古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

続・継体天皇の考察②(継体天皇と所縁のある土地)

2024年09月22日 | 継体天皇
まず、『足羽社記略』を読んでみて意外だったのが、前稿で紹介したような継体天皇自身にまつわる伝承や事績について多くを語っていないことだ。抄本においてはそのあたりが省略されたのかもしれないが、それを確認することはできないので、この抄本をもとに考えていく。

ここでは主に郷名および個別の地名の由来について、継体天皇およびその一族、近親に所縁があると思われる箇所を抜き出して列挙した。『足羽社記略』に記載される順に挙げると次のようになる。それぞれの内容についてはなるべく原文に従いながら、意味がわかりやすくなるように筆者にて現代語に訳した上で、必要に応じて原文に基づいて振り仮名を入れた。地名のうしろの番号については後述する。

敦賀郡
■石田神社 ③
・今は田中村と言う。垂仁紀に石田君の始祖が記され、継体紀には田中皇子が記される。
 (※「田中皇子」は「中皇子」の誤りか‥‥筆者付記)
■矢田野  ①
・応神天皇の娘、矢田皇女の御名代であろう。

丹生郡  
■忍坂(をしさか)村  ⑤
・若野毛二俣王の娘、忍坂姫命(押坂大中姫)が允恭天皇の后となって安康天皇、雄略天皇を生んだ。
・その支流が住んだところ。
■宇須美(うすみ)村  ①
・継体天皇と三尾角折君の妹の稚子媛の間に生まれた出雲皇女の御名代であろう。
■廣瀬村  ⑤
・継体天皇が坂田大跨王の娘の廣媛を妃としたことに由来する。
・ただし、他にも由来と思われる記録があってひとつには決められない。
■佐々生(ふ)村  ③
・三尾君の祖は垂仁天皇の子、磐撞別命であると先代旧事本紀に記す。
・三尾君堅楲の娘、倭姫皇女が四坐を祭るのが延喜式にある佐々牟志神社である。
・今は「生」を「フ」と読むが、もとの読みは「ムシ」である。
■関端(せきがはな)  ②
・継体天皇の妃、茨田連小望の娘、関媛の旧跡だろう。
■太郎浦  ①
・又佐良実は娘の字。その関媛が生んだ太娘皇女の御名代か。
 (※「佐良」を「左に良」と解し、「郎」は「娘」の字であるとの意味か・・・・筆者付記)
■白崎村  ①
・「﨑」の旧字は「坂」であるから、太娘皇女と同腹の白坂活目媛の御名代ではないか。
■小野村  ①
・同じく太娘皇女と同腹の小野稚郎女の御名代か。
■牧谷  ②③
・継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡か。
・後の人が杣山の麻氣の二文字を「牧」と書き換えた。延喜式にある麻氣神社がそれである。
■小健(をたけ)山  ③
・継体天皇の子の安閑・宣化二帝の神霊が鎮座する山で、延喜式にある兄子神社がある。
■雨夜  ③
・越後国丹生郡に鎮座する雨夜神は茨田連神社で、延喜式に雨夜神社とある。
・古事記によれば茨田連は神武天皇の子、日子八井命茨田連の祖である。
 
今立郡
■野大坪村  ⑥
・水無瀬川の岸の松陰は昔、男大迹皇子が猟をした日に必ず馬に水をあげた場所である。
■朽飯村  ⑤  (※「くだしむら」と読むか‥‥筆者付記)
・「朽飯」は「くたかし」の略言である。
・継体天皇の妃、三尾角折君加多夫の妹の倭比売が九高(くたかし)王を生んだ神霊ある場所である。
■御駕庄  ⑤
・今は五箇庄といい、男大迹部(をあとべ)という村があり、今は粟田部という。
・味真野は継体天皇が潜竜のときにおられた場所である。
■勾(まかり)  ④
・勾大兄(安閑帝)は故郷の勾村の名を慕ってその宮を勾の金橋宮と呼んだ。金刺宮とも言う。
・勾は今は真柄村といい、勾大兄が生まれ育った場所は味真野の郷である。
■目子嶽(めこがたけ)  ④
・足羽山の東南にある大きな山で今は部子嶽(へこかたけ)と言い、継体妃、目子媛を祭る山である。
・東麓に足羽川の源があり毎年4月5日に川上御前の祭がある。(※川上御前は和紙の祖神・・・筆者付記)
■茨田(かやた)  ②③
・延喜式にある刀那神社はここにある。継体天皇の皇女、茨田皇女の旧跡である。

足羽郡
■額田郷  ⑤
・今は糠溜(ぬかたべ)という。
・応神天皇の子に額田大仲彦皇子がいて、推古天皇の幼名は額田部皇女という。
・允恭天皇は額に「町」形のつむじがある馬を献上されたことを喜んでその者に額田部の姓を与えた。
■三尾野(みをの)村  ②
・三尾君堅楲の旧跡であろうか。
■直埜(なごの)村  ③
・延喜式に直埜神社があり、三尾君を祭っている。
■足羽東郷脇村  ③
・「分」「別」「脇」の三文字は通じている。延喜式の分(わき)神社がある。
・継体天皇の伯父、伊被知和希・伊波己里和希の御世のことである。
・二神の父の意冨々等王は延喜式にある近江国伊香郡の意冨々良ノ神社で、母は伊久牟尼利止古大王。
・母の名にある止古王は今、徳王と言うか。また、岩倉は伊波和気(いはわけ)の名残か。
・皆、東郷の範囲にあるが、伊被知和希だけが分かれて村の名となった。
■一乗谷赤淵(あかふち)  ⑤
・赤パチとも言う。「フ」と「ハ」は通じている。
・赤渕山にあり継体天皇の伯父、伊波己里和氣の弟の阿加波知君のことを指すが、社は今はない。
■角折(つのおり)村  ②
・角折君の旧跡である。   
 (※角折君は三尾角折君のこと・・・筆者付記)
■雄椎(をほし)村  ④
・角折君を祭る場所がある。 
■下市村  ②
・ここの山沿いにある明神は継体天皇を祭る社である。
・亀山は継体天皇の妃である角折君の娘、稚子媛の旧跡である。
 (※「娘」は「妹」の誤りか・・・筆者付記)
・継体天皇の御冠石(おかふりいし)というものがここにあると言われている。
■弓筈(ゆはつ)社  ④
・継体天皇の水徳の神霊を祭っている。
・天皇が水を納め三大川を定めたとき、弓の筈で岩を突いたところ、冷泉が湧き出た。
・渇死しかけていた役人がこれで救われたことから、この地を酌渓(しゃくたに)と言うようになった。
■黒龍  ③
・延喜式にある毛屋神社は当郷の櫻井の上の山に遷座された。
・桜井は継体天皇の御子、椀(まる)子王の子の櫻井王のことである。
■石場  ①
・足羽社地の名で、継体天皇の祖母、久久留比賣の父、伊自牟良(いしむら)君の御代名である。
・伊自は石のことで、牟良はかへし場のことである。
 (※「久久留」は「久留」の誤りか‥‥筆者付記)
■足羽川大橋  ⑥
・万葉集(巻九1742番)にあるとおり、河内国にも同じ名前の橋がある。
・継体天皇が即位まで過ごした越前国と即位した河内国に同名の橋があり、深い契りがあることだろう。
■福井  ⑥
・足羽社の北の庄に福井の神が鎮座し、また摂津国の継体天皇陵の近くにも福井の村がある。
・継体天皇の神霊の坐す国と陵山の麓のいずれにも福井の名があることは深い理由がある。

大野郡
■大野郡  ③
・延喜式にある國生大埜神社は崇神天皇御子の豊城入彦命の後裔である大埜氏の神霊が祀られる。
■坂戸村  ①③
・継体天皇の妃、廣媛の父の坂田大俣王の御名代である。延喜式にある坂門一事神社がある。
■伊振嶽(いふりがたけ)  ④
・継体天皇の母の振媛を祭る山である。
■荒嶋嶽  ③
・延喜式にある荒嶋神社がある。継体から敏達までの朝廷に重臣として仕えた物部氏の神霊が祀られる。
■若子(わかこ)  ①
・継体天皇の妃である稚子媛の御名代であろう。

坂井郡
■旧市村  ①
・圓淵(つぶらがふち)は継体天皇と荑媛の間に生まれた二番目の圓媛皇女の御名代であろう。
・圓淵の上流にある稚綾という淵は同じく一番目の稚綾姫皇女の御名代であろう。
■久米田  ③
・延喜式にある久米田神社は継体天皇の棟梁の臣である大伴大連の社ではないか。
■椀子(まるこの)岡  ②③
・継体天皇の子、椀子王の旧跡である。その神霊は延喜式にある国神村(今は国兼)の国神神社にある。
■檜山隈坂(ひやまくまさか)  ④
・継体天皇の子、宣化天皇の御座所である。大和での宮は故郷の名をとって檜隈廬入野宮と呼ばせた。
■本荘(ほんぜう)  ⑤
・「本」の旧字は「誉」。応神天皇の名前は誉田で、本庄(本荘)は誉田の荘の中を略したものである。
・十の郷で順に行われる春日祭がある。開化天皇が春日宮、雄略の娘が春日太娘、仁賢の娘も春日皇女。
・誉田荘の春日社と言えば歴代天皇の父母の始祖が並び、その春日祭の最終日は足羽祭である。
■二面(ふたをもて)村  ⑤
・「二面」は「二俣」が転訛したもので、三国公等の祖に若沼笥二俣皇子がいる。
■黒目(くろめ)村  ①
・継体天皇の祖母、久留媛の御代名である。
■雌鳥(めとりの)浦  ①
・今の免鳥浦である。応神天皇の娘の雌鳥皇女の御名代ではないか。
■糸崎(いとさきの)浦  ③
・応神天皇の妃、糸媛の神霊のある所ではないか。延喜式にある糸﨑神社である。
■佐野  ②
・旧の字は「沙祢」で「祢」と「野」が通じることから佐野と言うか。
・意冨冨杼王の弟の沙祢王の旧跡である。
■市皇子  ②
・今は一王子村と言い、継体天皇の子、大市皇子の旧跡である。
■雄嶋  ③
・延喜式にある大湊神社があり、三尾君等の祖神である。
・今は三尾大明神と言って、継体天皇が治水によって三大川を開き郡郷を定めた功績を祭る神霊である。
■九頭龍川流域  ①③
・川の途中の阿居の地は、応神天皇の三代孫、阿居の王の御名代であろうか。
・延喜式にある英田神社は英田(あやだ)の地にあり継体天皇四代孫の薙波王の神社である。
 (※「薙波王」は「難波王」の誤りか‥‥筆者付記)

以上のように、継体天皇およびその一族、近親に所縁があると思われる箇所は全部で延べ55カ所(敦賀郡2カ所、丹生郡12カ所、今立郡7カ所、足羽郡12カ所、大野郡6カ所、坂井郡16カ所)となった。内容別に整理すると次のようになる。(番号は上述の地名のうしろの番号と同じ)

①継体天皇の祖先、后妃、子女など一族の御名代の地 12カ所
②旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地 9カ所
③一族に由来のあるとされる式内社が鎮座する地   17カ所
④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地 6カ所
⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地  8カ所
⑥その他                     3カ所

これらのうち①②③について次稿以降で内容を確認していく。なお、「織田文化歴史館」のWebサイトに掲載されている地図をお借りして越前国内の各郡の位置関係を確認しておく。


越前国各郡と敦賀郡各郷の位置を示す地図
(「織田文化歴史館」Webサイト)


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
織田文化歴史館Webサイト
 (https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/) 
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)





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