●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史①
ここまで伊勢神宮や天照大神を研究する著名な日本史学者5名の著書を見てきました。次は少し毛色の違う建築史学の林一馬氏の論文『伊勢神宮成立史考』を見てみます。林氏は、伊勢神宮の日本建築史上に占める位置の重大さからすればその成立史は建築史学的に看過できない、その成立年代の如何によっては日本の古代建築の歴史的な組立てに甚大な影響を及ぼす、として自らの試見を提示されました。
この論文はこれまでに取り上げた各氏を含む先学研究を包括的に整理して論点を抽出し、論理的な批判を展開しながら自身の考えを主張するものです。すでに何度か登場してもらっているので重複する部分があるかもわかりませんが、あらためて紹介したいと思います。論文から適宜引用しながら確認していきます。
著者はまず、皇大神宮(内宮)が現在地に設立されたのがいつだったか、という一点に絞って主要な説を以下のように年代順に整理します。
①垂仁天皇の治世下、3世紀後半(~4世紀前半)頃…田中卓説
②5世紀後半の雄略天皇21年(477年)…岡田精司説
③5世紀後半の雄略朝以後、とくに6世紀前半の欽明朝を重視…直木孝次郎説
④遅くとも6世紀中葉…西田長男説
⑤早くとも6世紀後半…津田左右吉説
⑥舒明天皇の時代よりもずっと遡ったころ…福山敏男説
⑦斉明天皇3年(657年)…神崎勝説
⑧天武天皇13年(685年)~持統天皇4年(690年)…鳥越憲三郎説
⑨文武天皇2年(698年)12月乙卯(29日)…筑紫申真、川添登、築地康明らの説
⑩奈良朝初め、養老元年(717年)頃…鶴岡静夫説
伊勢神宮はこのうち①の立場で自らを位置づけています。②③⑨はすでに当ブログで紹介したものですが、著者は内宮成立を5世紀後半から6世紀前半とする②や③の説、内宮成立は7世紀後半以降とするものの、内宮の前身的な存在が南伊勢地方のどこかに遅くとも6世紀中頃以前に成立していたとする⑧や⑨などの説に妥当性を認め、これら説の論拠を次の5つに整理して考証に入ります。それぞれ簡単に見ておきます。
論点① 垂仁紀一書にみえる丁巳年
論点② 大和朝廷の東国経略との関連性
論点③ 地方神昇格説の可能性
論点④ 大化前代の斎王記事
論点⑤ 神宮側の史料の解釈について
まず論点①の「垂仁紀一書にみえる丁巳年」に対する考察です。先に見たように岡田精司氏はこの丁巳年を西暦477年であるとしますが、氏がその理由とした朝鮮半島での敗退に伴う国際的危機、5世紀後半の社会的変動や信仰の変質、大和朝廷による東国経営の進展、などの歴史的背景は5世紀後半に限定されるものでなく、それ以降なら多かれ少なかれ該当すると指摘します。また、この一書の趣意は大倭神社の祭祀の由来を述べた所伝であるので、まず大倭神社の起源を検討するのでなければ片手落ちだとする建築史家の福山敏男氏の説を支持します。その上で、大倭神社の文献上の初見が『日本書紀』持統6年であることから、そもそもこの一書の所伝はそれほど古くに形成されたとは考えられないと主張します。これらのことから「垂仁紀一書にみえる丁巳年」を根拠に神宮の成立を5世紀後半や6世紀前半に求める説には従えないと反論します。
次に論点②の「大和朝廷の東国経略との関連性」に対してはどうでしょう。これは特に直木孝次郎氏が神宮成立を考えるふたつの手がかりのひとつとして重視していたことは先に見た通りですが、著者は、大和朝廷にとっての東国経営の重要さやその一拠点として南伊勢地方が注目された時期があったことを否定するものではなく、古代的な戦乱は一面では神々の争いであり、征略に向かう軍団に何らかの神霊が奉じられていた可能性などを疑うものではないとしつつも、それらのことと神宮の創立に何か密接な関係があったことを示す証拠が何一つ見出せないとして、この考えを否定します。そして『巫女の文化』などを著した倉塚曄子(あきこ)氏による「伊勢に皇祖神の社が設けられたのは、なまの政治的・歴史的契機にもとづくものではなく、王権に内在する神話的契機によるのではないか」との主張を支持します。
続いて論点③「地方神昇格説の可能性」に言及します。直木孝次郎氏の「地方神昇格説」は先に詳しく見たのでここでは触れませんが、著者はこの説に対して、何の証拠もないばかりか、そもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得たこととは思われない、と一蹴します。
また論点④「大化前代の斎王記事」について、地方神昇格説や大化前代における皇祖神遷座説が疑問視されるとなると記紀にみられる斎王記事をどう理解するか、著者の考えが述べられます。筑紫申真氏が主張した通り、伊勢に派遣された初代の斎王は天武朝の大来皇女であり、それ以前は実在性が疑われる、または大和の宮廷近傍で祭祀に従事したこと、垂仁朝の倭姫命によって天照大神を伊勢に遷座して伊勢神宮が創建されたというのが『日本書紀』の歴史設定である以上、それ以降の斎王記事はこの文脈に従って改変を受けていると考えられること、敏達6年2月条の「詔置日祀部・私部」にある日祀部は日神祭祀に当たる斎王のために設置された部民と考えられ、6世紀後半には天皇家の斎王制度の経済的基盤が整備され、公的に確立されていたとみなされること、大和の地で歴代の斎王が奉祭していた皇室の氏神はもとから日神であったがそれは未だ天照大神ではなく、より古い皇祖神とみられるタカミムスヒの神(正確にはそれの前身)が該当すること、などがその主な主張となります。
タカミムスヒ(の前身)が日神であり、天照大神よりも古い皇祖神である、と述べられていることが注目されますが、その根拠が示されていないのが残念です。
(つづく)
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ここまで伊勢神宮や天照大神を研究する著名な日本史学者5名の著書を見てきました。次は少し毛色の違う建築史学の林一馬氏の論文『伊勢神宮成立史考』を見てみます。林氏は、伊勢神宮の日本建築史上に占める位置の重大さからすればその成立史は建築史学的に看過できない、その成立年代の如何によっては日本の古代建築の歴史的な組立てに甚大な影響を及ぼす、として自らの試見を提示されました。
この論文はこれまでに取り上げた各氏を含む先学研究を包括的に整理して論点を抽出し、論理的な批判を展開しながら自身の考えを主張するものです。すでに何度か登場してもらっているので重複する部分があるかもわかりませんが、あらためて紹介したいと思います。論文から適宜引用しながら確認していきます。
著者はまず、皇大神宮(内宮)が現在地に設立されたのがいつだったか、という一点に絞って主要な説を以下のように年代順に整理します。
①垂仁天皇の治世下、3世紀後半(~4世紀前半)頃…田中卓説
②5世紀後半の雄略天皇21年(477年)…岡田精司説
③5世紀後半の雄略朝以後、とくに6世紀前半の欽明朝を重視…直木孝次郎説
④遅くとも6世紀中葉…西田長男説
⑤早くとも6世紀後半…津田左右吉説
⑥舒明天皇の時代よりもずっと遡ったころ…福山敏男説
⑦斉明天皇3年(657年)…神崎勝説
⑧天武天皇13年(685年)~持統天皇4年(690年)…鳥越憲三郎説
⑨文武天皇2年(698年)12月乙卯(29日)…筑紫申真、川添登、築地康明らの説
⑩奈良朝初め、養老元年(717年)頃…鶴岡静夫説
伊勢神宮はこのうち①の立場で自らを位置づけています。②③⑨はすでに当ブログで紹介したものですが、著者は内宮成立を5世紀後半から6世紀前半とする②や③の説、内宮成立は7世紀後半以降とするものの、内宮の前身的な存在が南伊勢地方のどこかに遅くとも6世紀中頃以前に成立していたとする⑧や⑨などの説に妥当性を認め、これら説の論拠を次の5つに整理して考証に入ります。それぞれ簡単に見ておきます。
論点① 垂仁紀一書にみえる丁巳年
論点② 大和朝廷の東国経略との関連性
論点③ 地方神昇格説の可能性
論点④ 大化前代の斎王記事
論点⑤ 神宮側の史料の解釈について
まず論点①の「垂仁紀一書にみえる丁巳年」に対する考察です。先に見たように岡田精司氏はこの丁巳年を西暦477年であるとしますが、氏がその理由とした朝鮮半島での敗退に伴う国際的危機、5世紀後半の社会的変動や信仰の変質、大和朝廷による東国経営の進展、などの歴史的背景は5世紀後半に限定されるものでなく、それ以降なら多かれ少なかれ該当すると指摘します。また、この一書の趣意は大倭神社の祭祀の由来を述べた所伝であるので、まず大倭神社の起源を検討するのでなければ片手落ちだとする建築史家の福山敏男氏の説を支持します。その上で、大倭神社の文献上の初見が『日本書紀』持統6年であることから、そもそもこの一書の所伝はそれほど古くに形成されたとは考えられないと主張します。これらのことから「垂仁紀一書にみえる丁巳年」を根拠に神宮の成立を5世紀後半や6世紀前半に求める説には従えないと反論します。
次に論点②の「大和朝廷の東国経略との関連性」に対してはどうでしょう。これは特に直木孝次郎氏が神宮成立を考えるふたつの手がかりのひとつとして重視していたことは先に見た通りですが、著者は、大和朝廷にとっての東国経営の重要さやその一拠点として南伊勢地方が注目された時期があったことを否定するものではなく、古代的な戦乱は一面では神々の争いであり、征略に向かう軍団に何らかの神霊が奉じられていた可能性などを疑うものではないとしつつも、それらのことと神宮の創立に何か密接な関係があったことを示す証拠が何一つ見出せないとして、この考えを否定します。そして『巫女の文化』などを著した倉塚曄子(あきこ)氏による「伊勢に皇祖神の社が設けられたのは、なまの政治的・歴史的契機にもとづくものではなく、王権に内在する神話的契機によるのではないか」との主張を支持します。
続いて論点③「地方神昇格説の可能性」に言及します。直木孝次郎氏の「地方神昇格説」は先に詳しく見たのでここでは触れませんが、著者はこの説に対して、何の証拠もないばかりか、そもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得たこととは思われない、と一蹴します。
また論点④「大化前代の斎王記事」について、地方神昇格説や大化前代における皇祖神遷座説が疑問視されるとなると記紀にみられる斎王記事をどう理解するか、著者の考えが述べられます。筑紫申真氏が主張した通り、伊勢に派遣された初代の斎王は天武朝の大来皇女であり、それ以前は実在性が疑われる、または大和の宮廷近傍で祭祀に従事したこと、垂仁朝の倭姫命によって天照大神を伊勢に遷座して伊勢神宮が創建されたというのが『日本書紀』の歴史設定である以上、それ以降の斎王記事はこの文脈に従って改変を受けていると考えられること、敏達6年2月条の「詔置日祀部・私部」にある日祀部は日神祭祀に当たる斎王のために設置された部民と考えられ、6世紀後半には天皇家の斎王制度の経済的基盤が整備され、公的に確立されていたとみなされること、大和の地で歴代の斎王が奉祭していた皇室の氏神はもとから日神であったがそれは未だ天照大神ではなく、より古い皇祖神とみられるタカミムスヒの神(正確にはそれの前身)が該当すること、などがその主な主張となります。
タカミムスヒ(の前身)が日神であり、天照大神よりも古い皇祖神である、と述べられていることが注目されますが、その根拠が示されていないのが残念です。
(つづく)
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