天皇・安康天皇・雄略天皇の頃からあとの天皇や天皇の后妃に属する部民が、関東地方南部を中心として多数設置されたことが史料からわかるので、天皇家の関心がふたたび東国へ向かうのは5世紀中葉以降と考えられる。この時期、高句麗の南下や、それに伴う百済国都の南遷などによって日本の朝鮮半島進出にも困難が生じてきたので、天皇家は勢力拡大の方向を転換して東方進出に熱心になったと考えられる。

以上が第1の手がかりの要約ですが、次に第2の手がかりである記紀にある斎王記事について、7世紀末頃までの記録を整理すると次のようになります。

 崇神(第10代) 豊鍬入姫命 <記・紀>
 垂仁(第11代) 倭姫命 <記・紀>
 景行(第12代) 倭姫命・五百野皇女 <記・紀>
 雄略(第21代) 稚足姫皇女(栲幡皇女) <紀>
 継体(第26代) 荳角皇女 <記・紀>
 欽明(第29代) 磐隈皇女 <紀>
 敏達(第30代) 菟道皇女 <紀>
 用明(第31代) 酢香手姫皇女 <紀>
 崇峻(第32代)  〃
 推古(第33代)  〃
 天武(第40代) 大来皇女 <紀>

氏は、記紀の斎王関係の記事で多少とも信用できるのは雄略朝にさかのぼるくらいで、それ以前の崇神・垂仁・景行朝はほとんど信用ができない、とします。もしもこの時期に実際に斎王を送るほどに伊勢神宮と密接な関係をもっていたなら、それ以降、雄略朝までの間に斎王記事がみえないことが説明できない、と言います。確かにその通りですが、それはこの時点で伊勢神宮が存在することを前提とした見解です。ただ、雄略朝の稚足姫の記事には問題があるとも指摘しています。

その問題とは、雄略天皇3年に廬城部(いおきべ)連武彦が稚足姫皇女を妊娠させたとする阿閉臣国見の讒言によって稚足姫が五十鈴川のほとりで自死した、とする『日本書紀』の記述が事実であるなら、伊勢神宮における斎王の地位はまだ不安定であり、天皇家と伊勢とのつながりは十分に確立していなかったと考えられるとし、ここでも雄略朝のときに伊勢神宮が存在したことを前提に論述します。筑紫申真氏もこの記事に言及しており、仮にこの話が作り話でなかったとしても、讒言した国見が石上神宮に逃げ込んだとあることから、彼は大和の豪族でありこの事件も大和が舞台であったと推測し、雄略朝において斎王は伊勢に派遣されていなかったとして、直木説よりも踏み込んだ判断をしています。これについては建築史学の林一馬氏も同様の見解を示します。

著者は第2の手がかりからは、天皇家と伊勢神宮が密接な関係を持つようになるのは6世紀初頭以降、古くみても5世紀後半の雄略朝ごろからとしながらも、雄略朝までさかのぼらせることを躊躇します。倭王武の名をもって中国南朝の宋に送った国書から、雄略天皇の数代前から天皇家の勢力が東西に広がっており、伊勢の重要性が高まっていたこと、記紀の雄略朝の記事には斎王以外にも伊勢に関するものが多くみられること、などから雄略天皇のときに伊勢に深い関係を持ったことは事実かも知れないとする一方で、先の稚足姫皇女事件の問題があることから、結局、伊勢神宮成立史においては継体・欽明朝の時代をより重視するとの考えを示します。

(つづく)








↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする