●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立③
直木氏は、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、天皇家の最高の神社となるのは天武朝以後で、その画期は壬申の乱であったとします。大海人皇子が北伊勢の朝明郡で天照大神を望拝した行為は、伊勢神宮に敬意を表すとともに援助を要請したと考え、伊勢神宮もこれに応えて加勢したと推測します。
去く鳥の 争ふはしに 度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
696年の高市皇子の死に際して柿本人麻呂が詠んだ挽歌の一節ですが、壬申の乱に際して度会から吹いてきた神風によって大海人皇子が勝利して天下を平定した、というこの歌から、伊勢神宮の援助が大きな力になったことを読み取ります。673年に大海人皇子が天武天皇として即位し、大来皇女を斎王に任命し、翌年に伊勢に参向させます。伊勢神宮は天武とともに壬申の乱に運命を賭け、成功したとする著者は、このときに伊勢神宮の地位が確立したとします。
伊勢神宮に関する様々な制度は天武朝以降に整備されたと考えられ、20年に一度の式年遷宮も天武あるいは持統天皇の時に始まったとされます。また、「大神宮」と呼ばれるようになるのも奈良時代に入ってから盛んになり、797年に完成した『続日本紀』では50数例を数えます。神宮司が設置され、その職をほぼ独占した中臣氏やその同族とされる荒木田氏が力を持つようになります。斎王に関する役所として斎宮司あるいは斎宮寮も設置されます。これらの神官職制度の整備によって伊勢神宮は大和政権の管理下に入り、皇祖神の地位を保ったまま国家神へと上昇していったのです。
以上、3回にわたって直木孝次郎氏の伊勢神宮成立に関する説を見てきましたが、南伊勢の太陽神を祀る地方神であった伊勢神宮が、同じ太陽神を祀る天皇家との関係をもつことによって皇祖神を祀るようになり、さらには壬申の乱から天武・持統朝を経て国家神へと地位を高めていったという考えから、この説は「地方神昇格説」と呼ばれたりします。この説には賛同者が多く存在する一方で、異を唱える専門家も存在します。たとえば、平安遷都後の賀茂社が斎院として皇女が派遣されたものの、その祭神が皇祖神とみなされたわけではないことを例に挙げて、地方神が皇祖神に昇格することなどそもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得ない、と厳しく反論する論者もいます。
最後に、直木氏の説はあくまで伊勢神宮成立の話なので、天照大神は最初から皇祖神として存在することが前提になり、その皇祖神を祀る場所が大和から伊勢に遷った時代やその経緯が説かれているにすぎません。唯一、天照大神に触れているのが斎王寮の設置に関するところで、このように書かれています。
「…そしてこの十司であるが、その構成は養老令の後宮職員令にみえる朝廷の後宮の官司に酷似している。斎王が伊勢大神の妃とみなされていたことを物語るものであろう(伊勢大神は女神の天照大神で、女性に妃のいるのは不合理だが、天照大神はもと男神であったと考えられる)。」
天照大神がもともと男神だったことは武光誠氏が言及していました。また、歴史学の大家である津田左右吉は、太陽神が皇祖神となった経緯について「太陽が天にあって国土を照らすという自然現象と、皇室がこの国を統治するという政治形態とが相通じる関係にあるとして、皇室を太陽に擬すことによって太陽神が皇祖神とみなされるようになった」とし、さらに「家々の祖先が男として記されているのであるから、皇室の祖先である皇祖神も男神と考えるのが自然である」として、天照大神はもともと男神であったとする「皇祖神男神論」の立場をとっています。
天照大神が男神か女神かは別にして、大阪で生まれて大阪で育った私には、伊勢で太陽信仰が盛んになった理由がわかるような気がするのです。そしてこの感覚はおそらく河内や大和で暮らした古代人にとっても同様のものだったろうと思います。というのは、大阪や奈良に住んでいると海の向こうの水平線から昇る朝陽を見ることがないため、朝の空をオレンジ色に照らして大海原から昇ってくる朝陽を見たときの感動や感激は格別なものがあります。手軽に各地を旅してそのような光景を見る機会が増えた今でも、その感動は衰えることはありません。河内や大和からはるばる伊勢までやってきて、生まれて初めてこの光景を目にした古代の人々は現代人が想像する以上に感動したことでしょう。そしてこの場所はまさに太陽神の聖地であり、現代風に言うとパワースポットだと感じたのではないでしょうか。ましてや、神が海の向こうからやってくると信じた古代人にとってこの朝陽は神そのものであるとすら思ったことでしょう。とくに天皇家にはその感情が強くあったと想像します。
(つづく)
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直木氏は、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、天皇家の最高の神社となるのは天武朝以後で、その画期は壬申の乱であったとします。大海人皇子が北伊勢の朝明郡で天照大神を望拝した行為は、伊勢神宮に敬意を表すとともに援助を要請したと考え、伊勢神宮もこれに応えて加勢したと推測します。
去く鳥の 争ふはしに 度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
696年の高市皇子の死に際して柿本人麻呂が詠んだ挽歌の一節ですが、壬申の乱に際して度会から吹いてきた神風によって大海人皇子が勝利して天下を平定した、というこの歌から、伊勢神宮の援助が大きな力になったことを読み取ります。673年に大海人皇子が天武天皇として即位し、大来皇女を斎王に任命し、翌年に伊勢に参向させます。伊勢神宮は天武とともに壬申の乱に運命を賭け、成功したとする著者は、このときに伊勢神宮の地位が確立したとします。
伊勢神宮に関する様々な制度は天武朝以降に整備されたと考えられ、20年に一度の式年遷宮も天武あるいは持統天皇の時に始まったとされます。また、「大神宮」と呼ばれるようになるのも奈良時代に入ってから盛んになり、797年に完成した『続日本紀』では50数例を数えます。神宮司が設置され、その職をほぼ独占した中臣氏やその同族とされる荒木田氏が力を持つようになります。斎王に関する役所として斎宮司あるいは斎宮寮も設置されます。これらの神官職制度の整備によって伊勢神宮は大和政権の管理下に入り、皇祖神の地位を保ったまま国家神へと上昇していったのです。
以上、3回にわたって直木孝次郎氏の伊勢神宮成立に関する説を見てきましたが、南伊勢の太陽神を祀る地方神であった伊勢神宮が、同じ太陽神を祀る天皇家との関係をもつことによって皇祖神を祀るようになり、さらには壬申の乱から天武・持統朝を経て国家神へと地位を高めていったという考えから、この説は「地方神昇格説」と呼ばれたりします。この説には賛同者が多く存在する一方で、異を唱える専門家も存在します。たとえば、平安遷都後の賀茂社が斎院として皇女が派遣されたものの、その祭神が皇祖神とみなされたわけではないことを例に挙げて、地方神が皇祖神に昇格することなどそもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得ない、と厳しく反論する論者もいます。
最後に、直木氏の説はあくまで伊勢神宮成立の話なので、天照大神は最初から皇祖神として存在することが前提になり、その皇祖神を祀る場所が大和から伊勢に遷った時代やその経緯が説かれているにすぎません。唯一、天照大神に触れているのが斎王寮の設置に関するところで、このように書かれています。
「…そしてこの十司であるが、その構成は養老令の後宮職員令にみえる朝廷の後宮の官司に酷似している。斎王が伊勢大神の妃とみなされていたことを物語るものであろう(伊勢大神は女神の天照大神で、女性に妃のいるのは不合理だが、天照大神はもと男神であったと考えられる)。」
天照大神がもともと男神だったことは武光誠氏が言及していました。また、歴史学の大家である津田左右吉は、太陽神が皇祖神となった経緯について「太陽が天にあって国土を照らすという自然現象と、皇室がこの国を統治するという政治形態とが相通じる関係にあるとして、皇室を太陽に擬すことによって太陽神が皇祖神とみなされるようになった」とし、さらに「家々の祖先が男として記されているのであるから、皇室の祖先である皇祖神も男神と考えるのが自然である」として、天照大神はもともと男神であったとする「皇祖神男神論」の立場をとっています。
天照大神が男神か女神かは別にして、大阪で生まれて大阪で育った私には、伊勢で太陽信仰が盛んになった理由がわかるような気がするのです。そしてこの感覚はおそらく河内や大和で暮らした古代人にとっても同様のものだったろうと思います。というのは、大阪や奈良に住んでいると海の向こうの水平線から昇る朝陽を見ることがないため、朝の空をオレンジ色に照らして大海原から昇ってくる朝陽を見たときの感動や感激は格別なものがあります。手軽に各地を旅してそのような光景を見る機会が増えた今でも、その感動は衰えることはありません。河内や大和からはるばる伊勢までやってきて、生まれて初めてこの光景を目にした古代の人々は現代人が想像する以上に感動したことでしょう。そしてこの場所はまさに太陽神の聖地であり、現代風に言うとパワースポットだと感じたのではないでしょうか。ましてや、神が海の向こうからやってくると信じた古代人にとってこの朝陽は神そのものであるとすら思ったことでしょう。とくに天皇家にはその感情が強くあったと想像します。
(つづく)
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