●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神③
続いて著者は、ここまでの論証で存在が明らかになった天照大神以前の太陽神が、神話の中に痕跡をとどめていないかを探り、心御柱=ヒモロギを依り代とする神の連想から、高皇産霊尊の別名として『古事記』に見える高木大神(高木神)がそれであるとします。『日本書紀』本文では一貫して最高司令神、一書においても天照大神とかかわりつつ、『古事記』では天照大神と並んで司令神とされています。また『日本書紀』の天孫降臨の一書ではその発する言葉に「勅」の文字が使われ、瓊瓊杵尊の誕生では「皇祖」と表現されます。さらに『出雲国造神賀詞』では「神王」とされており、これらはすべて高皇産霊尊が古くは大王家の祖神であったことを示していると説きます。また、宮中で祀られる「宮中八神」の筆頭に神産日神、高御産日神があることも、大王守護神としての伝統に基づくものとします。以上のように荒祭宮に祀られていた古い日神は「高皇産霊尊」であり、より古い名称は「高木神」であったとします。
高木神については筑紫申真氏も『アマテラスの誕生』で、心の御柱によりつく太陽霊であったとし、天照大神はその高木神の巫女であり、カミ妻であったとします。そしてカミとカミをまつるものが同一視され、ついには高木神と天照大神の区別がなくなったと説いています。
著者はさらに、高木神から日女(ひるめ)の神への転換によって太陽神をめぐる神話も大きく変化したとして、『日本書紀』の天岩戸神話の第2・第3の一書に「天照大神」ではなく「日神」と記されること、スサノヲが機殿に生き馬を投げ入れたときに神衣を織っていたのが天照大神自身であったこと、スサノヲが天上に登っていったときに天照大神が武装して雄叫びをあげるという姿は女性とは思えないことなどをあげて、これらは本来は高皇産霊尊にまつわる話だったとします。
そしてこれらの太陽神話は、大阪湾周辺に祭場があった時代=5世紀以前の古い神話と、伊勢に移ってからの祭儀を背景とした新しい神話に区別できると言います。前者は日神の妻と御子が海辺に漂着する神話を中心とするもので、天孫降臨・神武・神功など天皇家の祖先伝承に断片を伝えるだけとします(これについて著者は別稿で論証をしていますがここでは立ち入りません)。一方、後者については、天岩戸神話で天照大神が機殿で神衣を織る場面、常世の長鳴鳥を鳴かせる場面、天岩戸が開かれる場面、あるいは天孫降臨神話で多くの神々を従えて降臨する場面、猿田彦が天孫降臨を迎える場面、さらには猿田彦が伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手を食われて溺れる場面などに伊勢の祭儀の反映をみます。
このように、大王家の守護霊である「日神」が高木神(高皇産霊尊)から日女(ひるめ)の神を経て天照大神に変化した、つまり男性神から女性神に変化したことを精緻に論証した上で、次の①を前提として②~⑤をその理由としてあげます。
①神格化した斎王=ヒルメの神がすでに成立し、日神である高皇産霊尊と並んで祀られるようになっていたこと。
②天皇家の古い祖先神話として、海の彼方より来臨する母子神伝承があり、その母神の伝統的信仰と新しいヒルメの神とはいずれも「日神の妻」としての共通性から両者のイメージが重複したこと。
③古い太陽神=高皇産霊尊は人格神以前の神格で、巫女が昇化したヒルメの神は人格神であり、太陽霊の人格神への発展が人格神ヒルメの神と合一した。
④斎王は天皇家の肉親だから、太陽神の守護霊から皇祖神への発展の過程で、斎王の神格化したヒルメの神と結合しやすかった。
⑤各地で信仰された太陽神(アマテルミタマ)は人格神以前ではあるが、男性とされるのが普通だった。天皇家の守護神をそれらと区別させるために故意に女性化が推進された。
ここまでの精緻な論証に比べると、この部分は少し抽象的であり根拠が薄い印象です。そして著者はいよいよ最後に太陽神である高皇産霊尊が天照大神に変化した時期に言及します。まず、伊勢に祭場が移される以前から日神への斎王的な皇女の奉仕の伝統(トヨスキイリヒメの伝説の如く)があったと考えられるから、6世紀の早い時期に巫女神=ヒルメの神の神格化が完成していたとします。
さらに、天岩戸神話や天孫降臨神話の考察から、これらが成立したと考えられる6世紀時点ではまだ高皇産霊尊が大王家の守護神であり、ヒルメの神に太陽神の座を奪われていないこと、推古朝で宮廷祭祀が発展するとともに、老女帝の存在がヒルメの神の地位を向上させて日神=高木神(高皇産霊尊)と対等に並ぶ存在にまで高められたこと、そしてこのようなヒルメの神の成熟という条件の上に、伊勢神宮における荒祭宮とヒルメの宮との並立に大変革を加え、ヒルメの宮をもって太陽神の祠とし、ヒルメの神を単独の最高神として「天照大神」と名を変えるのは天武朝のことであった、と論証します。
少し詳しくなりましたが、以上が岡田精司氏の説となります。結論だけを言えば、太陽神である高木神(高皇産霊尊)に奉仕する巫女が神格化し、やがて太陽神と合一して天照大神が生まれた、ということになりますが、このとき高木神が消滅したのではなく、天照大神とは別に存在しているということは案外に重要なことだと思います。岡田説に従えば、本来は荒祭宮にそのまま高木神が祀られているはずなのですが、現在の荒祭宮は天照大神の荒御魂が祭神となっています。
なぜ荒御魂だけが別で祀られているのか、同様に和御魂だけを祀る社はないのか、瀧原宮は和御魂を祀っているけど隣の瀧原並宮で荒御魂が祀られているので、これでセットと考えれば納得。内宮には荒祭宮とセットになる神社がないことをずっと不思議に思っています。
なお、史学者の上田正昭氏は著書『大和朝廷』においてこの岡田説を「軽視できない」として、皇祖神としての確立は7世紀後半であるが雄略朝ごろに伊勢地域の大神の祭祀権が掌握された、と概ね支持する考えを示しています。
(つづく)
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続いて著者は、ここまでの論証で存在が明らかになった天照大神以前の太陽神が、神話の中に痕跡をとどめていないかを探り、心御柱=ヒモロギを依り代とする神の連想から、高皇産霊尊の別名として『古事記』に見える高木大神(高木神)がそれであるとします。『日本書紀』本文では一貫して最高司令神、一書においても天照大神とかかわりつつ、『古事記』では天照大神と並んで司令神とされています。また『日本書紀』の天孫降臨の一書ではその発する言葉に「勅」の文字が使われ、瓊瓊杵尊の誕生では「皇祖」と表現されます。さらに『出雲国造神賀詞』では「神王」とされており、これらはすべて高皇産霊尊が古くは大王家の祖神であったことを示していると説きます。また、宮中で祀られる「宮中八神」の筆頭に神産日神、高御産日神があることも、大王守護神としての伝統に基づくものとします。以上のように荒祭宮に祀られていた古い日神は「高皇産霊尊」であり、より古い名称は「高木神」であったとします。
高木神については筑紫申真氏も『アマテラスの誕生』で、心の御柱によりつく太陽霊であったとし、天照大神はその高木神の巫女であり、カミ妻であったとします。そしてカミとカミをまつるものが同一視され、ついには高木神と天照大神の区別がなくなったと説いています。
著者はさらに、高木神から日女(ひるめ)の神への転換によって太陽神をめぐる神話も大きく変化したとして、『日本書紀』の天岩戸神話の第2・第3の一書に「天照大神」ではなく「日神」と記されること、スサノヲが機殿に生き馬を投げ入れたときに神衣を織っていたのが天照大神自身であったこと、スサノヲが天上に登っていったときに天照大神が武装して雄叫びをあげるという姿は女性とは思えないことなどをあげて、これらは本来は高皇産霊尊にまつわる話だったとします。
そしてこれらの太陽神話は、大阪湾周辺に祭場があった時代=5世紀以前の古い神話と、伊勢に移ってからの祭儀を背景とした新しい神話に区別できると言います。前者は日神の妻と御子が海辺に漂着する神話を中心とするもので、天孫降臨・神武・神功など天皇家の祖先伝承に断片を伝えるだけとします(これについて著者は別稿で論証をしていますがここでは立ち入りません)。一方、後者については、天岩戸神話で天照大神が機殿で神衣を織る場面、常世の長鳴鳥を鳴かせる場面、天岩戸が開かれる場面、あるいは天孫降臨神話で多くの神々を従えて降臨する場面、猿田彦が天孫降臨を迎える場面、さらには猿田彦が伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手を食われて溺れる場面などに伊勢の祭儀の反映をみます。
このように、大王家の守護霊である「日神」が高木神(高皇産霊尊)から日女(ひるめ)の神を経て天照大神に変化した、つまり男性神から女性神に変化したことを精緻に論証した上で、次の①を前提として②~⑤をその理由としてあげます。
①神格化した斎王=ヒルメの神がすでに成立し、日神である高皇産霊尊と並んで祀られるようになっていたこと。
②天皇家の古い祖先神話として、海の彼方より来臨する母子神伝承があり、その母神の伝統的信仰と新しいヒルメの神とはいずれも「日神の妻」としての共通性から両者のイメージが重複したこと。
③古い太陽神=高皇産霊尊は人格神以前の神格で、巫女が昇化したヒルメの神は人格神であり、太陽霊の人格神への発展が人格神ヒルメの神と合一した。
④斎王は天皇家の肉親だから、太陽神の守護霊から皇祖神への発展の過程で、斎王の神格化したヒルメの神と結合しやすかった。
⑤各地で信仰された太陽神(アマテルミタマ)は人格神以前ではあるが、男性とされるのが普通だった。天皇家の守護神をそれらと区別させるために故意に女性化が推進された。
ここまでの精緻な論証に比べると、この部分は少し抽象的であり根拠が薄い印象です。そして著者はいよいよ最後に太陽神である高皇産霊尊が天照大神に変化した時期に言及します。まず、伊勢に祭場が移される以前から日神への斎王的な皇女の奉仕の伝統(トヨスキイリヒメの伝説の如く)があったと考えられるから、6世紀の早い時期に巫女神=ヒルメの神の神格化が完成していたとします。
さらに、天岩戸神話や天孫降臨神話の考察から、これらが成立したと考えられる6世紀時点ではまだ高皇産霊尊が大王家の守護神であり、ヒルメの神に太陽神の座を奪われていないこと、推古朝で宮廷祭祀が発展するとともに、老女帝の存在がヒルメの神の地位を向上させて日神=高木神(高皇産霊尊)と対等に並ぶ存在にまで高められたこと、そしてこのようなヒルメの神の成熟という条件の上に、伊勢神宮における荒祭宮とヒルメの宮との並立に大変革を加え、ヒルメの宮をもって太陽神の祠とし、ヒルメの神を単独の最高神として「天照大神」と名を変えるのは天武朝のことであった、と論証します。
少し詳しくなりましたが、以上が岡田精司氏の説となります。結論だけを言えば、太陽神である高木神(高皇産霊尊)に奉仕する巫女が神格化し、やがて太陽神と合一して天照大神が生まれた、ということになりますが、このとき高木神が消滅したのではなく、天照大神とは別に存在しているということは案外に重要なことだと思います。岡田説に従えば、本来は荒祭宮にそのまま高木神が祀られているはずなのですが、現在の荒祭宮は天照大神の荒御魂が祭神となっています。
なぜ荒御魂だけが別で祀られているのか、同様に和御魂だけを祀る社はないのか、瀧原宮は和御魂を祀っているけど隣の瀧原並宮で荒御魂が祀られているので、これでセットと考えれば納得。内宮には荒祭宮とセットになる神社がないことをずっと不思議に思っています。
なお、史学者の上田正昭氏は著書『大和朝廷』においてこの岡田説を「軽視できない」として、皇祖神としての確立は7世紀後半であるが雄略朝ごろに伊勢地域の大神の祭祀権が掌握された、と概ね支持する考えを示しています。
(つづく)
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